昨日の朝鮮カラオケで教えてもらった朝鮮総連系のYouTubeチャンネル。
ただし更新頻度が疎らすぎる。
目覚めたら前沢サービスエリア。
これで6時ぐらいだったので、盛岡駅に7時過ぎに着くのかどうか心配なところではある。
朝の光が激しい。
盛岡はまだ冬なのか。緯度が高いからそうなのか。
とにかく決死やりにくそうな日和ではある。
最初の腹ごしらえは駅前の松屋にて。
結局そうなってしまう。
その後、駅前のバス乗り場でバスを待つが、盛岡は豆腐の消費量が全国一なのだと言う。
それで「豆腐のまち」と。
目の前に、矢幅駅前行きというのが来ている。
だいたい盛岡の南方面といえば矢巾営業所行きか日詰駅前行きと相場が決まっているが、矢巾駅前とはめずらしい。
いずれにしろ石割桜のあるところは通るはずなので飛び乗る事に。
中央通1丁目で降りて裁判所の前へ。
ここに石割桜がある。
「やっていがった 裁判員」と裁判員制度をアピールしているが、凄惨な事件現場を見せられてトラウマになるという裁判員制度の何がいいのだろう。
仕事の時間を取られるというし…
ところで、決死モデルのアンヌがバトントワラー姿なのは、盛岡の夏の風物詩・さんさ踊りの先頭を飾るのがバトントワラーだったからである。
さんさ踊りそのものよりむしろこちらの方が楽しみだった。
レオタードにはなぜかセックスアピールを感じなかったが。
なにぶんにも光線状態が悪いので、樹木や電信柱の影を確保しないといけない。
それと向こうの撮影者も気をつけないといけない。
本当はあのバトントワラーが行進していた中央通りまで入るアングルで撮影したかったが、それだとあまりにも石割桜が小さくなってしまう。
それでもどうにか特徴的な県庁が入るようなアングルで撮ることができた。
さて、ここでダークツーリズムを入れたい。
昭和31年なのでかれこれ65年前の話。
事件の第一報は昭和31年2月8日の岩手日報で報じられている。
県都盛岡は鷹匠小路の商家で火災があり、女将と高校生になるその息子が焼死したのだという。
もっと正確にいうと「焼死」ではなかったようだ。
2人の遺体から鈍器による傷跡が発見され、殺された後に放火されたのではないかという見立てがなされた。
では誰が?強盗?
火元を調べると、女中部屋が激しく燃えており、石油罐まで発見された。
そしてその女中は行方不明になっている。
第一の容疑は女中に掛かることになった。
ところで、盛岡で鷹匠小路というとどこになるかというと、杜陵小学校の裏手から遠山病院にかけての通りがそうなり、介護施設やマンションの名前に現在でもその古い名前を残している。
なおかつ、新聞の地図を見ると下ノ橋通りとなっている。
つまり現場は鷹匠小路と下ノ橋通りの交差点。
はっきり言って特定は非常に楽…
ところで、下の広告欄に目を移すと盛岡中劇で「暴力には暴力だ」という映画をやっているようだ。
これは1955年11月24日に封切りされたアメリカ映画。
ゴールドラッシュの時代を描いたアクション映画である。
翌2月9日の岩手日報には、その犯人と目されている女中の顔が大々的に載せられている。
また、凶器と思われるマサカリも発見された。
その女中の背景を調べると「放火殺人」をするだけの「動機」は、十分に推察される状況であった。
事件の数日前に暇を出されていたというのである。
ところで今の若い人に「暇を出される」という言い方は通用するだろうか。
つまりこれは「解雇される」ということである。
ただしこれは医師をしていて生き残った長男がそう言っていたという話。
女中に親しい筋からは「本当は暇を出されたくないのだが」と漏らしていたという証言もあった。
職業安定所に就職口斡旋の依頼をしていたという話もあった。
ところでこの「職安」云々言うのはどこからの話だろうか。
まさか新聞記者が職安まで行って取材したとか、あるいは職安の職員が「その人ならうちに来て…」みたいな話をしたとか?
