青葉繁れる前の季節

井上ひさしの小説に「青葉繁れる」という作品がある。
これは、仙台一高出身の井上ひさしがその青春時代を小説化したものであり、後年森田健作主演で映画化もされている。

確か中学校時代に読んだのだが、戦後の男子高校生のアホな青春群像に腹を抱えて笑ったものだった。

ただ、後年になると「やっぱりあれは良かったんだろうか」と思うようになった。
ああいうのを「青春」って言ってよかったんだろうか。いろんな人に迷惑かけて、いろんな人を傷つけて・・・
それをレビューで言い表している人がいた。

いわく、

この本は、あまりの男尊女卑っぷりにげんなりさせられた。
ほかのレビュワーの皆さんが書いている「ユーモラスでバンカラな青春☆」的な部分は私も楽しめたのだけど、やはり全体としては、その男尊女卑っぷりが気になった。
主人公らが女子の顔に点数をつけているのは、別にいいと思う。オバカな男子校生目線で描かれてるんだし、実際問題、現実はこんなもんだろう。だが、デートレイプ未遂をおかした男子校生のところに、女子校の女性教師がやってきて憤るのを見て、男子校の校長がそれをからかうのはどういうことか。「まるで先生が襲われたかったみたいですね」だなんて、失礼な。それに、「ついていった女子も悪い」とセカンド・レイプ発言をする校長をまるでうまいことを言ったかのように持ち上げる、小説の地の文もどういうことかと。小説全体が、「うざいババア教師を追っ払って、やったね!」的なトーンで進んで行くのには、めまいがしましたよ。
1950年が舞台、1970年代初めに書かれた小説ということで、おのずと時代の限界はあるだろうが、後味が悪かった。弱者への優しい目を忘れないいつもの井上さんはどこに行ってしまったのか、と残念に思った。
でも井上ひさしさんのことは好きだけど、だからこそ、この小説にはあえて辛い点数をつけておく。
あと、上のような記述がガンガン出てくる小説に、「ユーモラスでバンカラな青春☆」的な世評しか与えられてない日本の現状って……と思うと、ダークな気持ちになった。やっぱりフェミニズム書評ってまだまだ存在意義があるんだろうな。うざいフェミのオバサンだと思われ嫌われるリスクをおかしても、やっぱり異議申し立てはしないとなー、なんて思いました。

・・・と、それはともかく、昭和9年生まれの井上ひさしが高校3年生だったというので昭和27年。
その昭和27年の作中では、主人公らが小牛田に犬を届けに行こうとする。

昭和27年の春浅い小牛田―――
現実世界では正にここで、陰惨な事件が発生していたのである。

昭和27年2月14日の河北新報の扱いは極めて小さなものだった。

「小学生行方不明」。
それは、2月12日に小学生が登校したまま、夕方になっても帰ってこない、という小牛田地区署への届け出からだった。

経緯としては以下の通り。

・13時ごろ友人と帰宅途中、草履袋を忘れたからと学校に取りに戻る。
・13時20分ごろ学校を出たまま行方不明。
・その時刻、通学路には30歳ぐらいの女が絵本を売っており「一緒に行かないか」と言ったことを話していたと言い、容疑線上に上ることになった。

他のニュースに目を移すと、仙台鉄道管理局が公舎(社宅)を完成したという。拙ブログでも行ったことのある中野の公団住宅(昭和26年)によく似ている。

最初の報道から2日。
2月16日の河北新報ではかなり悲観的なニュースとなっている。

2月15日、小学校の近くで被害児童の使っていた算盤と、血の付いた紙を発見んしたというのである。
これは数少ない物証として鑑定に回されることになった。

また、被害児童の足取りは掴めず、犯人は小牛田町内に潜伏しているのではないかという見立てがなされていた。

ところで社会面のトップでは、イギリス国王ジョージ6世の崩御による大喪の礼に関するニュースを報じている。この後を襲ったのが現在も続くエリザベス2世の治世となる。そのエリザベス2世の写真も載っているが、この時点で25歳の若さであった。

2月17日の河北新報では、14日に脅迫状が来たこと報じている。
その脅迫状とは「宮城県警察史」によれば14日の朝8:30に届いたもので消印は小牛田局、文面は 以下の通りであったという。

