第16回輪行 ~自転車でダークツーリズム~

本来は昨日行くはずだった自転車でのダークツーリズムを今日にすることに。
昨日は前線の通過で関東は雨だった。

今回行く事件は、自転車で行ける距離の場所で発生している。

この事件が最初に報じられたのは昭和32年9月28日の千葉日報となる。
千葉日報は前年の昭和31年12月にそれまでの千葉新聞の廃刊を受けて発刊し、まだ1年も経っていない時期であった。

その社会面に「女のバラバラ死体 東葛」との見出しで比較的小さく掲載されている。

千葉県の稲刈りもほぼ終わった9月下旬の26日、東葛飾郡鎌ヶ谷村の竹藪で、女の両手両足が散乱していたのが発見された。
翌27日には千葉県警本部の応援を得て捜査に入っている。
捜査本部は鎌ヶ谷村役場に置かれることとなった。

当初の見立てでは、現場に近い米軍白井基地の周辺に多くいた「オンリー」ではないかとされていた。

ちなみに、その米軍白井基地は2年後の昭和34年に日米共同飛行場となり、程なくして海上自衛隊の航空基地となっている。

翌29日の千葉日報では前日の記事より大きく扱われているが、首と胴体は依然捜査中であるという旨の記事が出ている。

女の指にはマニキュアが塗ってあったといい、「夜の女あるいはオンリーではないか」という確証は一層強くなった。
また、女の足は「九文と小さかった」というが、そもそも「文」というのはどういう単位であったか?

Wikipediaの「文(通貨単位)」によれば、「足袋などの寸法を計る際に1文銭が何枚並ぶかを目安としたことに由来する」のだといい、1文=2.4cmであるという。
つまり9文ということは21.6cm。確かに女性の足であるにしても結構小さい方である。

ちなみに、ジャイアント馬場の「16文キック」というのもこの単位からきており、本当に16文であれば38.4cm。まさか人間の足がそこまで大きいものだろうか。
昭和35年にプロ野球選手からプロレスラーに転身したジャイアント馬場のシューズには「16」とあったので、それを新聞記者が「16文」と誤認し後年の「16文キック」という呼称になったというのだが、あくまでこれはアメリカ式のサイズ標記で「16号」と言うものであった。実際のジャイアント馬場の足は14文であったという。

このように「白井基地周辺の夜の女」と見込んで捜査を進めていたところ、1人の候補が浮かび上がってきた。

それは、銚子出身で松戸の六実に住んでいた米軍のオンリーで、9月初頭から行方の分からなくなっている女性がいるというのである。
隣家の住民の証言から「気の強い性格で米兵と言い争いをすることも少なくなかった」ということも判明し、いよいよこの女性ではないかという見立てとなって行く。

ところで、他の記事に目を移すと相撲界はまさに「栃若時代」であり、昭和32年秋場所では栃錦が鏡里を寄り切りで下し13勝2敗で優勝している。
そして三賞は殊勲賞が北ノ洋、敢闘賞が若瀬川、敢闘賞が琴ヶ浜となっている。

ちなみに、西の横綱であった鏡里は、翌年の1月場所で不調であったところ「(15戦あるうち)10番勝てなかったら引退する」と記者に発言してしまい、9勝6敗で千秋楽を終え、「まだやれる」という周囲の声にもかかわらず本当に引退する羽目となった。

さて、事件の方であるがこれ以降何の進展も見られず昭和33年の声を聞くこととなった。

昭和33年もゴールデンウィークの過ぎた5月8日、東京都の千葉県境に近い江戸川区の小岩の田んぼで若い女性の首を発見。
近くのヨシ原からもミイラ化した胴体が見つかり、前年9月に江戸川の先の千葉県鎌ケ谷で発見された手足との関連も取りざたされた。

この近くでは、1か月もしない前の4月21日に女性が殺される事件が発生している。
結論から言うとこちらの方は本件とは関係なく、むしろ本件より有名な事件となった小松川高校女高生殺害事件と同じ犯人による殺害であった。

いずれ、隙間なく住宅地が立ち並んでいる現在の江戸川区小岩界隈は、この頃はまだ農村地帯であった。
つまるところ「下町」ではなく「田舎」。

別の記事に目を移すと、日航の羽田~香港~バンコク線がこのたびシンガポールまで延長されたとの記事が載っている。
機材は「City of Nara」と日本の主要都市名が付けられているのでダグラスDC-6であり、同機はパンアメリカン航空から前年にチャーターしたものであったという。

まだまだ日本人の海外渡航は著しく制限されていた時代であった。

そのバラバラ事件の身元が判明したのは、それから1か月が経過した6月7日の午後のことであった。
被害者の歯型とヘアピンから、昭和32年8月頃から行方不明になっている宮城県生まれの銀座のキャバレーの女給であると断定に至ったのだという。

ヘアピンは、自店に専属の美容室を持つほどのキャバレーが特別に注文したものであるという。
そのキャバレーとは銀座の土橋の角のランドマーク的存在であった「ショーボート」であり、この事件の22年後となる昭和45年に閉店するが、今なお幾多のブログで語り継がれる伝説的な存在である。