いずれにしろ「個人情報の保護」という概念がまるでなかった時代の空気ではないだろうか。
でまた、その「暇を出された」理由というのが「長男に新しい嫁が来るから」。
つまり、長男の嫁を女中としてタダ働きさせよう。今までの女中はクビにしよう。
本当にこのような理由なら、令和の時代なら「フェミ」が黙っていなかっただろう。
果たして、その犯人の女中はすぐに捕まることになった。
このことは2月10日の岩手日報で報じられている。
それは秋田県境に近い、今では「西和賀町」と呼ばれている湯本温泉の温泉旅館であった。
温泉旅館の女中が岩手日報の記者に語ったところでは、
「8日17:50頃、吹雪の中を角巻姿の女性客が来た。宿帳には稗貫郡宮野目村から来たと書いてある。19時ごろ寝たようだが様子がおかしかった。帳場でそんな話をすると『新聞に出ていた盛岡の放火殺人の女中じゃないか』と。確かに顔はそっくりである。それで警察に連絡したのだ」
ちなみに稗貫郡宮野目村とは現在の花巻空港のあたりであるが、この事件の2年前である昭和29年に花巻市に合併している。
当時の生活感覚では、宮野目村も花巻市も大差なかっただろうか。
ともあれ、犯行の経緯としては、日付が7日に変わった深夜に行動を開始、そのまま徒歩で明治橋を渡り国道4号線を南下して花巻まで歩いたのだという。
そして7日の晩は花巻駅前の旅館に泊まる。
翌8日になってみると、先述の通り「女中の犯行か」と書いており、追われているのは分かった。
それで北上から横黒線に乗り、陸中川尻で降りて湯本温泉の旅館に入ったのだという。
翌2月11日の岩手日報では、本格的に取調べが始まったことを報じている。
写真を見る限りでは、盛岡もかなり吹雪だったようだ。
また、識者の声も寄せられている。
盛岡市内の弁護士は、「女中はとかく役立たずの女という世間の偏見があるが、対等な人間として扱うべき。女中組合と言ったものを結成するべきではないか」と話している。
確かに、昔の文学では学のない貧しい女性が「女中奉公に出る」という描写はよくされている。
そうかと思うと、女医さんの発言は辛辣そのものである。
「精神異常者としか思えず幼稚」。
同じ女性なのでもう少し庇ってやれないものなのかと思ってしまうのだが、そのあたりはどうなのだろうか。
医者の世界は令和になった今なお女性差別的であるという。
そのような中を逞しくかいくぐってきたという自負の裏返しなのだろうか。
ところで、拙ブログでも紹介したことのある「岩手の重要犯罪」でもこの事件は紹介されており、以下のようなくだりがある。
精神分裂病質的な性抑制の持主で、ゴンプレックス(本能の過度の抑制などから起る一種の精神異常)が爆発して犯行に及んだと忠われる。
この当時「コンプレックス」という言葉は一般に馴染みのない言葉だったようだ。
ちなみに、同書によればこのような精神状態から死刑を減ぜられ、無期懲役に変更となったようである。
大正12年(1921年)に生まれたというので2021年の今年で実に満100歳となる彼女が今なおご存命の確率は極めて低いが、女性の働き方をめぐる環境は、良くなったと果たして言えるだろうか。
ここでダークツーリズムと行きたい。
石割桜からは、岩手公園の裏を通って下ノ橋に出ればすぐの所に事件現場はある。
何しろ鷹匠小路と下ノ橋通りの交差点にあると岩手日報にはっきり書かれているのだ。特定は容易である。
擬宝珠のある下ノ橋を渡ってすぐの所にある。
事件現場にはよくあることで、現在は駐車場になっている。
それも、当時の屋号がそのまま残っているのだ。
犯人だった女中も、逃げる時は下ノ橋を… いや、南の方に逃げたので下ノ橋は渡らなかっただろう。
しかし、下ノ橋の擬宝珠は65年前のあの日、燃えさかっていた商家を見ていたかもしれない。
さて、ダークが終わったら今度は菜園の川徳へ行きたい。
川徳は盛岡を代表するデパートである。
ただし10時開店なので、近くのスターバックスでしばし待つことに。
東京のスターバックスとは違い、ガラガラで快適である。
さて、色々やってたらいい時間になったのでいきましょう。
なぜ川徳なのかというと、入り口に「エーゲ海に捧ぐ」の像が置いてあるから。
日立市郷土博物館にも置いていたが、これだけのために来たと言っても過言ではない。
トルソーandトルソー。
ただし、時節柄像の前には消毒用アルコールが置いてある。
さて、次は矢巾方面にいきましょうか。
本格的な各市町村収鋲の旅の始まりである。
収鋲の旅の始まりは矢巾町から。
福田パンの矢巾店へ行くこととしたい。
これは流通センターに中にある。