アナタノ子息アツカツテオリマス、身代金二拾万円左ノ方法ニテ持産セラレタシ
一、子息ノ父親ハ二月十七日二十二時二山神神社ノ鳥居ノムカッテスエノ路(図二示ス)二金ヲ贋キ五分以内二自宅へ帰ラレルコト
一、金ハ現金ニテ千円札モシクハ百円札トス、ソレヲ油紙ニテツツミソノ上ヲ風呂敷ニテ包ムモノトス
一、金ヲ持ツテ来ル場合二父親以外八家ヲ一歩モ出テナリマセン。又コノコトハ家族以外ノモノ(ドノヤウナ種類ノ人間ニモ)知ラセテハナリマセン。
金ヲ持ツテ来ル時間二神社附近ニアナタ以外人影ヲ認メタ場合又ハ金ヲ取りニュクモノニ対シ何カが起キタ場合ニハ家族以外ノ誰レカニ知セタト思ヒマス
ソノ金ハ十二時間以内二私ノ手二入ルハズデスガ無事二私ノ手二人ツタ場合ニ八二十時間以内二子息ハオ返シマス
一、右ノーツデモ違約ガァレバ子供サンハタダチニ殺ロサレマス、モシスベテが無事二済メバ子息無筋デカヘラレルコトデセウ、クレグレモ間違ヘノナイ様アナタノタメニモ子供サンノ為メニモノゾミマス

(地図は宮城県警察史より)

驚いたことに、このことはこうして新聞に報道されているのである。
犯人だってこれじゃ身代金を受け取れたものではなかっただろう。

誘拐事件に関して報道協定ができるのは、この事件の8年後の昭和35年の雅樹ちゃん事件のことであり、実際に適用されるのはそのさらに3年後、都合この事件から11年後の昭和38年の吉展ちゃん事件のこととなる。

小牛田の町ではこの事件の話題でもち切りで、「金目当て」「怨恨」などと噂していた。
そして宮城県の公共施設の館長を務めており、地域では上流の生活を送っていた被害児童の両親は、見舞客の応接に追われていた。

果たして18日3時の身代金受渡しはうまくいったのか。

このようにいちいち新聞記者が張り付いた状態では犯人だって現れようもなかったであろう。
結局、誰も来ないまま、寒空の下肩透かしを食うということになってしまった。

かたや、小牛田小学校のPTAでは、「関わり合いになりたくないから言わないだけではないか」という見方をしており、それならと匿名で回答できる質問書を町内各戸に配ることにした。

質問の内容としては以下の通り。
・被害児童を見かけなかったか。
・被害児童を連れ去った人を見なかったか。

ところで、この日の社会面トップは「初任給は上がったけれど」という、給与の男女格差について触れた記事となっている。
給与の男女格差を問題にする声は、既に戦後すぐに出ていたことが見て取れる。
この男女格差は、60年以上たった2020年になってもなお日本では解決されておらず、国際比較でも下位に位置付けられている。

19日には国警県本部に対し警察犬の出動を要請している。

果たして出動した警察犬の結果は、小牛田駅の4番ホームに行きついた。
それは右側が東北本線上り(仙台方面)、左側が石巻線方面であり、犯人はいずれかの列車で高跳びしたのではないかという見立てがなされた。

隣の記事では、富士銀行千住支店のギャング事件について触れている。
この富士銀行ギャング事件については拙ブログでもふれており(2018.5.20)、逆に本エントリの主題である小牛田の誘拐事件についても記事中で触れている。
サンフランシスコ講和条約発効前の「Occupied Japan」であったが、犯人が外人であることは明確に書かれている。一時期は、米兵の犯罪はGHQに検閲されて書けないということがあったそうなのだが。

また、その隣には米軍第24師団が苦竹のキャンプに駐屯する旨が報じられている。
これは、冒頭に紹介した「青葉繁れる」でも、たびたび出てくる存在となっている。

事件の発生から2週間が経ってもなお、行方不明になった児童の行方は杳として知れなかった。

2月26日の河北新報では、母親の悲痛な声が載っている。
前日25日に、仙台中央放送局(現在のNHK仙台)で録音放送され、東北各県に向けて放送されたのだ。

そして地元小牛田では、改めて井戸や池などの捜索がなされていたが、手掛かりになるものは全く見つからない状態であった。

他のニュースに目を移すと、日本共産党が各地で騒ぎを起こしていることが報じられている。
日本共産党は前年の昭和26年10月16日の第5回全国協議会(五全協)で「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである」という「51年綱領」が採択され、暴力革命路線を取っていた。

そしてこの年の1月26日には札幌市警の警備課長が射殺される「白鳥事件」が発生しているが、この記事では「札幌事件」として報じられている。
このことが意味するのは、後年有名になる事件でも、発生当初は各地で発生していた事件の1つに過ぎなかった、ということではないだろうか。

そして事件は3月の声を聴いてもなお解決に至っていなかった。

そんな3月3日、うすうす予期はしていたが、やはり・・・というニュースが入った。
被害児童が絞殺死体で見つかったのである。

そこは小牛田小学校正門前の道だった。
3月2日の朝、小学校前の農家の主人が、牛の餌にする豆腐ガラをもらいに豆腐屋に行こうと思った時、その死体を見つけたというのである。
犯人が死体の処置に困って捨てたのは明白であった。

