子供たちに顔向けできない先生の事件

東須磨小学校の例の事件は、結局は神戸市議会によって有給休暇中の給与を支払わないということになった。
法律を遡及適用してまで公務員の給与を剥奪するなど、法治国家としてそれでいいのかどうかという話はあるが、国民感情としてそれで納得するのであれば、もうそれでいいのかもしれない。
神戸市は「法で裁けぬ悪を斬」ったのだ。日本人の民度に相応しい裁きであり、おそらくはこれからもこのような事例に人々は快哉を叫ぶことであろう。

「子供たちに顔向けできない事件を起こした教師はこのくらいされて当然」と。

さて、そんな「子供たちに顔向けできない」事件が67年前の東京で発生した。
場所は「3年B組金八先生」のロケ地としても有名な荒川の河川敷。
その主演の武田鉄矢はまだ博多の3歳児で物心付くか付かないかというほどの頃である。

昭和27年5月11日の毎日新聞では「荒川放水路にバラバラ死体」という見出しで、「昭和7年以来20年ぶりの猟奇バラバラ殺人事件」として報じられている。
この「昭和7年」とは、拙ブログでもかつて触れた寺島町のバラバラ事件のことである。

荒川放水路に架かる西新井橋と江北橋の中間あたりの天然のプールとして使っている場所で、小学生の女児が首のない死体を見つけ、大騒ぎで近所の靴屋の女性に知らせたのだという。
それを近所の派出所に届け出たのがこの事件の端緒であった。

発見された死体はすぐに東大法医学教室に運ばれて司法解剖に付された。
その結果「相当肉付きは良いが、重い物を持つ仕事ではない男子」という所見が出された。

先述の寺島町のバラバラ事件における捜査一係長はこの時東京区検の副検事の地位にあったが、毎日新聞の取材に対し「まずは被害者の身元を調べること」というコメントを残している。

この日の夕刊でもまだその身元は割れていない。
分かったことといえば、被害者の「下腹部」についてであり、それは「包茎」ということであった。
後々分かることとしてこの被害者は酒乱のDQNだったとはいえ、こんな事まで新聞に書き立てられてはかなわない。

さて、この記事以外の時代背景としては、日本共産党は野坂参三の「愛される共産党」宣言があったとはいえ「山村工作隊」「栄養分析法」の時代。
手榴弾だの火炎瓶だの、そんな荒事を盛んに行っていたのは確かである。
この1月には札幌で警察官を射殺する白鳥事件を起こしたと言われている。
冤罪説など色々議論はあるものの、これに対し日共北海道委員会は「英雄的行為」として称賛しているのは確かである。
ちなみに、このような一連の共産党による事件が契機となって破防法成立の運びとなった。
2019年の今もなお、日本共産党は破防法による監視団体であり、委員長の志位和夫は「家族旅行にも公安がついてくる」状態であるという。

また、大相撲の夏場所についても報じられており、先場所の優勝は羽黒山で、この場所では横綱の照国が糖尿病治療のために休場ということが報じられている。
まだ土俵の四本柱が現在の時代であり、この夏場所をもって「土俵が見にくい」と撤去されて、次の昭和27年秋場所からは吊り屋根になることとなる。
ちなみに、この四本柱撤去を「テレビで見にくいから」とテレビに関連させる説もあるが、テレビの本放送開始は翌昭和28年2月1日のこと。この事を考え合わせると、この説がどこまで本当かは疑問が残るところである。

翌5月12日の毎日新聞では新たな目撃証言を報じている。
町屋に住む東京電機大学の学生が、9日夜21時15分ごろ川口市の親戚宅から戻る際、新荒川大橋で何か大きな箱を荒川に投げ込み、慌てて赤羽方面に引き返す男を見たのだという。
町屋から川口市元郷ということであれば、日暮里まで歩き、当時72系だったであろう京浜東北線で赤羽まで行き、赤羽から新荒川大橋を渡って行っただろうか。
いや、町屋からということであれば都電の27系統があるではないか。これなら町屋から赤羽まで乗り換えなしで行くことができ、なおかつ赤羽終点は北本通り上にあり、新荒川大橋にも近い。