今やGoogleマップを見ればバスの系統と時間までわかるのだ。
福田パンの近くのバス停である陸運支局前にバス停をクリックすると、507か513で行けばいいということがわかる。
つまり川久保経由矢巾営業所行き。
1時間に1本程度走っており、次は11:10らしい。
じゃちょっと盛岡バスセンターまで歩きますか…
盛岡バスセンターは完全に建物が無くなっていた。
次はどんな建物の使われ方をするのだろうか。
さて、507の川久保経由矢巾営業所行きは南大通を通り明治橋を渡って盛岡の南の郊外へ。
三本柳の交差点から西へ折れて東北本線を越え、流通センターへ。
運輸支局の近くに福田パンの工場がある。
福田パンは、言わずと知れた盛岡市民のソウルフードだ。
スーパーやなんかで買う時はあんバターだが、自分の場合は直営店で買うならコンビーフがいい。
高校の頃は190円だったが今は280円だ。
自分には青春なんて無いようなものだったが、数少ない青春の味といえば福田パンのコンビーフだ。
学校帰り、医大の近くの長田町に本店があったのだ。
ところでなぜ決死モデルの園田が傷痍軍人姿なのか。
それは、子供の頃、この流通センターで何かの催しがあり、そこに片腕フックの傷痍軍人がいたのだ。
これも、自分のフェチ前史におけるinspectiveな出来事であったといえよう。
そういう意味では、超初期の「私的devotee史」の1ページとなる。
さて、今度は隣の紫波町を収鋲したい。
桜の咲き誇るCGC東北の前のバス停から岩手飯岡駅へ。
本当は矢巾駅経由のバスだったら良かったのだが。
岩手飯岡駅から紫波中央駅までは701系の2両編成。
しかし電信柱の「いわていいおか」の駅名標にはかなりの年季が入っており、ED75の牽引する鈍行列車にも通過されていた頃を知っているような佇まいであった。
程なくして紫波中央駅に到着。
1998年開業の新しい駅である。
元々、紫波町には明治期に開業した日詰駅があり、455系の急行「いわて」「くりこま」もその日詰に停まっていた。
しかし日詰駅は日詰の市街地の南の外れにあったのだ。
もっと近いところに駅のつくりようもあっただろうに、なぜこんな所にあったのか。
その懸案が100年越しに解消されたのが、この紫波中央駅ということになる。
いずれにしろ、この紫波中央駅への到達を以て紫波町の収鋲は完了。
次は、北上市で収鋲することにしたい。
北上は乗り換えなどではよく利用するが、本格的に降りたことはない。
それで未収鋲になっていたのだ。
折よく北上行きが来たので乗る。
いつもの癖でコーナーを取る。
花巻で部活帰りと思しき女子高生4人組。
花巻東の女子野球部であるという
大谷を輩出した花巻東には女子野球部もあるのか。
そして北上に到着。
北上からは歩くことにする。
駅前はかつてデパートだったと思しき建物が現在は地域の交流センターになっているという地方都市でよくあるパターン。
桜で有名な展勝地は、駅の反対側にある。
長い通路を通って駅の裏側へ。
かなり長い距離を歩いて珊瑚橋へ。
珊瑚橋もまた昭和38年に乳児死体遺棄に現場になったダークツーリズムのスポットではあるのだが、それは別の機会にして今日は桜を見ることとしたい。
展勝地は桜の名所だけに家族連れで賑わっている。
中にはどう見ても日本人には見えない子供もいる。
岩手県もなかなかに国際化が進んでいるようだ。
良いアングルで桜と珊瑚橋を撮りたいが、そういう所は誰だって撮りたいに決まっている。
苦労しつつどうにか撮影。
さて、帰りをどうするかを考えないといけない。
新幹線だと北上からやまびこで仙台まで行って、仙台からはやぶさに乗れば良いのか?
いや、やまびこでそのまま大宮まで乗るか?
いや、その場合電源の確保が問題になる。
ただ、上越新幹線でもE2系に電源が完備されていた。
そう思ってとりあえずえきねっと… と思ったら、北上に停車する「はやぶさ」があるらしい。
それであれば話は早い。
16:30のはやぶさを予約することに。
ところで、展勝地を最後まで歩くとSLが保存しているらしい。
どうする…?
新幹線の時間には余裕があるかもしれない。
ただ、歩くのが面倒だというだけである。
しかしここまで来てSLを見ないという法も無い。
意を決して、見に行くことにした。
果たして、そのSLを見に行くとC58だけではない。
ラッセル車と車掌車まで保存しているではないか。
これは掘り出し物だった。
さて、満足裡に帰途につくことにしたい。
新幹線では充電しつつブログの下書きを書くだけ。
ラジエッタの決死を以てハ群も消尽したので、もう決死もしない。
大宮では「凪」で煮干しラーメン。