50年前の今日 ~横須賀線爆破事件~

横須賀線爆破事件が発生。

50年前の今日は日曜日だった。
ほぼ全てのサラリーマンにとって憂鬱な月曜日である、翌昭和43年6月17日の朝日新聞朝刊ではトップで報じられている。

横須賀を発車した東京行きの113系電車10両編成が大船に入ろうとしていたその時、前から6両目の5号車の網棚で荷物が爆発し、その下にいたサラリーマン1名が死亡するという事件が発生した。

発生時刻は15:30頃。
日曜日の午後なので、鎌倉や横須賀に観光に行っていた客も、そろそろ帰る客が増えようかという時刻である。

電車の爆発事件はこれが初めてではなかった。
さかのぼること6年前の昭和37年には地下鉄銀座線で「草加次郎」事件が発生し、前年の昭和42年6月18日には山陽電鉄の塩屋駅で爆発事件が発生しており、いずれも犯人は見つからないままになっていた。
そこで、事件発生当初からこれらの事件との関連を疑っていた。

他のニュースに目を移すと、ベトナム戦争でサイゴン防衛の記事となっている。
日本は「自由主義」の陣営であるので、南ベトナムからの視点であり、情報ソースは米軍が頼りとなっている。

この日の夕刊では、既に犯人が三多摩方面であるという事を突き止めている。
それは、爆発物を包んでいた新聞の記事に、多摩川競艇の開催情報が掲載されていたからである。

ただし、この記事は1面には掲載されているがトップではない。
トップは国際収支の劇的な改善による物価統制の問題。この時点で日本は高度成長期のただ中にあった。

その横には自民党総裁である佐藤栄作首相が各地を遊説して歩いていく記事。
鉄道官僚出身の国会議員は数あれど、総理大臣まで務めたのは佐藤栄作ただ一人となる。

また、学生運動も盛んな時期で、東大の大河内総長が、昭和27年以来16年ぶりに東大構内に警官を入れることを要請しているという記事がある。
その「昭和27年」というのが何であるかというと、拙ブログでも紹介した東大ポポロ事件である。

横須賀線の爆発事件が喧しく報道されている中、横須賀線と同じ113系がまた事故を起こすこととなった。
場所は開業してまだ10年と経過していない新線の伊豆急行川奈駅。

観光路線である伊豆急に国鉄から乗り入れていた113系と、伊豆急の電車が衝突したのである。
乗客は我先に逃げ出し、死者は出なかったものの多くの人が病院に運ばれることとなった。
報道では、「ブレーキの故障か」と言われているが、Wikipediaによれば・・・

伊豆急行川奈駅構内列車接触事故
1968年(昭和43年)6月18日10時30分
伊豆急行川奈駅構内でホームに入ろうとしていた熱海発伊豆急下田行き下り7両編成電車の3両目に、約70メートル行き過ぎた伊豆急行の伊豆急下田発伊東行きの上り3両編成電車が接触して傾いた。60名が負傷。
事故原因は上り電車の運転士が居眠りし、信号の停止指示を無視して発車したことであるが、同運転士は事故前夜同僚と従業員寮で明け方4時まで徹夜麻雀をし7時に出勤するまでほとんど寝ていなかったことが判明、逮捕起訴された。
また伊豆急行では単線でほぼ全駅で列車を交換するダイヤであったが、ATSが未装備だった。そのため、早期のATS設置が決定した。

徹マンですか・・・

しかし、これ以降横須賀線の爆破に関するニュースはほとんどなくなっていく。
それでも、捜査は地道に進められていた。

事件から5か月が経過しようとしていた11月10日の朝日新聞で、ようやく犯人逮捕の報道がなされることとなった。

犯人は日野市に住む大工の男であった。
この時点では「特定の誰かに対する恨み」ではなく「自分の作った爆発物の威力を試したかった」という供述がなされている。

昭和34年に山形県尾花沢市から上京して10年になろうとしていたが、地方出身であることのコンプレックスがあったという報道がなされている。ただ「コンプレックスがあった」と自分で言ったのか、新聞がそのように推測したのかは不明である。
ただ、新聞としてもたぶんこいつが逮捕されるだろう、という見込みはつけていて、下調べを積み重ねていたというのはあるのだろうか。
例えば、2008年に千葉県東金市で知的障害者が女児を殺害した事件のように・・・
あの事件の場合は、TBSの女性記者が知的障害者である犯人にやたら接触して発言を引き出そうとしていたのが問題になっていた。
ただ、この横須賀線の事件については、犯人に対してそのようなマスコミの接触はなかったようである。それにしても尾花沢だの昭和34年に上京だの、情報早すぎ・・・

11月14日の朝日新聞では、犯人の特定に至る裏話と、その後の犯人の供述の状況が報じられている。

まず、犯人特定に至る裏話については、名古屋に住む人から「印刷のずれで地域が分かるはず」という捜査本部への投書があったようである。
それをもとに調べ、三多摩地域の中でも日野・立川・八王子方面であると絞ったようである。

また、犯人はなぜ横須賀線を狙ったか。
それは、本当は12番線に停まる東海道線の湘南電車を狙う予定が、80%ぐらいの込み具合ですぐばれると思い、13番線の横須賀線にしたのだという。

多くの資料では、「同郷の恋人と結婚できず、恋人が住んでいた横浜市戸塚区を走る横須賀線を狙った」とされているが、それが戸塚駅という事であれば東京~戸塚間は、昭和55年のSM分離前の事であり東海道線でも横須賀線でも同じように行ける時代だった。
もし、東海道線の電車が混んでいなければ、もしか知れば沼津か吉原あたりで「東海道線爆破事件」という事になっていたかもしれない。

ちょうど50年前の今日会ったその事件の跡を訪ねて「事件現場を歩く」こととしたい。

まずは、爆弾を仕掛けた東京駅12~13番線ホーム。
決死モデル:チームTエリー

・・・であるが、今や北陸新幹線・・・というか当時の長野新幹線の新幹線ホーム拡幅工事で、1994年に11・12番ホームと13・14番ホームは廃止されたのである。
今や、北陸新幹線が金沢へ向けて出発していく。
そして、横須賀線は先述のSM分離(SF結合)により、地下のホームに移っており、現在は9~10番線に「上野東京ライン」として東海道線が来るだけである。

ひとまずはその「上野東京ライン」で北鎌倉を目指すことにしたい。

北鎌倉へ行くために大船で横須賀線に乗り換えたが、それは湘南新宿ラインから来た湘南色のE231系だった。
湘南色の電車で横須賀線に乗るというのもまた「時代」である。

北鎌倉の駅の近くには「縁切寺」として有名な東慶寺もある。
決死モデル:チームYジャスミン

「縁切寺」は、「暗い曲ばかりヒットしていた」グレープ時代のさだまさしが作曲しバンバンが歌っていた曲にもなっている。

そして東京方面への横須賀線に乗る。
当然ながら、当時であれば東京行きであったが現在は千葉行きだったり君津行きだったり上総一ノ宮行きだったり成田空港行きだったりする。
また、湘南新宿ラインの湘南色の電車は日中であれば1時間に2本である。
事件当時は、北鎌倉で東慶寺を見た客も乗っていたであろうか。
爆発は、大船駅侵入直前の田園踏切のあたりで発生したという。
当時も、上り線は東海道本線と干渉せず立体交差の形で大船駅に進入していたであろうか。

横須賀線の車両も当時70系が全廃され新鋭であった113系も横須賀線から去って久しく、E217系となっており、4扉となっている。

6号車から5号車の網棚を撮ってみることにする。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です