絵の具を溶かしたみたいな濃い青空

拙ブログに「義体の部」がなぜあるのかと言えば、とりもなおさずそれはなかよしのパシフィックセブンちゃんが「八木橋裕子の物語」を書いているからである。

・・・それはともかく眠い。
さっさとパスポートチェックを終えて眠りに就きたい。

列車は真夜中の中蒙国境を越える。

そして、ザミーン・ウードに到着しパスポートチェックと相成る。
中国の係員は、個室のドアを乱暴にどんどん叩いて開けたが、モンゴルの係員は黙って立っているだけ。
気づいたらそこにいたという感じだった。

やはりパスポートを取られた状態になったので、停車時間が1時間強あるとはいえ外に何をしに行くこともできない。
結局手持ち無沙汰に眠気に耐えるだけである。

それでも、1時間ぐらいでパスポートは手元に戻ってきて、たのしいスタンプ帳にモンゴルの入国印が押される運びとなった。
決死モデル:チームTヤギー

あとはしばらく寝るだけ・・・

さて、ヤギーが全身義体となったのは後天性の障害によるものである。
というか先天性の義体だったらそれはもはや義体ではないような気がする。

何が言いたいのかというとつまり、ヤギーがどこで受傷して全身義体になったかである。

「八木橋裕子の物語」冒頭の「天からの贈り物」では、

太陽がまぶしい。 空がまぶしい。 草の緑がまぶしい。
風が強い。 絵の具を溶かしたみたいな濃い青空の中を雲がすごい速さで流れていく。 私の膝くらいまで伸びた、 まわりの草が風にゆれて、 一斉にカサカサと耳に心地よい爽やかなメロディーを奏でる。
ぐるっと周りを見回しても、 変わっていくのは太陽の位置だけ。 景色は何一つ変わらない。 緑の草、 青い空、 白い雲、 まるで世の中から三種類の色を残して、 他の色が消えちゃったみたいに、 草の海は見渡す限りどこまでも果てしなく続いていた。

こんな風景、 私、 昔どこかで見たことがある。 そうだ、 中学生の時、 家族でモンゴルに旅行に行ったことがあるんだ。 その時に馬で行った大草原が、 ちょうど私が今みている景色そのまんまだ。 景色だけじゃないよ。 太陽のまぶしさも、 風のそよぎも、 全部その時と一緒だよ。 だって私は今でも、 その時のことを昨日のことみたいに思い出すことができるんだもの。 私は、 草原に沈む夕陽を見ながら、 いつかもう一度必ずここに来るんだ、 そう心に決めてたんだもの。 忘れるはずがないよ。
私は帰ってきた。 あの時もう一度来るんだって自分自身に誓ったモンゴルの大草原にまた戻ってきたんだ。 でも、 前と違うのは、 私の周りに家族がいないこと。 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 逞しい身体つきの赤い顔をしたガイドさんも、 そして私があの時乗った馬、 イリンジバルも、 誰一人いない。 今、草原の中にいるのは私だけ。 私は一人ぼっちだ。
どうして? 私、 どうしてこんなところにいるの? さっきまで一緒に車に乗っていたはずの、 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 みんな、 どこに消えちゃったんだよう。 私達、買い物をして、 家に帰る途中だったじゃないか。 なのに、 どうして私だけこんなところにいるんだよう。 私、 ゼンゼン分からないよ。

今、そのモンゴルの大草原のただ中にいるのである。
ついにここまで来たのだ・・・

ただ、「緑の草、 青い空、 白い雲、 まるで世の中から三種類の色を残して、 他の色が消えちゃったみたい」ではないようで、むしろ土の色の方が目立っている。
草原というよりはむしろまだゴビ砂漠だから・・・?

もう少しウランバートル寄りで撮ればよかったような気もする。
光線状態もあまりよろしくない。
ちょっと日差しがきついとメガネ隈ができてしまうので、ヤギーの撮影は難しい。

さて、中国~モンゴル~ロシアの国際列車は、国ごとに食堂車が変わると聞いたことがある。
では、残りの中国元を振り絞るべく朝食に行ってみますかね・・・

・・・と、中国の時は自分の乗る6号車の次にあった食堂車が、モンゴルでは3両先になってしまった。
それに内装もゴテゴテした、良く言えば高級感を演出したものとなっている。

メニューをもらうと、朝食が1種類で昼食が2種類。いずれもドル建てで書いてある。
こりゃ無理かね・・・
ダメもとで聞いてみる。「日本円でいい?」「1ドル=100円なら」。
意外にOKだった。

で、何が出てきたかというとまあ月並みの洋食の朝食ブレックファーストといったところ。
パンが出てスクランブルエッグが出てソーセージが出て。
味は普通だった。

ところで、昨日から個室のトイレが詰まっている。
原因はと言えば、おそらくトイレに紙まで流したからではないかと思う。
噂には聞いていたが、やっぱりトイレに紙を流してはいけないのね・・・

結局、トイレは隣の車両のトイレで済ませることにした。
車両に戻ると、車掌がトイレの詰まりを治してくれていた。
「紙はごみ箱に捨ててもらわないと困るよ」「対不起すんません