そして新聞にはお定まりの犯人推理である。
この場合、被害者もまだ特定されていないので、被害者についても推理されているが、「密輸業者ではないか」「動物死体を扱う者ではないか」「大陸仕込みの軍医ではないか」と、好き放題の推理にも時代層が現れている。

また、東大法医学教室の解剖結果では「長時間の監禁はされていない」「殺害は食後5時間程度」という結果がもたらされた。

死体は新聞紙に包まれていたのであるが、そのことから意外なことがわかった。

それは、新聞紙の紙面から配達区域が荒川区・北区・板橋区になるのではないかということである。
まだ、4月21日から5月4日まで、日付が連続していることからも、凶行の行われた場所で毎日新聞が配達されていたのではないか、という推理がなされた。

この紙面には、その荒川区の出身のフライ級ボクサー白井義男が、当時の世界王者ダド・マリノとの対戦を控えてトレーニングに余念がない様子を報じている。
この対戦は1週間後の5月19日に行われ、結果としては白井の判定勝ちとなる。
この5月19日は「ボクシングの日」となっている。そのくらい日本のボクシング史に記銘される日であったということであろう。

また、埼玉の坂戸では東武東上線の電車と進駐軍のジープが衝突するという事故も発生している。
サンフランシスコ講和条約が発効して1ヶ月しか経っていなかった頃、まだ米兵はやりたい放題だったようではあるが、事件や事故を起こせば報道されるようにはなっていた。

そして5月13日の夕刊では、捜査に進展があったことを報じている。
複数の目撃者が「墨田川で首や手足を見た」というのである。

・5月3日、白髭橋の下流で首らしいものが流れているのを見たが、最近の報道を見て「もしかしてあれが」と届け出たのが(葛飾区の靴工員)
・5月13日10時30分頃、厩橋の上で首らしいものを見た(台東区の銭湯雇人)
・5月13日11時頃、吾妻橋で腕らしいものを見たと市川署に届出(早大ボート部員)

ただ、東京電機大生が新荒川大橋から何かを投げ込んだのを見たというのが9日夜のこと。
それを考え合わせると、辻褄が合わないような気もするが「首だけ先に投げ込まれたのでは」という推理をしていた。

また、3番目の証言に出てくる早大ボート部員は、のちに読売新聞に入社し、JOC理事にまでなっている。

他の記事に目を移すと、それまで「死病」と恐れられていた結核について、アメリカで新薬が成功したというニュースが入ってきている。
これは歴史的にも画期的なニュースである。

ただ、肝心の墨田川の首であるが、警察が発券することはできなかったようである。

その首の発見が報じられたのは、5月15日夕刊のことである。
発見したのは50代の農業男性で、警察から「よく注意して見ていてくれ」と言われていたのだという。
場所は胴体が発見された「日の丸プール」の向こう岸で、やはり数枚の毎日新聞に包まれていた。

先述の目撃証言よりもはるかに上流側ということになる。
そうすると、彼らが見たものはまた別の何か、という結論になるだろう。

他の記事に目を移すと、裁判所で村人が総出で裁判官を殴るという事件が発生している。
現在大阪地裁堺支部で行われた裁判は、現在は羽曳野市となっている高鷲村で政令325号違反を行った村人の裁判で、赤旗を掲げた村人が裁判所を取り囲み暴行を加えたのだという。
政令325号とは「占領目的阻害行為処罰令」のこと。
この被告の村人はなにがしか進駐軍の不興を買う行為をして逮捕され起訴されたのだろう。
だがこの政令325号、ついこの1週間前の5月7日に廃止されているのだ。
廃止された法律で裁かれるというのもなんだかおかしいような気もするのだが。。。

そして被害者の身元の判明が報じられたのは翌5月16日のこと。

志村警察署の巡査が5月7日から行方不明であり、もしかして?と思って西新井警察署まで確認に行ったら何かその通りっぽい、ということのようで、サブタイトルが「極秘で捜査始む」とは言うものの、新聞にここまで書かれたら極秘じゃないだろっていう・・・

で、この辺を、結婚2年目になるその警官の奥さんに聞くと、家出の時は21時頃酔っはらって帰宅し、「休眠暇を取るよう連絡してくれ」と言ったまま帰って来なかったと言う。
普段の生活はアル中そのもので飲み屋に借金は3万円あるという。
そればかりか妻に内緒の借金が数万円あるという始末であった。
また、同僚の間でも変人という評判が立っているということであった。

