おがさわら丸の中なので電波が入らず、気象庁の天気図や天気予報が取れない。
船の中に貼ってある昨日の予想天気図によれば、梅雨前線は内地まで北上するようだ。
それで、波は2〜3mになるようだ。
おがさわら丸のベッドで目が覚めたのは5時台だった。
それもそのはずで、昨日は日付が変わる前に寝てしまったからだ。
トイレに起き出したついでに、ロビーにあるモニターを見ると、すでに青ヶ島の北まで行っているようだ。
八丈島が近いためか、携帯の電波が4本経っているのだが、全然インターネットは使えない。
それで、天気図も取得できないので、ロビーに貼ってある天気図で代用することにする。
また、前線が横たわっていることで、海が荒れることが予想されたが、あの4月3日ほどの事はない。
ロビーで十分に本を読んだりできる。
さて、朝食であるが、一応カロリーメイトは持ってきているのだが、これは間食用に取っておくことにしよう。
それで、自動販売機でパンを買うことにする。
デッキに出てみると、雨で濡れている。
やはり前線は近いのだ。とは言え、それほど揺れているわけではない。
それでも、屋根のあるところであれば、どうにか座れるので、そこでパンを食べつつ「百鬼園戦前・戦中日記」を読む。
昭和11年2月20日の日記を読むと「続百鬼園日記帖出来てきた」などという記述がある。
つまり、この日記より前に内田百閒の日記は出版されており、この時点で「続」まで来ていると言うことだ。
いちど読んでみたくはあるが、昭和初期となると乃公の興味の守備範囲外になってしまう。
それよりも、昭和24年で止まっている「百鬼園戦後日記」の続きを読んでみたい。内田百閒は昭和46年まで生きているのだ。
また、昭和11年2月26日の日記には「その時、軍人謀反の噂を伝う」とだけ書いている。これがまさに二・二六事件だ。
ただ、この頃の日記は1行か2行で終わっており、大して面白くはない。
何より、世間の動きには大して興味もないようで、自身の身辺の事ばかり書いている。
それなりのボリュームになってくるのは、昭和14年あたりの頃からである。
ところで、雨もさることながら、吹き付ける風は冷たい。
6月なのに、寒いくらいだ。
これまた亜熱帯から温帯に来たことを感じさせる。
ところで、何の気無しにGoogle keepを見ていると、昨日の日記の題名が先祖帰りしている。
そして、せっかく書いた日記の下書きが、父島を出港したところで途切れている。
つまり、八丈島が近づいて、オンラインの日記と同期できるようになったら、父島出港までオンラインでかけていた方が上書きされてしまったと言うことだ。
こういうこともあるのか。そうなると、早急に対処を講じなければいけない。
そのためには、完全スタンドアロンのメモ帳が欲しいところだ。
しかし、電波が不安定な海上なのでそのようなアプリを探してダウンロードというわけにはいかない。
暫定的に、iPhoneのメモ帳でしばらく代用して、こまめに手動でGoogle Keepとの同期を図っていくことにしよう。
ところで、デッキの風はあまりにも寒い。
たまりかねて9時ごろ中に入ることにする。
柿の種を買って引き続き読書。
ところで、この65gの柿の種に食塩相当量は1.29gであると言う。かなりのものである。
今読んでいる日記によれば、昭和15年頃の百閒の血圧は180位だったらしいが、これまたかなりのもの。
1番いいのは、ものを食べないこと、そして運動することなのであるが…
とにかく、起きていると腹が減ってしょうがない。
何かを口に入れないためには、寝ているに限る。
それで、ベッドに戻って寝ることにする。
それで、11時ごろまで寝ていたが、伊豆大島が近いためか、電波が1本か2本ぐらいは立っている。
ベッドの中では古川ロッパの日記の昭和20年あたりのことを読んでいる。
この辺になると、とても舞台どころではなく、空襲に怯えながらの日々となっている。
電車も動いたり動かなかったり、暗澹とした日々である。
現在、岸田政権は、軍備のための増税を企図しており、「現実主義者」は、中国の攻撃に備えるにはそうするしかないなどと知ったようなことを言っている。そして昆虫を食べろだのサツマイモを作れだの言っている。
で、もしその「現実」が1度起こったら、国民生活にまず起こるのはこうした食糧危機なのだ。
当の中国にしたって、世界的な孤立を深めている今、ありえないようなところに段々畑を造成して雇用と食糧危機を打開しようとしていると言うではないか。
この日記にしたって、電気あらばこそ書いているが、電気がなくなったら、一体どこに書けば良いだろうか。
さて、12時も近くなったので昼食にしよう。
昼食は、例によって、非常食のわかめご飯・ツナ缶・スープ。
7階の給湯室でお湯を入れて、雨に濡れるデッキで食べることにしよう。
