やっぱり今日も雨かね・・・
【傘を忘れずに(・ω・)ゞ】4時発表 富山市の今日の天気 曇のち雨 最高30℃ 最低25℃ #tenkijp_富山 https://t.co/JaRJbactWg
— tenki.jp ( 富山 ) (@tenkijp_toyama) 2017年7月23日
さて今日の旅の始まりは総曲輪のホテルからである。
・・・とは言っても、別にANAクラウンプラザホテルに泊まったわけではなく、ウェディングドレスのトルソーを見るとつい撮りたくなる性分と言うだけ。
(決死モデル:チームWBナギサヤ)
総曲輪は富山の中心的な商業地帯であり、「銀ブラ」ならぬ「総ブラ」という言葉もあるらしい。(確かNHKの「映像の二十世紀」でやってたような気が・・・)
さて、富山駅から新港東口行きのバスに乗ることにしたい。
ところで、だんだん雲行きが怪しくなり、ついに雨が降り出してしまった。
今日もやっぱり雨にたたられるのかね・・・
(決死モデル:トルソーさんのファラキャ)
さて、新港東口行きのバスは、富山駅の北側へ行くバスである割には、最初は地鉄軌道線の大学前方向に沿っていく。つまり駅の南西方向ということになる。
確かに地鉄射水線(昭和55年廃止)は、現在の大学前の少し前にあった新富山駅が出発地点であった。
そういう意味では本当に射水線の跡をトレースしているのであろう。
実は、10年以上前にこの射水線の跡はトレースしている。
それも、富山在住の同じdevoteeの方に射水線の跡の専用道を案内してもらったのである。その時点で、その専用道を走るバスは1日1本になっており、専用道を管理する意味があったのかどうかという状態だったのを記憶している。
その方とも疎遠になってしまったが・・・ まあ自分が厨房だったしね・・・
さて、新港東口に到着すると、そこが富山県営渡船の堀岡桟橋である。
堀込式の港である富山新港の東岸と西岸を、県営の無料渡船が運行しているのである。
(決死モデル:チームY宇崎)
この富山新港ができる前の昭和41年までは、射水線も新湊や高岡方面へ通じていたのである。
それが昭和34年に、新湊(現在の六渡寺)から先が加越能鉄道に譲渡され、昭和41年に富山新港の東西が分断されてから、現在の越ノ潟~六渡寺も加越能鉄道に譲渡されることになったのである。
越ノ潟の桟橋に到着すると、今度は万葉線である。
(決死モデル:チームTヤギー)
加越能鉄道は、戦時合併で誕生した富山地鉄のうち、高岡を中心とする呉西地区の鉄道・バス路線により発足したのだという。
発足当時は高岡市内線はまだ富山地鉄のままであり、石動~福野~庄川町の非電化の加越線が唯一の鉄道路線だったのだという。
一部前述しているが、高岡駅前~新湊(六渡寺)が加越能鉄道の路線になったのは、昭和34年になってからだという。
さて、現在の万葉線であるが、終点の越ノ潟まで15分間隔で運転しており、地方の路面電車としてはかなり奮闘している方ではないだろうか。
ただし単線区間が多い。併用軌道もかなりの区間に亘っているので、ダイヤを組む上では苦労が絶えないのではないだろうか。
また、加越能鉄道の親会社であった富山地鉄では、味のある駅舎がまだまだ残っているのに対し、この万葉線ではそんな駅舎はほぼないに等しい。
一抹の寂しさは感じるが、近代化への意気込みを感じるということでいいのだろうか。
電停も待合室がリニューアルされて綺麗になり、全く雨にぬれずに電車に乗る事ができる。
加越能鉄道から万葉線になるにあたり、行政としてもかなり気合を入れてリニューアルしたということなのだろう。
また、藤子不二雄の出身地であることから、ドラえもんポストなんてのが置いてある。
北陸新幹線開業後、JRの孤立路線として残った氷見線では、藤子不二雄の絵のラッピングがされたキハ40なんてのも走っている。
あとは、あいの風とやま鉄道で金沢を目指すだけである。
あいの風とやま鉄道とIRいしかわ鉄道の境界にになるのは倶利伽羅駅であるが、その倶梨伽羅を過ぎ、津端に到着すると、雨の降り方が尋常ではないことに気付いた。
金沢に到着するとものすごい雨である。
名物の鼓門を撮影するのも、バス待合所の屋根の下から撮るのが精々と言ったところであった。
(決死モデル:チームR持田)