少しでも収鋲を入れたい

7月7日に、全国市町村決死収鋲の打鋲が完了し、収鋲率の「全国調査中」が「48.2%」に塗り替わることになった。
しかし、先週は休日出勤ありハマガソありで、それ以降どこにも収鋲に行けていないのだ。

それで、今日も実は休日出勤なのであるが、収鋲を少しでも入れたいと思う。

目が覚めたら6時台だった。
できれば今日は国立市と東久留米市を収鋲して、午後から休日出勤としたい。

何分にも、午後からの休日出勤の時間を十分に取らなければいけないので行動は早い方が良いに決まっている。
しかし、うだうだとして行動にうつせないでいる。

出発したのは8時過ぎだった。

八柱の吉牛で朝食とし、新八柱から武蔵野線の人となる。
車内はまあまあ空いており、最後尾の車両のコーナーに座ることができた。

Twitterを見てると、今度は「#小山田圭吾の辞職を求めます」と言うハッシュタグがトレンド入りしている。
この件はまるで収束する気配がない。
そもそも、一体全体誰が小山田圭吾に作曲を依頼しようとしたのか、その辺の任命責任はどうなっているんだろう。
その辺の情報公開を請求できないのだろうか。

南浦和を過ぎるともっとガラガラになり、コーナーにしか人がいないようになっていた。

そして府中本町に到着。

府中本町は、そのコンクリートむき出しのホームが、鉄建公団情緒のある駅となっている。
ただし、武蔵野線の開業を機に開業したと言うわけではなく、昭和3年に南武鉄道の駅として開業したのだと言う。

府中本町の駅の構造としては、真ん中の2-3番線に武蔵野線が入り、その両側の1番線が南武線の川崎方面、4番線が南武線の立川方面と言うふうになっている。

乗り換え駅であるだけに、売店や蕎麦屋などちょっとしたエキナカが充実している。
また、府中競馬場へのアクセス駅ともなっている。
昔であれば「下河原線」という支線がそのなもズバリ「東京競馬場前駅」という駅まで走っており、なおかつ国鉄スワローズの本拠地となることも計画されていたのだという。

そして4番線へ行き、南武線の立川方面に乗ることにする。
少し昔であれば、黄色い101系だっただろうか。
今ではE231系となっている。

ほどなくして、谷保に到着する。
冷房の効いた車内から、灼熱のホームに降り立つ。

駅の両側は、密集した住宅地となっている。

そもそも国立市は、国分寺と立川の間にあるから国立と名付けられたと言うが、歴史的にはこの南武線沿いの谷保村の方が中心であったと言う。
現在では、そうした歴史的な面影はほとんど見られない。
一戸建ての住宅や、真新しい低層マンションが次々と立っている。

ほどなくして、甲州街道に出る。
片側2車線ずつの車道に狭い歩道が付いているのだが、その狭い歩道をスカートのおばさんが自転車でやってくる。

こちらがカメラを持っているのを見咎めて、睨んでくるのだが、自分のパンツよりも走るべきレーンを気にしてほしいものである。

ところで、この谷保には白山神社が2つある。
まずは谷保4130にある方の白山神社へ行って見たい。

関東地方の白山神社と言うと、まぁいろいろ言われているわけだが、西日本ほどそれらしい雰囲気は全くなく、完全に住宅地に溶け込んでいる。

このほか、谷保6005にも白山神社があるというので行ってみたい。

中央自動車道の国立インターの脇を抜け、曲がりくねった道に入る。
周辺はまだまだ水田や畑が残っていた。
結構な農業地帯となっている。

そして、アップダウンの激しい地形となっており、崖の上に住宅地があったりする。

目的の白山神社は、「谷保の城山歴史環境保全地域」となっており、鬱蒼とした竹林になっている。

Googleマップで見る白山神社と思しき所には、民家があるのだが、到底神社とは思えない。

探すのもめんどくさそうなので、今回はこれで引き上げることにする。
そしてまた谷保駅を目指す。

この谷保から次は東村山へ行きたいが、意外に経路が面倒である。
少なくとも直線で行けることはない。
まずは南武線で立川に出て,そこから中央線で国分寺へゆき、西武国分寺線で東村山へと行く。

まずは南武線の立川行きに乗って立川を目指す。

立川に到着し、改札口の近くに何かの銅像があったので、決死することに。
その折も折、おじいさんが電話をしながら立ちはだかるではないか。
電話してるおじいさんは気にしないで撮影したが、特におじいさんにキレられることもなく無事に決死が終了した。
最近の高齢者は凶暴で面倒臭いが、特に問題となることはなかった。