この一報は、両親の所にも届けられた。
母親は泣き伏し寝込んでしまった。
父親は「御社(河北新報社)に行って人探しの広告記事を出そうと思っていたが、死亡広告に切り替えないといけなくなった」と、努めて冷静に話すのが精一杯だった。

その日の明け方1時ごろ、犬が激しく吠えていたという聞き込みと、その少し前の1日夜に、防空頭巾をかぶった40がらみの男が、おんぶするには大きすぎるぐらいの子供を背負って学校付近をうろついていたという聞き込みを得ることに成功した。
いよいよこの「40がらみの男」が犯人に違いない・・・!

いよいよ捜査は重要な局面まで来た。
犯人は町内に潜伏しているに違いない。

「大きな子供を背負って小学校付近をうろついていた」この男は被害児童宅に恨みがあったのか・・・?
また、複数犯説も確固として囁かれていた。

東北大学法医学教室の解剖によると、1週間前頃に考察していたのではないかという検死結果が出た。
つまり誘拐後しばらくどこかに軟禁していたのではないか、ということ。

ところで、東京千住の銀行ギャング事件については、犯人2名のモンタージュ写真が出回るまでになっていた。
身長は5フィート8~10インチと、ヤード・ポンド法で書かれている。
これも時代相だったのだろうか。
ちなみに日本ではまだ尺貫法の時代である。

捜査本部は国警小牛田地区所に設けられていたが、捜査会議では「常識では考えられぬ怪奇な事実」が次々と報告されていた。

①恨みがあるなら、被害児童宅前に死体を遺棄すればいいはず。ここなら一目だってないのに。しかし遺体は、わざわざ人家の多い学校前に遺棄されていた。そして通学路ではない所になぜか算盤やおはじきを捨てている。

②絞殺から1週間以上経過しているにもかかわらず、絞殺に使った麻ひもをそのままにしている。

何を意図してこのような工作をしたのか。
二重性格者などの精神異常者ではないかという見立てがなされた。

ところで、この事件では「40がらみの男が犯人ではないか」と言われていたが、その40がらみの男らしき男が「俺が殺した」と言っていた。
スワ犯人!?と思ったら、隣町の鹿島台の駐在所に「嘘でした」と申し出たのである。
この男は事実、精神異常者であったようで、話題になりたくてそんな狂言を話したということのようであった。
しかし、余りに新聞で騒ぎになったので怖くて自首したということであった。

そして3月5日、ついに犯人が逮捕されたことを、3月5日河北新報夕刊1面を使って報じている。

それは40がらみではなく、20歳の男で近所の小牛田農林高校校長の次男であった。
昭和24年の春に古川高校を卒業したというので、それなりに学力はあったのではないだろうか。
しかし、素行が収まらなかったようで「少年の町に収容」されている。

この「少年の町」なのだが、「青葉繁れる」の著者・井上ひさしも入っていたことがある。
少年院のような孤児院のような所だったようである。
この時の生活は「四十一番の少年」で描写されている。
してみれば、本件犯人と井上ひさしは面識があったかもしれないのだ。
そしてユーモア小説である「青葉繁れる」の舞台の一つに小牛田を選んだのも、この事件のイメージがあったのではないだろうか。

いずれ、この20歳の男を真犯人と断定するに至ったのは、警察犬がこの家の鶏小屋あたりを指示したことなどが根拠となっていたようである。
動機としては「金目当て」とする意見が大勢を占めていた。

家宅捜索では、被害児童の衣服や所持品が次々と発見され、容疑はほぼ動かぬものとなって行った。

さてこの20歳の男、どのような男だったのか。
周囲の話を総合すると「異常な二重人格」だったのではないかという話だった。

学校教諭の家の末っ子として生まれた犯人は、明朗快活な子供であり、被害児童も通っていた小牛田小学校では優等生で級長も務めたことがあったという。
しか古川高校に入ってから素行が悪くなったのだという。
ところで昭和27年3月の時点で20歳ということは、昭和6年度の生まれである可能性が大きい。
そうすると12歳時点で昭和18年。古川高校は「宮城県立古川中学校」の時代であっただろう。
義務教育時代の優等生も高校に入ると成績は下位・・・ 進学校ではよくある話ではあるが、このことがコンプレックスを醸成していった可能性もある。
いずれ、在学中に窃盗事件を起こす、放浪癖を発揮するなどの不良性を帯びて行ったようである。
読書についても、「探偵ものやスリルものを読む」などと、現在のオタク叩きのような調子で推理小説の読者を断罪している。

