昭和26年のDV事件

また胸糞の悪い虐待事件が出てくるし・・・

これまで、児童相談所が虐待情報を警察と共有していたのは茨城、愛知、高知だけだったという。
それを、この事件を受けて埼玉、岐阜でも重い腰を上げて始めるのだという。

ただ、ここまで共有が進んでいなかったというのはそれなりに理由があるのではないだろうか。
一つ深刻な虐待事件が起きたからと言って、警察との全件共有に踏み切った埼玉県と岐阜県の児童相談所の現場で働く職員は、これをどう思っているのか聞いてみたいところではある。
「現場も知らねえくせに勝手に変えてんじゃねーよ」
「だったら知事が自分で児相で働いてみろよ」
「小池百合子以上のポピュリストじゃねーかうちの知事はよ」
ぐらいの声は出ているかもしれれない。

「とにかく子供のために働け」と言われ続けている児相職員の生の声なしに、「子供がかわいそう」という感情論だけで一気呵成に改革して、また別のどこかにひずみを生じるというだけではないだろうか。

また、無職でありながら5歳の娘に、

これまでどんだけあほみたいにあそんだか
あそぶってあほみたいだからやめる
もうぜったいぜったい やらないからね

とまで書かせた父親に対し、母親は何をやっていたのかという話もある。
香川県から東京に引っ越してきた時、母親は暗い雰囲気だったという近所の人の証言もあるようである。
もう母親には手の付けられない状態だったのではないだろうか。
虐待に意見でもしたら殴られるとか? だとすればこれはDV案件でもある。(ほぼ確実に、母親は責任逃れの意味でも裁判ではDVを訴えるだろう)
兎も角も、母親がこの事件でどうのような役割を演じていたのか、明らかにしてほしい所である。

虐待にしてもDVにしても「家庭」という閉ざされた中であるからこそ発生する事件である。
どこかの図書館で借りてきた「日本社会の病理解剖 第3巻(女性犯罪)」に興味深い事件があった。
この本は昭和27年(1952年)に出版された本である。

千葉県印旛郡のある農家の話。

主人は酒浸りで1日「米にして一升」飲むありさまで生活は極貧、20歳の次男を筆頭に数人の子供がいる家計は妻が成田線で東京に野菜行商に出てどうにか支えている状態であったという。
そのアル中の主人は、酔えば家中の物を滅茶苦茶に壊し、妻も滅茶苦茶に殴ったのだという。

そしてそれを警察や村の有力者が止めれば、
「おめえはあいつに体売ったんだろ? それでお前にあんなに優しいんだ」
と暴力がエスカレートし、しまいにはだれも止めるものがいなくなったという始末だったという。

それだけではなく・・・

  • 荒縄で体をぐるぐる巻きにして息が止まるほど殴る。
  • 行商の組合費の件で組合長の所に行ったら待ち伏せして殴る。
  • 組合長が家に来た時にご飯を出したら殴る。声を出したらまた殴る。
  • 行商の帰りが遅くなったら道で全裸にして検査。