立川からは中央線に乗り国分寺へ。
そして国分寺から西武国分寺線に乗り、東村山へ。

実は、西武鉄道の起りというのはこの国分寺線であり、本線筋である中央本線というか甲武鉄道から、所沢へ行くための路線として開業したのであるという。
その手の歴史は、近鉄道明寺線もそうであり、元々は道明寺線の方が先に開業したのだという。

そして東村山駅前では、志村けんの銅像を見ることにする。

志村けんが亡くなったのは去年の3月29日。
その時は会社にいて、ニュース速報が流れた時、車内も一瞬その話題でもちきりになったのだった。
「志村けんが死んだんだってよ」
そのくらい、お茶の間のスターだったのだ。

あの時はまだ第1波で、帰省することすら誰もできなかった頃である。
コロナに感染するということ自体が、自粛破りの恥ずかしい行為であり、令和の今にあって村八分にすらなるような行為であった。

郡山の女子大学の教授、山梨の女性、伊平屋島の出張者、石垣島の旅行者…
精神的にトラウマを負っていないだろうか。

今では、その何倍もの感染者を出しながら、誰しもが平気で歩き回り、オリンピックすらやるというではないか。
こんなことなら去年やっていた方がマシだったという状況で。

それはともかく、駅前の志村けんの銅像は、写真を撮る人で賑わっている。

次は東久留米市を収鋲することにしたい。
東久留米市ならひばりヶ丘団地にしようか。
あの昭和30年代の映像「団地への招待」のひばりヶ丘団地である。

そのためには、まず西武新宿線で田無へ。
田無からは西武バスが頻繁に出ている。

それで、適当なひばりヶ丘行きのバスに飛び乗る。
いくばくか時間ができたので、カメラの中の写真をiPadに落として、ブログを書いて…

と思ったら、すでに終点のひばりヶ丘駅!?
つまりひばりヶ丘団地は通り過ぎてきたことになる。
すっかり編集作業に集中してしまった。

仕方がないのでひばりヶ丘駅から田無行きに乗ることに。
一番早い田03系統の田無行きは、ひばりヶ丘団地を通らないのだという。
「ひばりヶ丘団地に行きたいなら前のバスに乗って」と、田04系統を指さした。

ともかくも、その田04系統でひばりヶ丘団地を目指すことにする。

そして、ひばりが丘団地に到着。
と、いい感じの丸型ポストがある。

このポストは、あの「団地への招待」が制作された当時もここにあっただろうか。
あの若夫婦を見守っていただろうか。

しかしここは、久留米町ではなく田無町、いや、東久留米市ではなく西東京市である。
東久留米市を収鋲するのであれば、歩いて東久留米市南部地域センターへ行かなければならない。

東久留米市南部地域センターは、少し歩いたところにある。
「団地への招待」の制作当時であれば、久留米町と田無町の合同出張所であったであろうが、現在は東久留米市の持ち物となっている。
西東京市の施設は、少し歩いたバス停の近くに別に立っている。

しかし、どこから撮っても光線状態が悪すぎる。
また、撮るのであれば、背景に団地が少しでも入っていたほうがいいに決まっている。
この南部地域センターを2方向からとって、ましなものをこのブログに採用することにする。

後は、ひばりヶ丘駅または田無駅から休日出勤することとしたい。
一番近くのバス停がひばりヶ丘駅方面だったので、そのひばりヶ丘行きに乗ることにする。

そしてひばりヶ丘駅到着。
ひばりヶ丘は、急行も停車するので本数が多い。

ここから先、池袋から丸ノ内線に乗り換えるのかなぁ…と思いつつ急行に乗ってると、石神井公園の向かいのホームに、東メト7000系が止まっているではないか。
そうか。有楽町線で行けばよかったのだ。

ということで、その7000系に乗り換える。
しかし、乗った車両は元町中華街行きなので、どこかしらで新木場行きに乗り換えなければならない。

ところで、なんだってまたこの東メト最古参と思しき7000系は、元町中華街行きの系統に充当されているのだろう?
華やかな観光路線でもある元町中華街行きの本線筋にこそ、新鋭の10000系を充当すればいいような気がするのだが。

それはともかく、有楽町で日比谷線に乗り換え休日出勤へ。

その後の事は、別途エントリーを立てて記述することとしたい。
収鋲はここで終わり。

 

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