「怪朝鮮人の容疑濃し」と書いた刑事

ウヨタレつるの剛士がまたぞろヘイト誘発の犬笛を吹く。

つるの自身は「日本語分からないの一点張り」としか書いていないが、リプ欄には案の定「在日追い出せ」「在日特権なくせ」等のヘイトスピーチが並んでいる。
こんなリプが付くなんて知らなかったということはあるまい。

あげく、白々しくも「差別には大大大反対」とか・・・だったらまずお前の所に付いてる差別リプをやめさせてみろよ。それもできなくて大大大反対とか失笑しかないんだけどっていう。

ただ、これが「理想のパパランキング1位」に3年連続で輝いているという側面もある。
差別をなくすために戦っている人たちの上前をはねながら、穏やかな顔で綺麗事を言うのが「日本の常識人」なのだろうか、という気がしてならない。

いずれにしても、この件はしばらく引きずられることだろう。

過去に、部落解放同盟の糾弾会がなぜ人格崩壊まで執拗に行われたかが分かるような気がする。
差別に対峙するとは「ボクチン差別してないも~ん」と罪なくイノセントに言ってのける子にまず「差別」というものを認識させることだったのかもしれない。

いっそ大麻で捕まった伊勢谷友介よりも、つるの剛士が出てる番組の方を「差別主義者をテレビに出すとはお前の局は差別主義者かーッ!」とか、そんな風になって行くのではないか。

今回は、今この事件が発生したらおそらくヘイトの嵐になったであろう朝鮮人犯罪を紹介することにする。

昭和30年12月20日の読売新聞では、現在では埼京線の一部となった赤羽線の十条駅近くの交番で爆発事件があったことが報じられている。

12月19日夜10時過ぎのこと。
上十条二丁目派出所に1人の女性が道を聞きに来た。
詳しく教えようと思って振り返ったその次の瞬間、大轟音と共に派出所は木っ端微塵に爆発してしまった。

このために巡査は両目と両耳に重症、つまりヘレン・ケラーと同じ盲ろうという状態なってしまったということである。
これはかなり重い。
今ネットがあったら大炎上していたのではないだろうか。

容疑は、まずその道を聞いた女性に掛かることとなる。

この事件自体「犯罪捜査記録 5集 怪奇編」(成智英雄 創人社 1963)から知ったのだが、この女性は翌日に「私のことですか?」と名乗り出たのだという。
程なくしてこの女性の容疑は晴れた。
そもそも、数秒のうちに警官の背後にダイナマイトをセットして立ち去るなど、よほど爆弾に精通していないとできないことである。

年が明けて昭和31年となり、1月5日の読売新聞では「常磐炭鉱で働いていたことのある4人組の朝鮮人が怪しいのではないか」という書き方をしている。

Tというイニシャルであれば「鄭」「丁」あたりだろうか。
結論から言うと、逮捕されたのはこの苗字ではない。

時代の雰囲気として「朝鮮人が怪しいに違いない」という差別的な見込み捜査は感じる。
それでなくとも闇市とか密造酒の捜査で、多くの警察官が当時「三国人」と呼ばれていた朝鮮人や中国人にやられている。
ならば朝鮮人や中国人に正業を用意してやっただろうか? 差別はするだけして、それはしていないわけである。結局ドブロクでも闇でもして設けるしかないじゃないか。彼らからしてみればそう言いたかったであろう。
差別とは相互不信である。

前掲書は元警視庁捜査一課の刑事が昭和38年に書いたものであるが、見出しに「怪朝鮮人の容疑濃し」と書いていることからもそれが伺える。

今の時代が、警視庁の刑事をして「怪朝鮮人」と呼ばしめた時代とそう変わりあるだろうか。
むしろ、そんな差別を正当化する理屈ばかり発達しているのではないか。
公民権運動の頃の「黒人とは区別される権利」を白人が主張していたように。

結局、容疑者逮捕が報じられたのは、事件から1年近くが経とうとしていた昭和31年10月30日のことであった。

逮捕されたのは杉並区に住む52歳無職の朝鮮人の男であった。

経緯としては、事件からさかのぼること10日前の昭和30年12月9日、池袋~赤羽を72系の4両編成がピストン運行していた、一支線に過ぎなかった赤羽線の池袋を発車した電車に財布の入ったオーバーを挟まれた客がいた。
島式ホームの板橋駅では左側のドアは開かない。
滝野川に住むオーバーの持ち主は、あきらめて板橋駅で降りて行った。

対向式ホームの十条駅でドアが開いた時、そのオーバーを持って降りた客がいた。
駅員に届けるのか? と思って見ていたら、届けないで出ていくではないか。

「駅員さん、あの客、誰かのオーバー盗もうとしてますよ」
「よし、追いかけよう!」

上十条二丁目交番に届けるかと思ったらそこも素通り。
結局その男は、十条の授産所迄そのオーバーを持って行った。
「こら!そのオーバーお前のものじゃないだろ!」
「と、と、届けようと思ってたんだよ!盗むようなケチな男じゃねえ!」
「いいから警察に来い!」
それが、済州島から渡ってきたという김용길という男だった。

結局、1週間後の12月16日、起訴猶予で釈放されることになったが、腹の虫は収まることが無かった。
「あの交番は俺を泥棒扱いしやがって・・・!必ず仕返ししてやる!」そのように日本人の友人に愚痴ったという。

また、犯行当日の12月19日にも、これまた日本人の友人に一杯加減で「これから交番に行く」と言っていたのだという。

また、前掲書によれば、犯行当日は授産所の理事の所に6回も出入りしていたのだという。
1~5回目は風呂敷包みを持っていたが、事件後の6回目はその風呂敷包は無かったという。