身元に関する疑問は、この日の夕刊が出る頃には解決していた。
やはりこの警官だったのだ。
新荒川大橋の上流の東北本線の鉄橋の足場で両腕が見つかり、指紋が一致したのである。

発見者である工事人夫は「最初犬の死体かと思った。現場におりて拾ってみたら人間の手だったので届けた」という。

事件の発生場所は、被害者の住所と包まれていた新聞から、板橋区内ではないかとの見立てをしていた。

そして翌17日の新聞で急転直下、妻の逮捕で幕を閉じることとなる。

最初は頑に犯行を否定していた妻も、血痕の付いたたらいやカーテンを突付けられると隠し切れなかったようである。

ところで逮捕された妻、職業は小学校教諭だというのである。
さすがにそんな「聖職者」にこれだけの大それた犯罪はできまい、ということで正犯は他にありとにらんでいた。

妻のプロフィールとしては、大阪出身であるが戦災で山形県の今泉に疎開し、就職は大阪に戻り小学校教諭をしていたが、結婚により東京へ出てきて、板橋区の小学校の教諭をしていた、というもので、職場での評判は悪くなかったようである。
そして今回の犯行に際しては、山形の実家に宛て「今回のバラバラ事件でご飯も喉に通らない」と言った手紙を書いていたようである。

ただし、この時点では犯行を否認している。

ただし、この日の夕刊が出る頃には自供を始めていた。

頑強に否定していた妻も、事件の核心に触れられ、一部の自供を始めたと報じられている。
具体的にどの点について自供したのかは不明。

この時点では、妻の兄にも容疑が掛かっていた。
しかし、兄が言うには「妹と住む弟に来て欲しいと言われたので妹(妻)宅に行った。そしたら旦那が家出しているということだったが、『別れたいと思っていたんだろうからちょうど良かったのでは』と言っておいた。今考えれば、あれはなにかを告白したかったのではないか」と。

そして、ここでまた一つ重要証言が。
妻の勤務する学校の小使が、「5月8日の夜、学校の自転車を貸してほしいというので貸した。翌日返してもらいに行くと、もう1日待ってほしいというので10日に取りに戻った」と。
この自転車を死体遺棄に使った疑いが濃厚になった。

そして事件の全貌が報じられるのは、翌18日のことである。

被害者である夫との出会いは、大阪市内の小学校教諭をしていた頃で、「母と弟を養ってくれる」という条件で結婚。
しかしいざ結婚してみると、酒や女でトラブルが絶えない。
別れ話を持ち出せばピストルで脅す始末。
こんな夫とこれからも暮らすくらいなら、殺した方がマシだと思うようになった。

そんな5月7日のこと。
この日は22時から夜勤があるというのに、21時ごろ酔っ払って帰ってきた。
そしてどこかへ出かけるという。
「私が共稼ぎでこんなに苦労してるのに、家庭に使うお金はあっても私に使う金はないの!?」
「俺が好きな事をしてなにが悪いんだ!」(ボカッ ボカッ
「わわわ、分かったわよ。そんなに酔っ払ってるなら出勤できないんじゃない?」
「じゃもう寝るわ。署にはお前から電話しとけ」
ヘナヘナ、、、

いびきをかいて寝る夫の枕元の母の髪にはめっきり白髪が増えている。
「面倒を見てくれる」はずの夫になんでここまで苦労させられないといけないの・・・?

気が付いたら夫の枕元で麻縄を握って立っていた。
もう引き返すことはできない。
悪縁を自ら断つ時が来たのだ・・・

そこへ母が起き出した。
「何てことを!」

母と抱き合って泣き明かしたが、とにかく死体となった夫をどうにかしないといけない。
差し当たり、柳行李に入れて押し入れにしまっておくことにした。
この時点で、同居する弟もこのことには気付いていない。

8日の朝、母がナタと包丁を買ってきてくれた。
大ダライの上にタライを乗せて死体をバラバラにする作業をする。
下の階に住む大家さんに気づかれないだろうか。
首を切る時は身震いがしたが、腕は肩の関節を外すと楽に切ることができた。
金盥に溜まった血は母が裏の新河岸川に流してきてくれた。
そしてその日の夜は、バラバラにした死体を新聞紙や油紙に入れて押入にしまう事にした。