3月7日の河北新報では、容疑者がついに自供したことを報じている。
当初は犯行を否定していたようであるが、物証やアリバイについて厳しく追及された結果、「学費欲しさに犯行を行った」旨の自供をしたのだという。

殺害は犯行当日に行い、死体隠匿は自宅の畳を剥がして穴を掘ったのだという。
その自供の一切は涙も流さず淡々と話され、「異常人格の一端を見た」印象を警察官やマスコミに与えている。
かと思えば留置場では大声を上げて泣き出したり・・・

あとは送検されるだけで、仙台地検古川支部に送られることになった。
東北本線からは外れた古川が、この地域最大の都邑であった。

同じ時期の富士銀行ギャング事件は、フランス兵の仲間が逮捕されるに至っていた。
また、情婦らには特段の容疑無しとして釈放されるに至った。それでも顔写真が載っているのは気の毒という他はない。

一体全体どんな犯行だったのか。

3月9日の河北新報が報じる所では、先の東北大学法医学教室の解剖で「死後一週間」とされていたものは、実は行方不明当日の12日に給食で食べたものが胃の内容物と一致しており、誘拐当日に殺害されたということが確実視された。

では、あの「18日3時に山神社へ」の脅迫状は何だったのか。
結局は捜査を混乱させるためだけのものでしかなかったのか・・・

他の記事に目を移すと、マカオについての記事がある。
当時からすでに「賭博の町」として知られていたようである。
拙ブログでも1月19日に行った関閘が写っている。

当時は明確にポルトガル領であったが、それでも大陸中国の勢力が近づいていることを認識せざるを得ないような状況であったようである。

さて、ではダークツーリズムへと赴きましょう・・・

今回投宿したのはアパホテルで、コロナでどこもかしこも宿泊客が激減しているせいか、4900円という叩き売り価格である。

自分の払った金は例の女社長の南京大虐殺の主張にまた再投資されるかも知れない。

朝食はバイキング。サラダがバイキングになっておらず、皿に取り分けた形になっていた。やっぱりこれもコロナのせいなのだろう。

仙台は8時半発なので比較的ゆっくり出ることにする。
駅は地下鉄の五橋が近いらしいが、仙台駅に歩いて行けないこともない距離。

仙台駅は閑散としている。
何より土曜日である。

改札口の上には仙台駅のシンボルである大時計。
決死モデル:チームPさくら

これは昭和24年に建築した仙台駅の旧駅舎の時代からのシンボルとなっており、現在のJR東日本仙台駅のゆるキャラ「トキムネくん」にもその意匠が受け継がれている。

岩切行きが8:20で、小牛田行きはその10分後。
いかにも「仙台都市圏」を成している。

8:30の小牛田行きは1番線から。
その8:30小牛田行きとして折り返す小牛田発8:24仙台着の4両編成の電車は、ロングシートにやっと埋まる程度の乗客を乗せて到着した。
仙台に向かう列車がこれなので、まして小牛田行きは閑散としている。
何となれば「ツーリスト寝台」だってできなくも無いほどだった。

小牛田は2番線に到着した。
決死モデル:トルソーさんメア

石巻行きのキハ110が停まっているのが、警察犬が止まったという4番ホーム。
手前の木造の跨線橋は、その警察犬も知っているだろうか。

さて、小牛田の町というのは駅周辺の南小牛田と、陸羽東線の北側の北小牛田の市街地に分かれており、目的地は「北小牛田」に分類せられる所となる。

小牛田駅舎の中の美里町観光協会でレンタサイクルをしているので、200円払って借りる。
現在の小牛田小学校は当時の小牛田小学校の南側に移転して、その跡には「さるびあ館」という公共施設が建っているようである。
観光案内所の工藤静香に似たおねいさんに聞いてみると「確かに昔の小牛田小学校はさるびあ館の場所にあった。移転したのは最近ではなく20年以上前になると思う」とのこと。
ともかくも行ってみることにしよう。

昔は踏切だったのかもしれないが、現在は陸羽東線はオーバークロスで上がるkとになっている。

身代金の受け渡し場所に指定された山神社の前には、あの脅迫状そのままに「←古川 涌谷 石巻→」の標識が立っていた。
決死モデル:トルソーさんファラキャ

次は死体遺棄現場の小学校前と思いGoogleマップのナビを設定しようと思ったが、山神社の御神域ではやめておこう。
少し離れたところで設定することにした。

とは言っても大して離れているわけでもない。
近くではいみじくも小学生が遊んでいた。
カメラなんて持ってウロウロしてたら不審者以外の何者でもない。

さっさと撮るだけ撮ったら、あとはここでの来意を果たしたので次いってみよう。
11:15の仙台行きを予定していたが、1本早い10:35の仙台行きも間に合いそうである。

 

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