その風呂敷包みの中にダイナマイトがあったのではないか、という状況証拠は充分であるが、そのダイナマイトをどこから持ってきたかというと、息子の춘석が町田付近で鶴見川の護岸工事に出ていた時に、発破をくすねてきたのだという。
ダイナマイトで魚を気絶させて魚を捕る「発破漁」のためであったという。

しかし、杉並区の김용길の家でダイナマイトが発見されることは無かった。
この事が、裁判でも不利な展開となることになった。

いずれにしても、以下の状況証拠から逮捕に踏み切ることになった。
①犯行当夜、酒を飲んで交番の悪口を言っており、その証人が何人もいるにもかかわらず、「その日は十条には行っていない」と言い張っている。
②事件後、急に交番の悪口を言わなくなってしまった。
③息子춘석が工事現場から持ってきたダイナマイトの量と、爆破事件で使われたダイナマイトの量が同じ。
④犯行当夜、付近にいた男の中で唯一身元が割れていない。

逮捕はしてみたものの、どうしても物証が出てこない。

前掲書によれば、日本人の内妻は「犯行当日の19日は酔っ払って寝ていた。主人は外出していない」と言い張る。
その内妻の15歳の連れ子は「学校から帰るとお父さんはいなかった。夜10時ごろまで勉強していたが帰ってこなかった」と母親とは相反する証言をしている。

そのうち、戦後すぐの次期に日本共産党公認で衆議院議員となったこともある弁護士の風早八十二と朝鮮総連杉並支部が結託して「日本人と朝鮮人の離反を企て、朝鮮人を孤立させる陰謀である」として組織だった支援運動を始めるに至った。

警察は敗色濃厚であった。
結局、交番爆破事件はどうしても立証できず、工事現場からダイナマイトをくすねてきた火薬類取締法違反で拘置令状を取るのが関の山であった。

しかし、警察としては「김용길以外に容疑者はいない」と、とことんまで掘り下げる構えであった。

しかし、結局は事件から1年が経過しようとしていた11月22日、拘置取り消しの決定がなされることとなった。

物的証拠も見つからず、김용길はあくまで否認を続けた。
しかし、ダイナマイトを持ってきたのは事実であるので、そちらのスジで取り調べを進めていると、弁護人から「不当拘留だ」という拘置取り消し請求がなされ、それが裁判所に認められたのである。

これで、交番爆破事件に対する取り調べはできなくなってしまった。

晴れて釈放された김용길のコメントがふるっている。
「身に覚えのないことなので案外気は楽だった。取り調べは遠まわしに攻める卑怯なやり方で『この悪党』などと大声で脅したり顔にタンつばを引っ掛けられたこともあった。舌でもかんでと思ったが死んだら自分の負けだと思って頑張った」

記事には出ていないが、
前掲書によれば、「朝鮮人だからと言って馬鹿にされた」という感情も多分にあったのだという。

犯行当時52歳であったということは1903年(明治36年)生まれで、4円、5円でもあれば「チュウ」を飲んでしまうというほどのアル中であったという김용길は、現在存命である可能性はほぼ無いと思われるが、その後「在日朝鮮人」としてどのような人生を辿ったのだろうか。

免田事件のように、後々になっても方々で「本当は爆破やったのはお前なんだろ?このチョン公が」などと言われながら、酒でその日の憂さを晴らす日々を送っただろうか。

さて、これからダークツーリズムへと洒落込みたい。

こういう痛々しい事件の時は人間のメンを起用したくない。
できればエリーかファラキャを出したいが、エリーは有楽町で、ファラキャは奥多摩でそれぞれ決死に出たばかりである。

こういう時は中の中の人がガチウヨのメイでも引っ張り出してこようか。

メイの中の中の人も、直接在日コリアンをどうたらとか言うわけではない。
しかし、GSOMIAがどうたら、慰安婦がどうたらと、青林堂から本を出すだけはあるネトウヨぶりで、排外的な客層のウケを取っている。

そして今回の事件でもつるのを擁護するウヨ芸人ほんこんのツイートをRTしている。
やってることはつるの剛士と同じなのだ。
こんなウヨ芸人に身を窶すなんて・・・

いずれ、今回の事件がもし現代に発生したら「そんなに日本が不満なら祖国に帰って。真面目に頑張っている韓国人だっている。絶対に김용길を絞首台に送りましょう」ぐらいのことは言っただろう。

・・・と、その該当の記事が無いのである。
仕方が無いので途中の適当な図書館によって資料蒐集することにしたい。

場所は荒川区のゆいの森図書館。去年の8月に切断ヴィーナス関係で行った所である。

読売新聞の「ヨミダス」を見るには、カード登録が必要であるというので、荒川区民ではないが登録することに。

そして、印刷・・・と思ったらプリンターが無い。
ただ、PDFで持って帰れたのでそうすることに。

さて、町屋からは西日暮里で山手線に乗り換え、池袋で埼京線に乗り換える。
事件発生当時は池袋~赤羽のピストン運行だったが、現在は新木場から川越までの直通運転である。
当時であれば新木場は「夢の島」であっただろうか。
夢の島から埼玉の川越までを直通で走るなんて、まさか김용길でも知るまいて。
当時は72系4両編成であっただろうが今回はりんかい線の70-000系であった。

程なくして十条に到着。
交番があった場所は、既に再開発されてビルが取り壊されていた。
決死モデル:チームPメイ恐竜戦隊ジュウレンジャー出身)

奇しくも、前の道路を通るタクシーのナンバーは「杉並」ナンバーであった。

 

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