さて、モンゴル側の停車駅はサインシャンド、チョイルだけであとはウランバートルに到着するだけである。
あとはツイッターでもしながら到着を待つか・・・ と思ってもモンゴルは電波状態がよろしくない。

そして14時35分、ウランバートルに到着する。
決死モデル:チームY宇崎

モンゴルにはそれほどたくさんの列車が走っているわけではない。
駅舎に面した1番線に到着した。

草原の日差しは強く、陰になるとなかなか撮りにくい。
それでもどうにか列車と駅舎の入るアングルで撮ることに成功した。

ホームの西側にはSLが保存してある。
そして駅前に出ると、やたら自動車が止まっている。ベトナムのようにバイクがひしめいているわけではない。
さすがに稚内よりさらに北の北緯47度にあるウランバートルは雪も降る。そんなモンゴルでは2輪車は実用的ではないのだろう。

さて、両替問題であるが、やはりウランバートル駅前のATMでもVISAデビットが使えない。
仕方がないので、JR東海のEX予約で取らされたマスターカードを使うと、こちらは使うことができた。

やっと人心地を取り戻したので、早速昼食にすることとしたい。

ウランバートル駅の中に、軽食堂がある。ロシアなら「スタローバヤ」とでもいった面持ちであり、ハンバーガーやホットドッグやサラダなど、カフェテリア形式で選ぶことになる。

ただ、モンゴルというのはそもそも世界的にも「飯のまずい国」である。
このスタローバヤも味はというと・・・

さて、とりあえず腹も膨れたので(食べ直したいが)、モンゴルの鉄道博物館へ行くこととする。
モンゴルの鉄道博物館は、ウランバートル駅から東へ1km強行った所にあるらしい。
Googleマップで見る限りでは、すべて屋外展示となっているようである。

ソウルのTマネーのような交通カード「Uマネー」を買い、6番のバスで鉄道博物館を目指す。

バス停で降りると一番最初に目につくのがソ連製のSL・Пペー36。
決死モデル:チームY城ヶ崎

П36はソ連の旅客用機関車の名機として知られるが、モンゴルでも走っていたのだろうか。
かつて「地球の歩き方」で読んだことがあるのだが、シベリア鉄道のどこだかの駅にП36が保存してあり、その銘板には、
「19**年何月何日~何月何日、モンゴルからの研修生がこの高速蒸気機関車で研修を行った」と書いているのだそうな。
外国からの研修生を自国で教育し、その機関車を「高速」と自称するニュアンスが分からないが、やはり「ソ連すごい」だったのだろうか。
今「日本スゴイ」が流行っているように・・・

モンゴル鉄道博物館の細長い敷地の、ウランバートル駅寄りの方に門があり、今まさに閉めようとしていた。

「ここ入れるの?」
「入れないよ」
不愛想に去っていった。
彼らはメンテナンス要員だったのだろうか・・・?

という事で外から撮影するしかないが、内側に入って撮影できたとしても余りに近すぎて、全体を取ることはできなかっただろう。
とりあえず、外からフェンス越しに撮影するだけでいいかな・・・みたいな。

次はディーゼル機関車で、入れ替え用のТЭМ12M62
どちらもソ連でも活躍していたもので、特に2M62は北朝鮮や東ドイツでも同じのが走っている。北朝鮮では「強行軍型」として電気機関車に改造された、共産圏の名機である。
「モンゴルの鉄道」というと大体、2M62が出てくるような気がするが、最近は淘汰が進んでいるのだろうか。
ТЭМ1の製造初年は1958年つまり昭和33年であるという。
このころ、モンゴルではスターリンと仲の良かった独裁者チョイバルサンが1952年にモスクワで客死、ツェデンバルが政権を担い、親ソ路線を継続していた。

そして次もまたソ連の名機・ТЭ2となる。
製造初年はスターリン期の1948年で、多少古いシベリア鉄道の本では、このТЭ2が先頭に立っている写真も多い。
ヘッドマーク然とつけられているレリーフは、チョイバルサンでもツェデンバルでもバトムンフでもなく、スターリンとなっている。

中国語版Wikipediaによれば、ТЭ2の淘汰が進んだのは1978~1987年の間であるという。
モンゴルでも2014年まで動態保存していたというが、現在は走っていないという。
そのТЭ2は、ウランバートル駅の東側におかれてあるのがそれではないだろうか。

最後は、中・小型のSLでСуЕл

Суは1924年製というからモンゴル人民共和国が独立とした年に完成したことになる。
軸配置は1C1のいわゆる「プレーリー」で、1960年代の終り頃まで旅客用に使われていたようである。

Елはボールドウィン製のアメロコで、製造初年は帝政ロシア時代の1916年であるという。軸配置は1Eの「デカポッド」。
アメロコだけに輸出範囲も広く、フィンランドや中国でも使用されていたという。