常軌を逸している以外の何物でもない。
その後のことを時系列で並べると、

  • S25.12.31
    • 嫁に行っている次女が成田市内の病院に入院。
      病院に支払いを済ませた残りで主人は病院内で酒を飲み始める。
  • S26.1.1
    • 朝から酔っ払い、「(次女)は退院だ!退院だぞ!」と暴れる。
      そして「すぐ帰るんだ!」と言って妻の髪を引きずり回してまた殴りながら駅まで歩く。
    • 駅は成田山詣でで混雑し、我孫子行きの列車も乗れず。
      そこで駅前の蕎麦屋でまた焼酎を飲みだす。
      知人宅の玄関で立小便をするなどの大騒ぎ。
    • 15時過ぎ、汽車は前にも増して大混雑。
      八つ当たりで妻の髪を引っ張り妻は意識不明。
      さすがに夫もびっくりして水をかけたり病院へ担ぎ込んだり。
      結局1月6日まで妻は病床に。
  • S26.1.上~中旬
    • 妻と次男・三男
      「こんなことではやっていけないので、ひと思いにとうちゃんをやっつけちゃおうか」
      「もう仕方あんめえな」
  • S26.1.22
    • 養子に行っている長男宅でお産。
      主人はお祝いに行く。
      が、養子先で主人は「可愛い孫でも、お前さんには見せられない」とすげなく断られ帰ってくる。
      主人は例によっていつも通り酒を飲んで妻をブン殴って風呂に入る。
      次男「今やっちゃおうか」
      妻「風呂でやると他の者が入れなくなるからやめよう」
  • S26.1.30
    • 妻、いつものように東京に行商へ。
      15時ごろ、いつもより1汽車遅れて帰宅し、酒を飲んでいる主人に売り上げを差し出す。
      「何で今日は売り上げが少ないんだ」
      「貸し売りがあったからだよ」
      「嘘つけこのアマ!男と遊んで来たんだべ! 我孫子で乗り換えるときに空き家だって林だってあるべ。そん中で・・・」(ボカッ
      「まさか!そんなことするわけないでしょ」
      「うるせえ」(ボカッボカッ
      「とうちゃん!やめろ!」
      「お前!親に歯向かうのか!お前みたいな親不孝者は警察に突き出してやる!来い!」(ボカッ
    • その夜。
      「駅のそばで飲んでくる!かかあ!お前も来い!」
      引きずられようにして2人が出て行った。
      次男・三男「やっつけるなら今晩だな」
      「家出たらすぐやる?」
      「いや、家出てからしばらくしてからやろう」
    • 深夜の畦道。
      「わぁっ!痛いよ!痛いよ!助けて!」
      「堪忍してくれよう!俺が悪かったよう!」
      「謝ったべ? 堪忍してくれよう?頼むかr」(ゴボゴボゴボ…
    • 妻、次男、三男が悄然と帰ってきて仏壇に線香を上げて拝む。

そして昭和26年2月2日の千葉新聞の三面記事に「排水路に惨殺死体」という記事が出る。

「卅日夜十時ごろ酒を飲みに行くといって家を出て」「家人が探していたところ、一日午後四時ごろ排水路内で死体となって発見し、五千円が紛失」
とのことであるが、つまり犯行当夜はともかく1月31日から2月1日の16時までまるまる2日近く、全然発見されなかったという事である。
よほど人通りのない道だったのか、はたまた村人が排水路まで注意してみていないのか・・・
そして「第一発見者」は他ならぬ妻である。
妻がわざわざ死体発見の旨を言い出さなければ、この後もずっと死体は発見されないままになっていたという事だろうか・・・?

ちなみに、この「千葉新聞」は現在の千葉日報とは別の会社のようで、千葉日報は昭和31年12月21日に千葉新聞の廃刊が決定したことに伴い、その月のうちに地元の財界が設立したのが千葉日報であるという。

さて、この事件はどのような顛末をたどっていったか。

捜査は、所持金が紛失していたために強盗の線で行われ、前述「日本社会の病理解剖 第3巻(女性犯罪)」によれば、賭博仲間、前科者、素行不良者、遊興人、旅館宿泊者、行商人、建設省利根川河川工事関係土工に関して捜査網が広げられ、利根川の船の盗難も調べられたという。

その一方で、「家庭内では家人いじめ」というニュースも出てきて、怨恨による殺害ではないかという説も濃厚となってきた。

ちなみに、この2月3日千葉新聞によれば「泥の中で背中だけ出していた」という事なので、それは確かに発見されないはずである。

この紙面で報じられているほかのニュースに目を移すと、「千葉医大にガイガー・ミューラー計数器が設置され、これに使われるアイソトーブが癌や白血病の治療に役立つだろう」というニュースが報じられている。
千葉医大は「旧設六医大」として、新潟・岡山・金沢・長崎・熊本と並び現在でも有力な影響力を保っている千葉大医学部の前身である。
戦後の学制改革により、昭和24年に千葉師範学校や千葉高等園芸学校などと合併し新制の千葉大学が発足、千葉医大はその医学部となったはずであったが、この事件の時点で発足からまだ2年。世間的には「千葉医大」の方がまだ通りがよかったのだろうか。

