死体の場所はお葉書にて

ネットが普及してからというもの、自分も年賀状出さなくなって数年経つけど、それでも昭和30年代に比べると何倍もあるのね、という・・・

なぜこんな季節外れの時期に年賀状の話を? というと、今回の「事件現場を歩く」は、そのはがきが事件の端緒となった事件だからである。

益田松雄著「雪の山道 捜査実話7編」という、昭和44年に出版された本でこの事件を知ったのであるが、釧路臨港鉄道(現太平洋石炭販売輸送臨港線。昭和38年旅客営業廃止)が出てきたり、郵便番号の無い頃の葉書が出てきたり、昭和34年当時の釧路市内のバスの系統番号まで出てきたり、殺人事件にこんな表現を使って良いのかどうか分からないが、やたらエモい事件であり、釧路に行ったら現場に行ってみようと思っていた。

そして今般、その機会を得たのである。

前掲「雪の山道」によれば、最初の葉書は昭和34年11月21日に来たもので、それは釧路警察署には相手にされなかったのだという。
「子供か気違いが書いたんだろう」と、一応その葉書を刑事課に回したが、春採交番向けの文書発送箱に入れた程度だったのだという。

その約1週間後の11月27日に再び送られたのが、前掲の葉書だった。
つまり、春採の交番に送られてから1週間というもの、春採交番ではその葉書に関して何も仕事をしていなかったことになる。

その葉書の通りの場所に行くと、果たして高圧電線のたもとに若い男の死体があり、道内各紙は大騒ぎとなったのである。

着ていた服に身分証のようなものは無かったが、下半身が異様に発達していることから、肉体労働者らしいという事は判明した。
また、「雪の山道」でも指摘されていたが、ズボンやももひきは履いていたがパンツは履いていなかった。同書ではこのことを「よほどのノータリンか、無精な独り者かも知らんぞ」としている。

事件そのものは11月28日の道新社会面トップで報じられているとは言うものの、この時点で知りうるのはその程度のこと。

他のニュースに目を移すと、フィリピン・ルバング島の残留日本兵小野田寛郎・小塚金七が戦後14年経過したこの事件まで見つからなかったことにつき、現地調査団は「すでに死亡した」という結論を下した旨のニュースが報じられている。
結局、この15年後の昭和49年に小野田は帰還することになる。もう1人の小塚は、この帰還の2年前の昭和47年にフィリピン警察との銃撃戦で死亡していた。小塚を「最後の戦死者」とする資料もある。

また、小樽の張碓で「アイヌの王様」焼死のニュースも伝えている。
この頃、アイヌは民族名を名乗って暮らしていたようである。ただ「アイヌの王様」というのはあくまで自称であり、張碓海岸の掘立小屋で占い師をして生活していたが、この頃になると足腰もたたず、小樽市の生活扶助(原文ママ)で暮らしていたようであった。

事件は犯人逮捕どころか被害者の身元も分からないまま、12月に入っていた。

12月1日の読売新聞(北海道支社版)では、被害者である若い男のモンタージュ写真を公表している。
それ以上のことは全く分かっていなかった。

他のニュースでは、鉄道関係のニュースが2件ある。

1件目は、札幌市電の鉄北線が、北24条から北27条まで延長されたというニュース。
車両は330系。1998~2001年に廃車が進められたというが、現在でも似たような車体の210系などは走っている。

また、日高線の苫小牧~振内で使用するDD13の試運転をしたというニュースがある。
振内駅というと日高本線ではなく富内線であるが、当時の富内線は前年の昭和33年11月15日に富内~振内間が延伸開業したばかりで、終点の日高町まで開業するのはこの5年後の昭和39年のこととなる。
DD13も一つ目の1次型であり、塗装も茶色の旧塗色であったことが推測される。

翌12月2日の道新釧路市内版では「犯人ホシは必ず挙げる」と題した記事が掲載されている。

国会図書館でこの事件を調べていて分かったのだが、北海道新聞の場合、地域面というのは、その土地の社会面的な犯罪を扱うわけではなく、しごく平和なタウンニュースを取り扱っている。新聞用語で言う「ヒマ種」というやつである。
朝日新聞でも基本的にはそれは同じなのだが、例えば読売新聞だと地方面で殺人事件を扱っていたりするから油断できない。(栃木・市羽村一家四人殺し千葉・布鎌村DV殺人など)

ただ、この釧路市内版の記事にしても、「被害者の身元割り出しが急がれている」と捜査の進展状況を書いてはいるものの、社会面のニュースというよりは、警察署の捜査本部という「職場訪問」というトーンでの記事である。
また、この時期の釧路では毛ガニの出荷が始まっていた。

