いつか行こうと思っていた聖地に出かけることとしたい。
それは「山手のドルフィン」。
ということでプールに行き終わり、田町から京浜東北線で乗り換えなしで根岸へ。
根岸は市電保存館以来となる。
〽坂を登って今日も 一人来てしまった
と歌詞にもある坂は「不動坂」と言うのだそうで、登り切る直前ぐらいに「ドルフィン」があるのだが、登り切った所には何やら「消防署」というにはバタ臭い雰囲気の建物がある。
(決死モデル:チームPペギー)
曰く「U.S. Naval Fire Department No.5」。
つまり米海軍第5消防署ということになる。
近くには米軍住宅もあり、またドルフィンの向かいにはアメリカンなハンバーガーショップもある。
元々この地域は米兵とのつながりが多いのだ。
してみれば「海を見ていた午後」も、「ランドリーゲートの思い出」同様、米軍ソングということかもしれない。
11時になり店が開く。
そもそもこのドルフィン、何で有名かといえばユーミンの曲である。
玄関脇のスペースには、皿に書かれたユーミンのサインや記事が鎮座している。
一応、「ユーミンの曲になった」ということは自慢にはなっているようだった。
その他にも、色んな有名人が来店しているようで、皿にサインが残されている。
現在は1階は余り使っていないようで、2階に招じ入れられる。
建物としては、おそらくは昭和の終わりか平成の初めあたりに建て替えた感じで、随所に年季が入り始めている。
メニューを見せられると、ランチはAセット(魚のコース)、Bセット(肉のコース)、パスタセットでいずれも2,484円。
何というか・・・ つまりは高級洋食店である。
それはそれで頼むとして、何はなくとも「ソーダ水」を頼まないことには、この店に来た意味はない。
ということでドルフィンソーダを頼む。
そしてそのドルフィンソーダが出て来ると、店員が「海を見ていた午後」をかける。
このセンスもどうなのか・・・
また、
〽ソーダ水の中を貨物船が通る
かといえば、東方向を望めばギリギリ できないことはないかも知れない。
ただ、そのアングルで撮ると、どうしてもド逆光になり、ペギーは単なる黒い影になってしまう。
仕方がないので、
〽晴れた午後には遠く 三浦岬も見える
という南方向を望むことにする。
ただし、有名な話ではあるが、横浜から三浦岬を見ることはできない。
そもそも「三浦岬」という地名があるわけではなく、三浦市内にある岬という意味では城ヶ島や剱崎があるが、三浦半島の山々に阻まれてみることはできなそうである。
見えるとすれば観音崎(横須賀市)になるだろう。
実際、それらしい地形を見ることはできた。
あと、フアンの中でもここまでする人がいるかどうか分からないが、
〽紙ナプキンには インクがにじむから 忘れないでって やっと書いた 遠いあの日
という歌詞も実行しようと思ったが、不幸にして万年筆も水性サインペンも持って来ていない。
仕方がないので、手持ちのボールペンで書いてみた。
でも、実際どういう状況だったんだろう。
失恋ほどひどい状況ではなさそう。
相手の米兵さんが本国に召喚になったか、あるいはベトナムに出撃?
「MISSLIM」が発売された1974年当時であれば、まだサイゴンは陥落していない(1975.4.30)。
ただ、アメリカはパリ和平協定(1973.1.27)で撤退を決め、その2日後、ニクソン大統領が「ベトナム戦争の終結」を宣言している。
そして2ヶ月後の3月29日に、ベトナムに残っていた24,000人の米兵の撤退が完了。
このタイミングで横須賀の米海軍兵士も次々と本国召喚され、ドブ板通りも閑古鳥が鳴き始めた。
そうすると、
〽あの時目の前で 思い切り泣けたら 今頃二人ここで 海を見ていたはず
というのは何だろう。
女が一人泣いたくらいで米軍の人事計画がどう動くというものでもあるまい。
ただ、本国召喚が決まった時、Tachikawa Air baseの近くからわざわざ横浜まで来ていたその現地人少女は、それを一緒に喜んでみせたのかもしれない。
「またアメリカに帰れるね。ママもきっと喜んでるよ」
まさか「行かないで!日本で仕事でも何でも見付けてずっと一緒にいて!」なんて言い出せなかったのだろう。
1954年に生まれ20才になったかならないかの年齢だったユーミンは、プライドを捨てて泣けるほど子供でもなく、なおかつかなりの詩人だったのだ。
ちなみに、先述の米海軍消防署の付近の根岸森林公園の結構な土地は、今なお米軍用地となっており一般人は立ち入ることができない。
(決死モデル:トルソーさんの霧島)
そもそもこの根岸森林公園、元々は日本で初めての洋式競馬場・根岸競馬場が米軍に接収されゴルフ場になったという由緒がある。
関東大震災後に再建された「一等馬見所」は現在でも近代建築として残っている。
米軍用地を隔てるフェンスの向こうに、その一等馬見所は残っており、横浜市の文化財として保存されている。
そして、一等馬見所つまりスタンドの後側(甲子園球場で言えば蔦が生えている所)は一面の芝生から望むことができる。
この馬見所もまた、横浜市によってフェンスで囲まれ、中に入ることはできない。
芝生から下を望むと、住宅地が広がる。
町内会の掲示板を見ると、ごく普通に子供がおり、ごく普通に老人がいる普通の住宅地であることを伺わせる。.
さて、あとは帰るだけ・・・
元来たフェンスを伝っていけば、根岸台のバス終点へ行くことができる。
根岸台のバス終点は、横浜駅から103番のバスが1時間に4〜5本の頻度で来ており、横浜市交通局の乗務員駐泊所もある本格的なバスターミナルである。
(決死モデル:トルソーさんのラ・バルバ・デ)
ここから横浜駅へ、アップダウンの多い道を通りつつ横浜駅へ向かう。
考えてみれば横浜駅に行ったことは何回もあるが「横浜駅前」に行ったことは1回もないような気がする。
果たして、横浜駅の前は広場があるわけでもバスターミナルがあるわけでもない。
ただ「横浜駅改札口前」という、他には類を見ないバス停だけだった。
ちなみに、横浜駅を管轄する警察署は戸部警察署であることを初めて知った。