また、「二等車近くお目見え 東西線に」というニュースがあるが、二等車とは現在のグリーン車。当時の国鉄は三等級制で、一等車は東海道線の「つばめ」「はと」と、一部の寝台車しかなかった。
また「東西線」とは、現在総武線や東葉高速が乗り入れる地下鉄東西線ではなく、房総東線(外房線)と房総西線(内房線)のこと。
全国27ある鉄道管理局の中で、千葉局だけが二等車の配置がなかったのだという。

この件には後日譚がある。
結局二等車は導入され、気動車化してからもキロハ18という形で引き継がれたものの、Wikipediaによれば・・・

1次車の5両は千葉地区への液体式気動車大量投入に際して製造されたものであるが、これは国鉄が本来企図したものではなかった。千葉県庁と千葉市役所から「気動車にも二等車を連結されたい」という強い圧力があり、やむなくこれに対処したものであるという[26]。
[26]→当時の地方自治体の首長や議員、官公庁の幹部職員は、出張利用する路線に二等車連結列車の運転があるだけで、三等の二倍近い金額の二等運賃を支給される、という硬直的規定があり、実際には三等車に乗車しながら二等運賃の支給を受け差額を手にする、という横領まがいの行為が横行していた。当然「出汁に使われただけ」のキロハ18形の二等席は始終空席で、もっぱら出張や業務移動で乗車した国鉄職員が車掌に「顔パス」を効かせてくつろいでいることが多いような状態であった(1950年代の鉄道趣味者による旅行記には、キロハ18形に限らず、普通列車・準急列車の空席だらけの二等車で、三等乗車証しか持っていないはずの一般国鉄職員が制服姿で乗車しているというモラルに欠けた光景が、記録者の慨嘆混じりにしばしば描写されている)。このため千葉地区のキロハ18形は、ほどなくして優等列車運用のある他の地区に転用されている。以上は西尾源太郎(1950年代当時国鉄運転局職員。証言は『国鉄の気動車1950』(2007年、電気車研究会))ほかの回想による。

これじゃあねえ・・・

さて、事件の話に戻ると翌2月4日の読売新聞千葉版でも捜査に進展はない。

ただ、現場写真が載っているが、刑事が畦道を眺めているだけという状態である。
死体発見時に解剖はしたものの、死因が殴打したものによるものか、排水溝に落ちたことによる水死なのかは判然としていなかったようである。

また、見出しを見ると「変死農夫に他殺説濃し」となっている。
強盗か怨恨か以前に、他殺ではない何か(自殺など)の可能性もあったという事だろうか。

ほかのニュースに目を移すと、左上隅の「学園とスポーツ」という記事では県立佐原第一高校について述べられている。
今でこそ千葉県立の高校に「第一高校」「第二高校」は無いが、学制改革から数年、千葉中学・佐倉中学などの旧制中学系の学校は「第一高校」、千葉高女・佐原高女などの女学校系は「第二高校」となっていた。
この事件当時、佐倉町臼井町組合立佐倉中学校の三年生だった長嶋茂雄少年は、県下一の名門校・千葉第一高校(現:千葉高校)への入学を考えるが結局佐倉第一高校(現:佐倉高校)へ進学している。

翌2月5日の千葉新聞でも、捜査は進展の気配がない。
なにしろ「足跡すら発見されない」というのであるから。

ただ、「強盗に見せかけた怨恨による凶行」であることは書いている。
この記事には書いていないが、犯行当夜近所の住民が、次男の名前を叫んでいたという情報も寄せられていた。
この時点で、あとは「いつ家人が逮捕されるか」という状態になっていたであろうことは想像に難くない。

そして、程なくその日は来た。

2月13日の読売新聞千葉版が報じるところによれば、妻と次男・三男の逮捕は2月10日であったという。
また、翌11日には利根川の川辺で被害者である主人の国民服も発見したという。

結局、大方予想されていた通り「家族による犯行」であることがここで判明した。

この記事でも、
「お前たちは親に反抗するから警察にぶち込む」
旨のことが書かれている。

ほかのニュースに目を移すと、この事件の記事のすぐ下に、「県の供米完納」というニュースがある。
この当時の食糧管理制度では、米価安定のために収穫した米は国に供出することとなっていた。
前掲書によれば、事件のあった家でも、