ただし、「雪の山道」によれば、この頃には既に被害者の身元は分かっており、新聞記者に気づかれないように捜査幹部だけの秘密となっており、末端の捜査員にもその事実は伏せられていたのだという。
それは、11月30日に、被害者を雇っていたことのある製缶工場の主人と、被害者の叔父が捜査本部に来て「自分の所で雇っていた者ではないか」と捜査本部に申し出てきたからである。
そして、被害者の叔父も「そうではないか」といっている。

ところが、その叔父について重要なことが判明した。
叔父は、被害者に多額の生命保険をかけていたというのである。また、この2年前の昭和32年には、自宅の火災で妻子が焼死し、やはり多額の生命保険を受け取っている。

結局、被害者の身元が判明と犯人逮捕に踏み切るのは12月9日となり、それが道内各紙で報じられるのは翌12月10日という事になる。
結局、犯人は叔父であり保険金目当ての殺人であった。
保険金をもらうためには、まず死体を発見してもらわないことにはどうしようもないので11月の初めに8番のバスで春採の原野まで連れて行き経度知的障害者(現在の表現)の甥を殺しはしたもの、11月下旬の声を聞いても死体発見のニュースも上がってこない。
それで業を煮やして11月20日ごろ葉書を送ったものの何の反応も無し。
11月27日にはがきを送ったら、やっと死体を発見してくれたという状況であった。
よほど人の来ない、無人の原野だったのであろうという事がこの事件から見て取れる。
また、11月20日に送った最初の葉書も載っているが、釧路臨港鉄道の春採駅と東釧路駅が書き込んである。

他のニュースに目を移すと、すでに「60年安保」の萌芽は各地で出てきており、札幌市内でも各労組が統一行動で「安保!反対!」を訴えていた。
最近はJR東日本労組の大量脱退の理由として「休みの日に政治活動に駆り出されること」が挙げられていたが、この時期の労働組合員は当たり前のように安保反対の行動に出ている。
このような社会運動を労働組合という場で行う事に対し、当時の組合員たちは何も思わなかったのであろうか。

さて、出張の用件も終わり、午後はまるまる18時の飛行機の時間まで自由に使う事としたい。

北大通りの北陸銀行前。
決死モデル:チームRナオミ

北陸銀行は富山に本店のある銀行であるが、なぜか北海道内にも支店が多かったりする。
それは、北前船の頃から北陸と北海道のつながりが強かったのだそうで、北海道での1号店は明治32年(1899年)小樽に、拓銀の半年前に開業しているというほどである。

犯人と被害者が春採へ行くのに乗った8番のバスは今は無いが、現在春採に行く時は17番の白樺台行きか30番の昆布森行きに乗ることになる。
30番は1日に数本しか来ないが、17番はすぐ来たのでこれに乗ることに。

ちなみに、当番者が枯渇しているので改めて当番者を選ぶことに。
この先はハナR)、桃園P)、ジャスミンY)、ラジエッタWB)で行くことにしたい。
とはいってもダークツーリズムなので、デカレンジャー出身のジャスミンは今日使うことになる。
また、大カバンごと持ってきているからこそ釧路で当番選定することも可能なのであり、他の当番者を今日使うとは限らない。
ところで、釧路はやたら高速バスが充実している。
こんな20万(を最近切った)年ではありながら、JR北海道が廃止してもやっていけるのではないだろうか。アメリカでもタラハッシー(フロリダ州)のように人口20万近くでもアムトラックなしでやって言ってる都市もある。(というか、どこの都市でもアムトラックなんか要らない?)

さて、バスを「コープさっぽろ前」で降りればそこは臨港線の春採駅である。
決モチームY宇崎

釧路に来た以上はここは必ず見ないといけない。
機関区の先には選炭場がある。
今でこそ設備は近代化されてはいるだろうが、昔は相当古式ゆかしい機会で選炭などの処理を行っていたであろう。
側線では機関車が2両、暇そうに止まっていた。
また、国内唯一の連接型の石炭車(昔の北海道の表現を使えば「セキ車」)が1連(2車体)だけ止まっている。

後ろを見ると、積み出し港である知人駅から石炭列車が到着していた所のようであった。いや、知人からこちらに来るのであれば「返空列車」ということになる。

一も二もなく撮りに行くが、赤い旗の先は関係者以外立ち入り禁止である。撮り鉄としてはこれはきちんと守らなければいけない。

臨港線について知る地元の人によれば、この石炭列車は「石炭が出れば1回運転する」という程度のものだそうな。

かつてはこの春採駅から東釧路駅方面に線路が伸びており、国鉄にも石炭を運び出していた。
件の事件の葉書にも書いていたこの区間が廃止になるのは、昭和61年のことである。

ところで、これまで決死撮影の最東端は東釧路駅であったが、この春採駅はそれよりも東になるようである。
つまり最東端の更新という事になる。めでたいね!