他の記事に目を移すと、名古屋の享栄商業高校野球部グランドでがけ崩れがあり、野球部員に死者が出たというニュースがある。

享栄商業高校はこの時点で野球の名門であり、国鉄スワローズの金田正一などを輩出している。
昭和33年時点で在学していた野球部員では、阪神や大洋で捕手として活躍した辻恭彦(ヒゲ辻ではなくダンプ辻)がおり、Wikipediaの項目でも「仲間と学校から走って40分も離れた山中に練習の場を整備したが、作業中に友人が土砂に巻き込まれて命を落とす。このことがきっかけで一度も練習を休まず取り組むようになり」と正にこの事件に言及している。

前日の読売新聞では「仙台市出身」とあるが、その後の調べで山形県高畠町の出身であると判明する。
高畠町とはかつて山形交通高畠線が奥羽本線の糠野目(現在の高畠駅)から出ていた、あの高畠町である。

そうなれば地元の山形新聞は黙っていない。

出身地・高畠町の字名まで書いており「身近な男に捜査網が追及され逮捕は時間の問題」とされており、後日の記事にも、実名まで挙げて大々的に報じられていたが、結局どうなったのか分からないままになってしまった。

このあたりは、「殺人捜査の実際」(溝口郡平著 有紀書房 1963)によれば、「しかし、犯人をどうしても割出すことができなかった。これは、事件発生の日からあまりにも日時が立っており、その間に有効な捜査資料が失われてしまったためとみられる」と記述されている。

さて、この事件に関しダークツーリズムへ赴くこととしたい。

自転車は快調に畑の中を行く。
東武野田線の踏切のあたりに行くと竹が鬱蒼と茂っている。
きっと、事件発生当時にバラバラの手足をここまで運んできた時もこのような竹林だったのかもしれない。

昭和32年9月29日の千葉日報の記事の略図からすると、たぶんここではないかという場所に到着した。
決死モデルチームPウメコ

今でも鬱蒼と竹が生い茂っている。
この鬱蒼とした竹林こそが明治期に「初富」として入植した頃の下総台地の原風景だったのかもしれない。

そして車道に戻ると向こうに「洋服の青山」の看板が見える。
新鎌ヶ谷からさほど遠くない所にあるのだ。
これで何となく日常に戻ったよな気分になった。

さて、次は小岩の現場へ・・・

しばらくはさほどの勾配も無い道を行く。
両側に果樹園が広がる。
これもまた下総台地の原風景と言うべき風景であろう。

市川市に入ってもなお果樹園は続く。
だんだん住宅地に入ってきたあたりで著しい下り坂が来る。
たぶん帰り道はここで苦労するのだろう。

あとはもう国道14号線沿いに江戸川を渡るだけである。

江戸川を渡って東京都に入り、柴又街道を南下する。

さて、田んぼであったという小岩の現場は一体どのあたりになるのか。
それは、読売新聞に書いていた住所と、江戸川区役所のウェブサイトに載っている住居表示の対照表で判明した。
現在では何の変哲もない住宅地になっている。
決死モデル:チームYジャスミン

・・・と、後ろから宅配ピザのバイクがやってきた。
きっとコロナ禍で需要が増大しているのではないだろうか。

そう思ったら今度は老婆の怒鳴り声。
年老いて耳の遠くなった夫を介護しているようだった。
昭和32~33年に22歳だったという被害者は昭和10年頃の生まれ。
この老夫婦もほぼ同年代ではないだろうか。

色々な事を感じさせる決死行であった。

さて、一通りのダークツーリズムが終わったら、にしこくん仕事として小岩菖蒲園にでも行くことにしたい。

江戸川の河川敷にある小岩菖蒲園は、まだまだ数輪しか咲いていなかった。
それでも家族連れでにぎわっていた。

来月になれば自粛も解除になるだろうか。

で、小岩まで来たら今度は松戸まで帰るわけだけど、この事件の足跡を振り返りつつ帰ってみようか。

被害者は大井立会町(京浜東北線大井町駅の海側)に住んでいたという。
そうすると、銀座から見て小岩だの鎌ヶ谷だのと言うのは、全くの逆方向ということになる。

昭和33年発行の国土地理院の地形図によれば、小岩の現場のあたりはまだ市街化していなかったようで、田んぼの真ん中に小岩第2中学校がある感じ。
市街地の端っこの廃田であれば目立つこともあるまい、という見立てだったのだろうか。
事実、8か月にわたって見つかることはなかったのだ。

しかし何で東京湾でもなく多摩川でもなく小岩?

「殺害したら千葉方面に逃げよう」という気づもりがあったとして、その途中の町外れの適当な空き地がその小岩の現場だったとする。
では今度はなぜ鎌ヶ谷?という疑問に行き付く。

小岩から市川橋を渡って千葉方面に逃げたとして、どの道を選択しようと「まっすぐ行けば行き付く」というロケーションではない。

あらかじめ「鎌ヶ谷に捨てよう」あるいは「米軍の白井基地の近くに捨てよう」という意志でもないと行き付かない場所ではないだろうか。

そういうチョイスをしうるのは、やっぱりポン引き系だったのか・・・
いずれ、60年以上の歳月が経った今は知る由もない。

輪行としては、38.0kmを3時間06分で表定速度は12.3km/hとなった。

 

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