天気晴朗なれど波高し

おがさわら丸の船内なので、インターネットで天気図は取得できない。
東京の南海上は前線が通過し、波も2メートル程度の模様。

おがさわら丸のベッドで目が覚めたら、5時ごろだった。
それもそうだろう、昨夜は日付が変わるかなり前に寝たのだから。

トイレに起きたついでに、外を見てみるとすっかり明るくなっている。

いちど、デッキに出てみようか。
それなりに波は揺れている。何より風が強い。
吹き飛ばされないように注意しながら何枚か決死
やはり手ぶれは激しいが、比較的ましなの数枚残した。

しかし、これ以上やる事は無いので、ベッドに戻ることにする。

引き続き内田百閒「東京焼尽」を読んで行く。
昭和20年4月24日にはヒトラー陥落の報に触れ「ヒトレルに誤られて獨逸国民は誠に気の毒なり」としつつも献杯している。
また、5月18日には「気やくその悪い大政翼賛会が解散した」と言うことを喜んでいる。戦時中にこのような認識を持っていて、軍部からにらまれたりはしなかったのだろうか。文学報国会に関しては「文士が政治の残肴に鼻を擦り付けてかぎまわっているような団体」というような認識だったようである。

そんなことをしていたら、7時過ぎてしまった。
朝食を食べに行こうか。

そのようなわけで、いつもの非常食やツナ缶などを持ってデッキへ行く。

そして、デッキで「東京焼尽」を読みながら、わかめご飯ができるのを待っていると、向こうの席では、アンテナを立てて「CQCQ…」とアマチュアハムをやっている人がいる。
聞いたところでは、小笠原からの受信というのはレア度が高く、ハム愛好家にとって憧れの地なのだという。

「東京焼尽」の方であるが、昭和20年6月に入ると百閒の家も焼け出されることになり、本人の言を借りれば「乞食暮らし」と言うことになってしまう。
ところで、この百閒に何くれとなく、食料や酒を持ってきてくれる「古日」という人は何者なのだろう。市川に住んでいるようなのだが。ヒマラヤ山系とはまた違う人なのだろうか。
そう思って「百鬼園戦前・戦中日記」を調べてみたら、人名索引のところにあった。

曰く「大橋古日 本名・一保。岡山市西中島生まれ。「東炎」同人。昭和15年より日本郵船船客課勤務」と。
同郷の弟子筋ということだろうか。

ところで、裂けるモッツアレラチーズは10本ぐらい買って持ってきたのだが、すぐ無くなってしまう。
カロリーメイトのような炭水化物とは違って罪悪感がないからだろうか。
これは間食にいいかもしれない。
とは言え、1本あたりの食塩相当量は0.4gであると言う。という事は、10本食えば4gだ。

9時になると、進行方向左側に聟島列島が見えてくる。
とは言え、電波が入るわけではない。

「東京焼尽」は昭和20年7月に入るが、ついに食べる米すらなくなってしまった。
7月21日の日記では「地図の上で思い出しそうな町は大概なくなった。どんな街にも感情があり由緒や歴史がある。誰がこんなことにしたのか。新聞の御用記事ではいろんなことを言っているが決して国民のせいではない」と書いている。
こんな記事を書いてるのが憲兵とかに知れたら、殴られるのではないだろうか。
それとも、多かれ少なかれ国民の大体がそのように思っていたと言うことだろうか。

ところで、9時40分ごろやっと電波が1本立った。

船のスピーカーからは〽️若い二人は離れているけれど〜でね〜 と「レモン林」が聞こえてきた。
ああ、日常に戻されるのだ。

こうなったら「東京焼尽」を最後まで読んでしまおう。
昭和20年8月になると、いよいよ米どころか、大豆の粉も澱粉も配給所になくなってしまう。
8月6日の日記では、「小型機の標的になるから、白いものは着るなと当局に言われており、通行人や電車の相客の目も気になるのは本当は着たくない」なんて書いている。
まるで現代のマスク警察みたいではないか。日本人なんて昔も今も変わりないのだ。
おそらく、今を中国なり北朝鮮なりとコトを構えるとしたら、同じように大政翼賛会やら隣組やらができるのではないだろうか。