ここからは廃線になった線路沿いに貝塚通りを歩くことになる。
決死モデル:チームYジャスミン

現在、この辺りは一面の住宅地になっている。
臨港鉄道が旅客輸送をしていた頃は、春採にこそ炭鉱住宅はあったものの永住町駅や緑が丘駅のあたりは、ほとんど無人の状態であったのではないだろうか。

しばらく歩くと、例の葉書にも描かれた鉄塔が見えてきた。
そしてまた、事件当時は単なる獣道同然であった武佐高台への道は、現在は車も通れる立派な道路となっていた。
「武佐高台」といわれるだけに、その道路を登っていくことになる。

葉書には3本目の鉄塔がその場所であると書かれていた。

新聞によれば「臨港線から300メートル」とのことであったが、この地点はそれには少し遠いようである。
当時はどのように鉄塔が立っていたか定かではないが、それでも現在の鉄塔を見る限りでは、ここがその場所だったという事になる。

事件当時、殺害後1か月近く死体を発見されなかったという原野も今では住宅地となっている。そしてその各住宅も、だんだんくたびれつつあるようで、住宅地となってからそれなりの歳月が流れていることが見て取れた。どの家も築30~40年はありそうな感じである。

事件当時こそ「武佐高台」と呼ばれていたこの辺りは、現在「若草団地」と呼ばれているようであった。

また、バスは2番のバスが2時間に1本程度来るという状態である。
ちょうど16時のバスが来ていたので乗ることにした。
決モチームTアンヌ

あとはもうお帰りモードのフォロースルーである。
2番のバスは、幣舞橋を渡ってすぐの「十字街」で降りることにして、釧路らしい風景を堪能することにしたい。

霧の中の幣舞橋とフィッシャーマンズワーフMOO、これこそが誰でも分かる釧路らしい風景であろう。
決モチームY楼山

前々から気になっていたのだが、あのMOOという施設は一体何なのだろう?
空港行きのバスのバスターミナルでもあるが、中に入ってみると北大通り寄りのガラスドームは熱帯植物園になっていた。
また、本体側へ行くと市民向けの集会所になっていたり、バスターミナル側はお土産品店が並んでいた。
こういうのを見ると、ウランバートルのドラゴンバスターミナルでも思ったのだが、下手な鉄道駅より賑わっているようにも思える。いよいよ釧路は鉄道不要に傾いていくのではないかとすら思えるような賑わいを感じた。

あとはそのMOOバスターミナルから空港行きのバスに乗るだけ。
空港行きのバスは阿寒バスである。

ちなみに、阿寒バスとくしろバスは釧路市内でどのように棲み分けられているかというと、そもそも戦時統合で釧路地区の小規模なバス事業者が統合して昭和19年に誕生したのが東邦交通であり、戦後の昭和28年に東邦交通の観光バス部門が独立したのが阿寒バスであるという。道理で阿寒バスに弟子屈・羅臼・中標津などといった長距離路線が多いわけである。

さて、空港バスの方は1日目に空港から来た時のように混んでいるわけではなく。空港まで2座席を占有することができた。

後は空港に到着。
18.7℃なんて寒いこと寒いこと・・・
決死モデル:チームR持田

早く灼熱の東京に戻りたいと思う程であった(戻れば戻ったで地獄なのだが)。

AIR DOのカウンターはANAのカウンターを兼ねたところにあり、やはり真ん中の席だった。早割というのはこういうハンデがあるらしい。

飛行機の出発まで30分強しかなくなったが、夕食時でもあり釧路名物スパカツを食べることにしたい。
大急ぎで3階のレストランに駆け込み、霧の空港を見ながら食べる。

そして18:30となり搭乗時刻となる。

あまりの霧で尾翼が見えないほどである。
この状態でも飛行機が運航できるというのだから技術の発展は凄い。
・・・とはいっても、計器飛行の技術は大昔からあって、それで世界一周便なんてのも可能だったのではあろうけれども。

AIR DO74便は、順調に羽田を目指す。
到着した頃には5分程度早かった。

そしてうだるような暑さの羽田空港に到着。

印旛日本医大行きは平日にはもう18時台に終わっているらしい。
仕方がないので急行の青砥行きに乗ることに。まあコーナーに座れたからいいけど。
決モチームP芳香ちゃん

青砥の駅には、シティライナーやイブニングライナーの待合室、中国風に言えば「高雅候車室」がホーム上にあるらしい。

兎も角もそんな釧路行きでしたとさ。

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