なんだかんだ言って、ここが1番決死撮影の光線的には良い状態なのだ。
ところで、これまでにしこくん仕事と決死撮影をどのように棲み分けようか考えていたのだが、にしこくん仕事は「広報」、決死撮影は「ジャーナリズム」という分け方にしよう。
にしこくん仕事はあくまで無難なものばかり撮っていく。
ちなみに、昼頃には、房総半島の沖合に入っている。
電波の1本か2本は立っている。
電波が戻ってきたと思ったら、ニュースでは上岡龍太郎が亡くなったと言う。
房総半島の沖合に入ったとは言うものの、電波は安定していない。
どうせ電波が安定していないというのであれば、シャワーを浴びてしまおうか。
1日中船の中にいたので、油が浮いているとかそう言うわけでもないのだが、今晩はぽわんちゃんに会うので、体は清めておきたい。
そのうちだんだん電波が安定してきた。
つまり、入港は間近と言うことだ。
船内のアナウンスは「お部屋にお戻りになって下船の準備をしてください」と言っている。
というか、ドアが開いているので見てみたらもう着くではないか。
そして竹芝桟橋に到着する。
到着して早々決死しようと思ったら、楼山が飛ばされそうになる。
今、東京は前線通過の真っ最中なのだ。
青ヶ島に一緒に行った常務からもLINEが来ており、「新宿は土砂降りですよ」と言う。
こんな雨なので、クロックスではなく、ちゃんとした靴のほうがよかったかもしれない。
クロックスで歩いて何回転びそうになったことか。
さて、最初は직맹案件のために本社に行くことにしよう。
직맹の事務員さんに「4時ごろ行きますんで」と言うと、「どういうこと!?小笠原にいるんでしょ?」と返ってきた。
そういえば事務員さんには、今回内地に戻ってくることを話していなかった。
雨自体は、傘をさしていない人もいるくらいなので、大した事は無いのだ。
それ以上に風がひどい。
会社に行くには、芝増上寺の山門を通っていく。
東京タワーをバックにした立派な山門である。
そして、しばらく歩いて、昔の大東京35区の「芝区」「麻布区」の中間位のところに本社がある。
かれこれ2ヶ月ぶりの本社だ。
ところで、途中でスーパーに寄ったら、品揃えが豊富だ。
なんと言っても野菜があるし、納豆もある。牛乳もある。
父島じゃ入港日ぐらいしか売ってない。
事務員さんは帰るところだったようで「いつ来るの?」とLINEが送られてきた。
そこへ入っていった。
「久しぶり!」
ここで事務員さんにお土産を渡す。
一見、本部に提出しなければいけない資料があったので、これを機会に提出することにする。
そして、行動費を受け取る。
それだけ終わったら、事務員さんは帰っていった。
さて、こちらはこちらでやらなければいけないことがある。
μちゃんの著書「私はないものを数えない」をPDF化するのだ。
これは、YouTubeのふじわらのみいさんの最近の小笠原編を見ながらスキャン作業。
これが終わってしまったら、あとは父島に帰り次第、本は社会福祉協議会に寄付して小笠原諸島の人に読んでもらうことにしよう。
なにぶんにも、引越しの荷物は少しでも減らしたいので、その辺りは現実的に動かないといけない。
後は、日記のこれまでの部分を追いついてしまうことにする。
さて、こんなことをしていたら、17時20分になってしまった。
さっさとぽわんちゃんとの集合場所に行くことにしたい。
ということで丸の内線で新宿を目指すが、そういえば東京ってこんなに人が多かったっけ・・・?
新宿のしゃぶしゃぶ屋には、すでにぽわんちゃんは到着していた。
「マカ!黒くなったね!」
最初は焼肉の予定だったが、乃公があまりにも健康ノイローゼなので、しゃぶしゃぶにしてくれたのだ。
いつも申し訳ないね。
乃公がいない2ヶ月の間にも色々あったみたい。
お客さんもいろいろ流動していた。
また、たまにはよく変な客も来るようだ。
女性1人で店を切り盛りしていると色々なことがあるようで。
それと、この「片手の無い女性としゃぶしゃぶ」をツイートすると、なんと10以上のいいねがあった。
そして20時になったので、POWANに行くことにする。
本来は20時にはぽよのキャバに行く予定が、ぽよが熱出したので、いけなくなったのだ。
そしてパッションフルーツパイと、珊瑚のかけらをお土産にする。
以前、ラム酒とパッションリキュールを送ったのだが、パッションリキュールの方が売れ行きはいいようだ。
また、11月に父島に来てくれるらしいが、常務も来てくれるようだ。
常務は青ヶ島で出会ったベンチャーの社長さんと今なお交流があるようで、青ヶ島に連れて言ったものとしては冥利に尽きる。
それで23時まで飲む。
夜明かしは雨の中を快活で。
で、その雨がえらいことになっているようだ。
今日の決死出演は6名(累計20名)。