自分が初めて「義手」を見たのは、かなり幼い頃である。
地元の産業団地のような所で、何かの博覧会をやっていたのである(後年のつくば博を小さくしたようなの)。
つまり昭和54~55年頃。
白い着物を着たおじさんの片手は、金属のフックだった。
つまり傷痍軍人さんだったのだが、これが強烈なインパクトとして残ることになる。
思えば、昭和の頃は「義手になる」「義足になる」というのはかなり「悲惨な障害」と見られていたのではないだろうか(今でも?)。
少なくとも、現在のように「義足であることに気付かない」ということは無理だったと思う。
そんな時代の「義手」「義足」に対するまなざしを、当時の報道から振り返ってみたいと思う。
その様なわけで、目指すは国会図書館である。
今回にしこくんの中の人になるのは、トルソーさんの霧島。
この4月に暇になってからというもの、結構な頻度で国会図書館通いをしているような気がするが・・・
「義手と義足の昭和史」第1回は、昭和16年9月26日の朝日新聞からである。
「白衣の兵士」傷痍軍人さんが、義足で伊勢神宮に参拝に行ったというもの。
9月26日なので、12月8日の真珠湾攻撃の前となり、まだアメリカとは戦争状態にはなっていない。
しかし、日中戦争は始まっており、前々年昭和14年7月26日には、アメリカ側が「日本の中国侵略に抗議する」として、日米通商航海条約の破棄を通告する。
これが意味するものは、アメリカからのクズ鉄などの輸入の制限という兵糧攻めであり、 日米の関係は悪化の一途をたどっていた。
このような情勢だったので、傷痍軍人のケア(を国民に見せる事)は、国民の戦意の維持のうえで大切な事だったのだろう。
「初めての伊勢神宮に杖は持ちたくない」――と、宇治山上に南昌戦線に失った右脚の更生振りを示す。
などといった勇ましい記事となっている。
所で、他の記事は「肉弾で”幽霊砲”を屠る」というドイツの記事、「伊太利生活の嵐 五十銭以上売らず」などといった独伊の記事が目立つ。
日独伊三国同盟は、前年昭和15年の9月27日に結成されている。
「枢軸国」への道を選び、国際的な孤立を深めている時期であったことが、新聞からも見て取れる。
ところでこの「五十銭」の記事であるが、もちろんイタリアで「銭」という単位が使われているわけではなく、
二十リラは昨今の為替で四円そこそこ物価水準からゆくと日本の五十銭ぐらいである。
という書き方がしてあり、それで「五十銭」という見出しになったようである。その頃、イタリアと日本の物価には8倍の開きがあったようである。まるで後年の日本と中国のような差である。