さて、見るもの見たらウランバートル駅に引き返しましょう。

ウランバートル駅に正面から入って左側はさっきのスタローバヤであったが、右側が待合室となる。
決死モデル:チームR真夜

薬局や両替所や売店などが入っており、南北へ行く乗客がここで待っている。
客の多さを見れば、フィリピンやカンボジアのように鉄道交通が絶望的に見放されているという程でもない。

今から北行きの17:30の北方面ズーンハラー行きに乗りたいが、ここで待っている客の多くは17:20の南方面ザミーン・ウード行きの客が多いようだった。
1番線にもザミーン・ウード行きが止まっており、2~3番線は地下道を通っていくことになる。

17:20ザミーン・ウード行きは出発していった。

さて、我らがズーンハラー行きであるが、2M62のような前面に、アメロコのような機械室を付けた珍妙な機関車がけん引する。
これは「2Zagal」というのだそうで、チンギス・ハーンが可愛がった2頭の白い馬のことなのだそうな。
珍奇な機関車にモンゴルらしいネーミング。非常な感動を覚えた。

さて、こちらはたったの4両編成であるが、3段式寝台車を座席化した状態で満員の乗客がおり、中には中段寝台を出して寝ている客もいる。
こちらも程なく出発する。

どうやらウランバートル駅の東側が貨物ターミナルになっているようで、中国系の20フィートコンテナや40フィートコンテナが止まっている。

そしてウランバートルの隣駅のトルゴイトで下車する。
決死モデル:チームPメイ

トルゴイトは棒線駅のようでホームは1本だけ使用である。
駅舎には駅員もいるようであった。

ここの近くにドラゴンバスターミナルというバスターミナルがあると思ったが、そうそう近いというわけでもなさそうである。

ということで、つい最近まで草原であったであろう家々やゲルの間を通り抜け、舗装されていない広い道路に出る。

広い道路に出ると、共産主義アパートが立ち並び、やはり共産主義の国であることを思わせる。
で、共産主義の国らしくそれなりの頻度でバスが来るのだが、バス停があるわけではない。
どうやら、道路がバスが止まるのに必要な程度に広がっているあたりで何となくバスを待っていれば、何となくバスが止まるという風になっているようだった。

そして41番ぐらいのバスに乗ってドラゴンバスターミナルへ。
決モチームPユウリ

外国でバスターミナルというと、どうしてもインドのアコラやヤバトマルのバスターミナルのような、英語も通じない最末期的なイメージを受けるが、このドラゴンバスターミナルはなかなかどうして立派である。

切符売り場はバリアフリーに配慮されており、食事もケバブやファーストフードを食べることができる。
また、2階より上はちょっとしたデパートとなっており、買い物もできる。
何もかもが鉄道のウランバートル駅より立派である。
絶望的と言う程でもないが、やはり鉄道は時代から取り残されている。

さて、次はトロリーバスの2番に乗って、北朝鮮レストランに行くことにしよう。

そう思ってバス停で待っているが、他のバス系統ばかり来て、トロリーバスは全然来ない。
共産圏の都市交通であれば、それなりの頻度で来るのではないか?
20分待っても来ない。
30分待っても来ない・・・

結局、1時間待ってやっとトロリーバスは来た。
光線状態もかなり逆光である。

1時間に1本しか来ないなんて、それでも都市交通だろうか?
もうトロリーバスの2系統なんてもうすぐ廃止になるのではないか?

ただ、この辺りからウランバートルの中心部へは、郊外からかなり系統が束ねられてかなりの本数が走っている。
北海道中央バスで言えば、小樽駅や岩内や積丹や余市や倶知安からの系統が束ねられて、小樽築港発の系統なんてほとんどないようなものだろうか。

悪態をつきながらもトロリーバスはウランバートルの中心を目指す。

グーグルマップ上で北レスとされている所に近い場所でトロリーバスを降りる。
決モトルソーさんアハメス

ちなみに、ウランバートルのトロリーバスの車両は、共産趣味者が期待するほどボロボロのものではなく、かなり新しい車両である。
どう見ても韓国の大宇のバスのような感じもするが、韓国製か中国製だろうか。

また、これだけ新しい車体を製造しており、なおかつお客さんも途中からかなり乗ってきているので、トロリーバス事業を廃止するという事はしばらくはなさそうである。2系統がどうかはともかくとして。

さて、では北レスに行きましょう。

・・・と、北レスがあるはずの場所にはそれらしき看板はない。
入ってみると、単なる韓国料理店になっている。

「ここはもう平壌食堂じゃないわよ。でもいいじゃない。座って食べていきなさい」
してみればどこへ行ったのか・・・?

とりあえずネットで探してみると「北レスは数年おきに移転を繰り返しているのだ」という。
2015年ごろ北レスがあったという場所にも行ってみたが、全くもぬけの殻。

仕方がないので、韓国料理店でビビンバやチゲを食べることにする。

食事がまずいと言われるモンゴルであるが、韓国料理は安定して食べることができる。

最近、韓国とモンゴルはやたら交流を深めているようで、例えばウランバートル駅と水原スウォン駅は姉妹駅交流がなされているという。

さて、すべて食べきれないくらいたらふく食べた後は、40番のバスでホテルに戻ることにする。

 

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