9日、死体を捨てる日が来た。
夜19時、妻が胴体・ナタ・包丁を持ち、母が首・腕を持って新荒川大橋で待ち合わせる。
そしてしばらく戸惑ってから思い切って新荒川大橋から死体を投げ捨てた。

残り足は、日が明けて10日の深夜2時頃に、近くの戸田橋から投げ捨てて、愛憎に満ちた夫との永久の別れを遂げたということである。

まさか「聖職者」である学校教諭から、事もあろうに殺人犯を出してしまった。
この事をどう子供たちに説明するというのか。

殺人犯となった女性教諭の父は、校長に涙ながらに謝罪に来た。

担任を受け持っていた1年生のクラスの後任に決まった22歳の教諭も、この事件をどのように子供たちに説明すべきか悩んでいた。
「幼い日の印象は強烈に残っているだろうから・・・」

後年「ながら族」という流行語を生んだ小児科医の木田文夫は「自分にも小学生の子供がいるが、『悪い酔っ払いを押さえつけようとしたら死んでしまった。本当は警察に突き出すのが正しいのだが、そうすると牢屋に入るので、それが怖くて殺してしまったのだ』と教えている」と。
確かにこのように説明するのが子供たちも納得できるだろうか。

さて、この足跡を辿るダークツーリズムは、1ヶ月に1回だけ運行される「ゆらぶら便」で行くことにしようと思う。
ただし、惨劇の家の跡も辿ることにしたい。

本来であれば、犯行現場から小豆沢の渡船場に歩いていければいいかと思ったのだが、先般の台風で壊滅的な被害を受け、浅草寺二天門前からしか受け付けていないのだという。

そうなると、9時の浅草寺二天門前出発までに蓮根の現場に行っておきたい…ということで、行動開始は朝5時台。
11月ともなると全く暗い。
決死モデル:チームWBラジエッタ

それでも武蔵野線は人がある程度乗っている。
実は今日の仕事は徹夜案件なのだ。
そんな日にここまで早起きさせられるというのはちょっとないので、寝れる時に寝とくことにしましょう。

そして武蔵浦和に到着し、埼京線にのりかえる。
武蔵浦和始発というのがあるようだが、もう満席となっているので、大宮から来たのでさっさと行くことに。

そして浮間舟渡に到着。
ホームからは東北新幹線を見ることができる。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

勿論、事件当時はこの駅は無かったし東北新幹線だって無かった。
交通機関といえば都電のラストナンバーである41系統が志村橋から巣鴨までを中山道沿いに結んでいた。

志村橋といえば、事件では盥の血を捨てた場所となる。

志村橋を渡って最初の信号を右に、つまり西に入って工場の壁沿いに歩くと現場となる。

現場は普通の民家となっており、ベランダで主婦が布団を干している。
ちょっとここで写真を撮るのはさすがの自分でも気が引けるので、少し遠くから撮ることにする。
決死モデルチームPウメコ

そしてあとは蓮根駅前通りを駅方向え。
都営三田線の着工により、都電志村線は廃止になったのである。

途中には「競輪観世音菩薩」というのがある。

蓮根駅は高架駅となっており、いかにも郊外電車といった面持ちである。
朝の通勤客で満員の状態であるが、常磐線ほどではない。
決死モデル:チームPさくら

志村坂上から地下となる。
志村坂上といえば、都電の頃は18系統が神保町まで通っていた。
正しく18系統の後裔が都営三田線ということになる。

その神保町からは都営新宿線に乗る。
馬喰横山で乗り換えやすいように先頭車に乗ったら、ドア脇の女性が怒気もあらわに去っていく。それも悪意あり気にぶつかって来た。
どうやら女性専用車だったようである。
小川町に到着するまえに退散しましょ。

そして馬喰横山から都営浅草線に乗る。
都合、都営3線だけを乗り継いで浅草まで来たことになる。

朝食は松屋に行ったが、野菜が残飯のような匂いがした。

そして神谷バーや松屋(デパートの方)を通り抜け、二天門前の船着き場え。

今回の船着場は、いつもコミケに行く時に乗る吾妻橋のたもとの船着場ではなく、東武線のガードよりさらに北にある、
そしてまた、14時過ぎにこの二天門前に到着するまで食べ物の販売は無いというので、予め買っておかないといけない。
ということで最寄りのコンビニを探したのだが、結局東武線のガードを再び潜って、浅草駅の脇にあるヤマザキデイリーストアに行くしかなかった。