ところで、10時ごろになると父島Peel islandの島影が見えてきた。
電波も2本ぐらい立っている。
みんな到着ムードだ。

「東京焼尽」はと言えば、百閒が8月6日の広島原爆を知るのは、8月9日の事だったようだ。

いよいよ、父島Peel islandの奥村の街並みが見えてくる。
かなり久しぶりの有人島だ。
そして、二見の桟橋も見えてくる。

この先は、父島Peel islandに上陸してから読むことにしよう。
いよいよ下船の準備だ。

ところで、昨日小笠原高校?と思った修学旅行の一団は私立桜丘中学校というらしい。愛知県豊橋市にあるロシア正教系の学校だという。

果たして下船する。
やはり小笠原諸島Bonin islandsは日差しが強くて暑い。

まずは艮瘋ごんぷうを抱えているので、帰宅することにする。

帰宅すると、何やら東京電力からの大ぶりの封書が届いている。
電気代はきちんと払ってるし、何のことかと思ったら、「電気料金を変更します」と言うもの。
はいはい値上げね…と思ったらさにあらで、何かの補助で電気代が下がるらしい。
そういうことならウェルカムだ。

ところで、拙ブログのCollapsing Archives が動かない。
副業ブログのそれはきちんと動いてるのに。
もしかして、記事数が多すぎるのはいけないのだろうか。
副業ブログは2400ぐらいであるのに対し、拙ブログは3100に達しているのだ。
機能が高いだけに、数が多いことに対応しきれないと言うのはあるかもしれない。

さて、昼食にしよう。
五六助弁当がってたらそこにしよう。
ところが、12時40分後にはもう閉まっていたようだ。

仕方がないので、いつだったかマーボー丼を食べなかった、ドック入り中でもやっていたところに行こう。
ここでマーボー丼を食べることができた。

そして、拙ブログの回顧録を起こすために、いつもの四阿あずまやに行ったら、もう先客がいる。
仕方がないので、特等席に行ったらやっぱり先客。
やはり入港日は侮れない。

仕方がないので、表通りのカフェで回顧録をつけることにする。
ここなら冷房もあるので涼みながらできる。

結局、2016年6月を全て完了した。

店のおばさんたちはいろいろ雑談をしている。
長居しすぎるのもなんだか申し訳ないので、適当なところで店を出ることにした。

そして「特等席」が開いたので、ここでしばらく拙ブログでも読んでいることにしよう。
しかし、やっぱり、Collapsing Archivesがないことには、日記を読み返す楽しさが半減する。
しかし、いつかはこのような時が来るということだったのだろうか。

ところで、今日は入港日であると言う基本的なことを忘れそうになっていた。
つまり、生協や小祝商店に物が届いていると言うことだ。

さっさと買いに行くことにしよう。
と言うことで、今日のキムチ鍋の具材と、キャベツを何玉か買うことにした。
小祝商店では、プチニンニクを買おうと思ったが、2玉しか残っていない。
あてが外れてしまった。

そして帰宅する。

今日は、직맹の東京都の連合体の会議があるんだった。
これは、鍋でも作りながら対応することにしよう。

と言うことで、まずはささみ肉を解凍するところから。
そして豆腐やプチニンニクを切る。

직맹の会議の方だが、一通りの流れの報告があった。
こちらからは、退会する人が相次いでいると言うことを報告した。
この流れに対し、打つ手がないと言うことを嘆いたら、みんながその話題になってしまった。

挙句の果てには、「次回の会議の時は何か提案をしてください」と言うことになってしまった。
一体全体何をすればいいのやら…

ところで、会議中にピンポンが鳴ったので何事かと思ったら配達だった。
スープやゼロサイダー等が届けられた。

その後、回顧録を引き続き書く。
2016年7月中旬まで到達することができた。
そういえば、初めてベトナムに旅行に行った時もこの時だった。

その後、踊るミエさんの生配信を聞く。

ところで、YouTubeのライブニュースでは、ガーシーがドバイから護送されてきたことを報じている。
暴露の対象を芸能人の家族まで広げるのだそうで、もはや犯罪者そのものである。
何もかも考え出しでやってきているようであるが、常に年貢の納め時となったようだ。

こちらは風呂に入ってしまおう。
ブラウザゲームの方であるが、今週はクラスダウン必至かと思ったら、意外に健闘している。

風呂から上がったら日付を跨いでいた。

今日の決死出演は6名(累計36名)。

 

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