米は五、六十俵とれ、その中十五、六俵を供出していたが、残りも殆ど父の(主人:被害者)がのんでしまって、年の暮には何も残っていない有様であった。

という記述がある。

この食糧管理制度自体は、昭和30年代から米の品種改良を経て米価が安定し、昭和44年には自主流通米制度が発足し、昭和40年代後半にはコメ余りで減反政策が実施され、ついには平成5年冷夏によるタイ米騒動を経て、戦後の混乱期からの食糧管理制度の抜本的な見直しを迫られ、翌平成6年に新しい食糧法が制定されるにいたることとなる。

さて、今回の「事件現場を歩く」では、この事件の足跡を追ってみたい。
だからこそ今日のプールは、いつもと違って千葉ニュータウン中央の印西温水センターで「旅打ち」したのであるが、そこから木下駅へ行くバスの発車が迫っていた。

結果として間に合ったには間に合ったのであるが、乗った後で驚くことが判明した。

最近はやりのコミュニティバスであるこのバスは、千葉ニュータウン中央駅の北口からノロノロと南口方面を循環し、駅の東側の陸橋を渡り、プールの前を通るではないか。
つまり、事前に運行ルートさえ知っていれば、別に急いで乗ることはなかったのである。

兎も角も、田んぼや林の中を抜けてバスは木下駅を目指す。
ここは一面の水田地帯である。

そして木下駅に到着。
決死モデル:トルソーさん丸尾

事件のあった家から当時最も近かったのは、この木下駅であっただろうか。それとも畦道を直進した小林駅であっただろうか。
安食駅から、やはり栄町のコミュニティバスの便があるのだが、13時過ぎの発車なので、時間はかかるが歩くことにしたい。

上野へ行商へ行く行き帰りであれば、この木下が一番近かったのではないだろうか。
行商へ向かい。行商から帰ってくる妻を見守っていたであろう古いファザードの建物が、沿道のいたるところにみられる。

利根川の堤防に登ると、悠々と流れる利根川の両岸に農村風景が広がる。
川風が心地よい。
決モチームPユウリ

適当な所で堤防から降り、現場を目指すこととしたい。
ちなみに、木下の駅でバスを降りて以降、他の人とすれ違ったのは数人しかいない。農道を走る車は数台あったが、田舎の人はとかく「歩く」という事がなく、少しの距離でも車を使うという事が見て取れるような状況である。

それにしても、不気味なほど人と会う事がない・・・
ここは本当に東京の隣県なのだろうかと思う程である。

場所の特定であるが、意外に簡単であった。
被害者宅から数丁の、排水路のある道というのはここではないだろうか。

現在では国道356号バイパスが田んぼの真ん中を横切り、旧道格となっているがコミュニティバスは現在もこのルートを走っており、被害者である主人が事件当夜に「駅の近くに酒を飲みに行く」のもこの道ではなかったかという事が伺われる。

近くには農家が数軒。
はっきりと次男の名前であると分かる程に声を聞かれてたというので、もう少し集落寄りになるであろうか。

兎も角も本件の来意を果たし、あとは農道を歩いて小林駅に行くこととしましょう・・・
事件当時はC57やC58(いずれも[佐]つまり佐倉機関区)の牽引する客車列車であった成田線は、現在はE231系が30分に1本走っている。

成田線が常磐線に合流するあたりには現在でも木の茂みが鬱蒼と生い茂っていた。
被害者となった主人が言っていた「林」とはここの事だったのだろうか。

兎も角も成田線E231系は我孫子に到着。
決モチームPウメコ

ちなみに向こうで停まっている千代田線が直通運転を開始したのは事件から20年後の昭和46年、成田線が電化したのはそのまた2年後の昭和48年である。

ちょうど昼時でもあり、我孫子と言えば弥生軒の唐揚げそばを食べなければいけない。

見てくださいこの巨大な唐揚げ!!!(テレ東の旅番組風)

 

 

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