社会的地位への渇望

2010年頃の話。
都内のどこだかに「高学歴負け組御用達スナック」があったのだという。

高学歴でも出世できない人が、そこでマスターに「あの頃のXX大なんて東大並みだったじゃないですか!凄いですね!」みたいなことを幇間されて過去の栄光に一時の悦に入る、というようなバーだったのだとか。

そこそこ高学歴でも仕事のできない自分にはぴったりの飲み屋。
現存していたら、もしかしたらぽわんちゃんの店以上に入り浸っていたかもしれない。

社会的地位への渇望。
それはフェチにも密接にかかわっている。

学校でド陰キャだった自分は、おそらく学校に切断障害の女の子がいて告白したところで、OKはしてもらえなかっただろう。

学校の勉強は多少できたとして、今ならおそらく何らかの発達障害の病名が付いたであろう自分の社会的な「障害」は、ちょっと手足が無い程度(言い方は悪いが)の比ではない。
若年期ならそれが「恋愛」という市場で残酷なほどに現れる。

それでも、
「五体満足だから恵まれてるでしょ」
「恵まれてない人(身体の障害・経済的な貧困・片親etc)を見習いなさい」

家でも学校でも、そんなことばかり言われていた。
「発達障害」なんて言葉も無かった当時、五体満足でこれといった家庭的不幸も無い自分はそんな「ハンデを乗り越えて頑張ってる人」に「勝てるところ」が何ひとつ無かったのだ。
このことは、後年になって人格形成に影響するほどのストレスとなった。

今なお、そこそこ有名な切断障害の女性の結婚の報に触れるたびに嘆息してしまう自分がいる。

ならばせめて学歴や仕事で「勝ちたい」じゃないか。
その分かりやすい指標は「社会的地位」だ。
社会的地位にこだわる、「勝ち組」「負け組」にこだわるなんて、傍目から見ればさもしく滑稽なことかも知れない。
社内的には「エリート」と認められる仕事はしていないかもしれない。
それでも自分には、この上なく重要なことだったのだ。

だからこそ自分は「偏差値の高い大学」「有名な大企業」に入ることにこだわった。
さあ、俺はそこら辺の「ハンデに負けず頑張ってる人」なんかより立派な経歴をお持ちだぞ!

かと言って、例えば今、自分好みの切断障害の女性が現れて「結婚したい」と言ってくれたらどうするか?
別に「結婚」とは他人に自慢するためのものじゃない。
現に、きれいな女性と結婚できたことだけを誇る「トロフィー・ワイフ」という言葉だってある。

そもそも結婚とは、一人の女性、ひいてはそれ以上の人間の人生をお預かりするものだと思っている。
自分にそれができるのかということ。
そもそも自分は子供を持ちたいと思っていない。いわゆるDINKS志向。
そのことだけでも女性を幸せにするには不適格だ。

既に弟に子供がいて「イエ」としての跡継ぎの心配もなく、なおかつ「独身であること」に致命的な敗北感を感じることの無くなったこの御時世、別にこだわりたいものは何もなくなっている。

きっと欠損バーの子たちだっていつかは誰かに嫁ぐだろう。
その全てを笑って祝福することになるだろう。

ともかくも、なぜか雨の中を霞ヶ関にいる。

今回は1名だけなので、回顧録によくある横450ピクセルで。
そんな水曜仕事であり私的devotee史

今回の決死出演は1名(累計27名)。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です