【義手と義足の昭和史】昭和26年という時代(S26.5.17)

Youtubeで「昭和26年」で検索してみると、こんなニュースに行き当たる。
昭和23年に長谷川町子の漫画で普通にヒロポンが使われていた頃と違い、この頃になるとヒロポンは「取り締まるもの」として認識され始めたようである。

今回の「義手と義足の昭和史」はその昭和26年の新聞記事より。

昭和26年5月17日の毎日新聞の都民面では、真ん中右側に小さく「義足の修理いたします」という案内記事が出ている。

これは日本赤十字社東京支部によるもので「更生巡回奉仕」という形で行われているようであった。
スケジュールとしては以下の通り。

  • S26.5.21 港区役所
  • S26.5.25 中野区役所
  • S26.5.30 目黒区守屋記念館
  • S26.5.31 武蔵野市役所

これだけと言えばこれだけの記事なので、他の記事から「昭和26年」という時代を追ってみたいと思う。
とは言っても、社会面と違って都民面なのでそう深刻なニュースは無い。

まずトップで報じられているのは、有楽町駅がリニューアルするということ。
「ラク町駅」という呼び方がなされているが、戦後すぐの頃はGHQ総本部から最も近い国電駅であるこの有楽町駅のガード下にパンパンが並んで春を鬻いでいたという。
特にラジオで有名になった「ラクチョウのお時」はWikipediaの1項目として今なお語り継がれている。

また、その下には「昭和25年度の電話の稼ぎ高」として、「日本のウォール街」兜町を擁する茅場町電話局が最も稼いだことを報じている。
その次が日本橋局、丸の内局と続き、銀座局は霞が関局と分離した影響で順位を落としたという。
そして最下位は羽田局であったという。
羽田は既に国際空港があったとは言うものの、まだまだ漁村の面影が強かったのだろう。

また、一番下の広告欄を見ると、「流行色に染めて召しませ!」と、染料の広告が出ている。
ガスコンロに盥で染めていたらしい。
そういう時代だったんだね・・・

さて、ではその「ラク町」に傷痍軍人姿で繰り出すことにしましょう。

ガード下の「YURAKU CONCOURSE」にはいかにも戦後のような雰囲気の居酒屋がある。
決死モデル:チームWBラジエッタ激走戦隊カーレンジャー出身)

よく見てみると、古い看板の市内局番が2桁(つまり昭和35年の都内自動電話化前)だったりする。これも分かってて演出してるのだろうか。

 

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