さて、買うものも買ったので出発しましょう。
時刻としては9時10分。
この二天門前が始発というわけではなく、向こう岸の墨田区役所前が始発なので、そこからこちらに向かってくる。
決死モデル:チームWB嵐山

果たして乗り込むと、船の上のデッキに出ることができない。
これはなぜ?
曰く「千住大橋の潮位によってはデッキに出ると危険なので千住大橋を過ぎてから開放します」と。
なるほど、今時の橋梁は河川交通を前提としては建造されていないか・・・

千住大橋を過ぎるとデッキが解放される。
客はゾロゾロと上に上がって行く。
客としては、老夫婦とオタクが主立っている感じ。
もちろん自分は後者である。

遊覧船「あじさい」は墨田川を北上していく。
普段は遊覧船が走らないコースである。

墨田川の最上流というのは、荒川から分流する岩淵水門であるが、まるで墨田川の上流であるかのように引き続き新河岸川が

本来乗る予定だった小豆沢の渡船場は、乗り場に潮が満ちていて、到底乗れる状態ではなかった。
ここから引き返して、岩淵水門をくぐって荒川に出ることになる。

さすが荒川は奥秩父に源流を発する大河である。
向こうに新荒川大橋が見える。
決死モデル:チームR真夜

今の橋は昭和41年に架け替えられたものであるが、まさにあそこから死体を投げ捨てたということになる。
なるほど、あそこからこのような大河に死体を投げ捨てれば、永久にその犯跡を覆い隠すことができる・・・ という気にもなったであろう。

「あじさい」は悠々と荒川を下って行く。
かつては千住大橋を「大橋」と呼んでいたという。
それが、都内に橋が増えて「千住大橋」と名が付いたという、いわばレトロニムということになる。
そのくらい、大河に「橋をかけること」自体が至難の業だったのだ。

さて、いよいよ今回の旅のメインとなる日の丸プールの跡地が見えてきた。
決死モデル:チームYジャスミン

そもそもなぜ「日の丸プール」なのか。
そのあたりを調べたホームページによると、戦前は水練場だったのだという。
しかし、戦後になりあのようなバラバラ死体までが漂着したとなると、さすがに誰も泳ごうとは思うまい。
その時点で用途廃止したのではないだろうか。

事件発生当時は扇大橋は掛かっておらず、当然日暮里舎人ライナーも開通していない。

現在はパークゴルフ場になっていた。

さて、日の丸プールを過ぎてしまうともう旅もフォロースルーになってしまうのではないか・・・という気もするが、なにぶん、川から海へ出る航路なんて初めてである。

とはいえ、今晩は徹夜案件も控えており、寝れるのであれば寝ておきたいところ。

気付いたら葛西臨海公園に着いていた。
見渡すと毎月初めに行く辰巳のプールに行く際に渡る辰巳橋も見える。
反対側には東京ディズニーランドのスペースマウンテンやホテル群も見える。
決死モデル:チームR小沢

なかなかどうしてこれは素晴らしい。

そして「あじさい」は海を走る。
・・・とはいえ、完全に海に出るわけではなく、湾岸を両手に見ながら進んでいく、という程度である。
夢の島の人工島の間を縫って走る感じで、陸地と島を結ぶ東京ゲートウェイブリッジも観ることができる。
決死モデル:トルソーさんナイ

かと思えば先日徳島へ行く時に乗った有明の桟橋も向こうに見える。

そしてコンテナターミナル。
日本の・・・少なくとも東京の貿易を支える港がここにある。

そしてレインボーブリッジが見え、フジテレビが見えるとお台場海浜公園の桟橋となる。

そしてお台場海浜公園に到着。
この船は浅草二天門前まで戻るが、徹夜案件のためにはここで降りた方が良い。
そしてここから先は何回も行っているので今更目新しくもない。
決死モデル:トルソーさん丸尾

ということで、この旅はここで終わり、次なる用件に向けて急ぐことに。

 

 

 

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