早朝現在、台風の中心は福岡県にあるらしい。
アメダスの風向からもそれはよくわかる。
目が覚めたら5時半ごろだった。
相変わらず外は雨が降っている。
そして10メートル位の風が吹いている。
朝食バイキングは、6時半から始まる。
混雑する前にさっさと食べてしまうことにしよう。
朝食会場は、道路1本を隔てた別館にあるのだが、雨は昨日の同じ時間に比べて強い気がする。
昨日に引き続き、奄美の鶏飯を食べる。
しかし、おかわりすることもできず。
まぁ昨日はたらふく食べたし…
そして部屋に戻り、家によって回顧録をつける。
とりあえず、2012年以降毎月1つずつつけていくことにする。
そして現在まで途切れのない状態を維持することにしよう。
結局110記事までつける。
そして、部屋の清掃が来たらどくことにしよう。
結局、部屋の清掃が来たのは11時過ぎだった。
さて、洗濯物を持って出ることにしましょ。
外では相変わらず雨が降っている。
それでも風は無い。
そして、ホテルと同じ通りにあるコインランドリーで洗濯することにする。
そして、洗濯が上がるのを待っている間、副業ブログでもつけている。
ここも洗濯乾燥機があるので、手間が少なくて良い。
相変わらず、雨が止む気配は無い。
そして、洗濯が終わったので、天文館を通って図書館に向けて歩くことにしたい。
図書館に行くのは、ダークツーリズムを1つ入れたいからだ。
その途中、腹ごしらえをすることにしよう。
鹿児島といえばなんといっても黒豚とんかつである。
それで、スマホで調べると、ちょうど図書館までの経路上におあつらえ向きのトンカツ屋がある。
と言うことで、そこに行くことにする。
行ってみると、すでに営業していた。
ということで、とんかつを腹いっぱい食べて満足。
その後、鹿児島県立図書館まで歩いて行くことにする。
鹿児島の建物は、どこもかしこも大仰な門構えである。
そして、鹿児島県立図書館へ。
南日本新聞は、全て電子化されていた。
事件に関係する分を全てコピーしていくことにする。
ついでに、町名が変わる前なので、当時の住宅地図「鹿児島市住宅案内図 昭和31年版」をコピーすることにする。
これに関しては、現在そこであるとされている地域と、当時の該当地域が微妙にずれていたので、コピーしてよかったかもしれない。
朝食に鶏飯、昼食にとんかつといろいろ食べ過ぎたので、腹ごなしに歩こうかとも思ったが、鹿児島市営バスの12番と言うバスがあるようだ。
ただし、1時間に1本だけなので、ローソンのイートインでしばらく待ってから行くことにしよう。
さて、その事件はどのような事件であったか。
それは「大判例」にも書いてある。
事件は、昭和32年にさかのぼる。
昭和32年12月19日の南日本新聞の隅っこに、「接客婦を締め殺す」と言う記事がある。
それほど大きい扱いではなく、社会面でそれ以上に大きいのは中卒の就職事情が悪いこと、そして寒波が襲ってきたことの方が大きく書いてあった。
ともあれ、この事件は、前日12月18日に日付が変わった頃、鹿児島市塩屋町という遊郭地帯で発生した。
ここは「沖の村遊郭」と言った方が通りが良いほどの地帯だったようだ。
この遊郭地帯の中の特殊飲食店で、そこの接客婦が首を締められた上で太ももなど4カ所刃物でえぐり取られて死んでいたのである。
ただ、犯人に関しては既に目星がついていた。
それまで、被害にあった接客婦と一緒に過ごしていた男がいたのである。
また、酒の一升瓶からは指紋が検出されたのだと言う。
男は25〜6歳で、長は5尺4寸位であったと言う。
同じ19日の夕刊では、その事件が起きたときの状況が説明されている。
また、死体は鹿児島大学医学部に運ばれて解剖された。
その結果、犯行は18日朝の5時ごろであり、死体には焼け火箸で十字に傷つけられていたと言うのである。
犯人は異常性格者だと言うことが推測された。
また、その店の同僚の僚言では、その男は全くはじめての客であったと言う。
また、その18日の朝5時ごろに、遊郭の近くのタクシー会社のタクシーが、ボストンバックと一升瓶を持った男を鹿児島駅まで乗せたと言うのである。
当時、鹿児島を代表する鉄道駅は、西鹿児島駅つまり現在の鹿児島中央駅ではなく、鹿児島駅だったのだ。
そして、そこから高飛びしたと言うことが推測された。
さて、男はどこに高飛びしたのか。
それは意外にあっさり解決した。
昭和32年12月20日の南日本新聞では、男が大阪で自首したことを報じている。
それは、12月19日の21時10分ごろのこと、大阪城の目の前にある大阪府警本部の宿直室に「昨日鹿児島の特殊飲食店で女を殺した」と自首してきた若い男がいたと言うのである。
酒に酔ってすっかり正体不明になっていたその男は、東京に本籍があり住所不定の無職の24歳の男だと自称した。
このことを鹿児島県警に連絡すると、確かに殺人事件は発生しており、着衣や人相などが似ているのでその男である事は確かなようだった。
ただし、このような場合新聞記事を見てデタラメを言ってる場合も多かったようで、さらに慎重に調べることとをしていた。
12月20日の夕刊では、見出しが「沖之村接客婦殺し」となっている。
やはり「沖之村」の方が通りが良かったのだ。
この事件の犯人の男の身柄は、21日の朝5時46分に鹿児島駅に到着する急行「さつま」で到着する旨を報じている。
なるほど、このように犯人が到着する予定まで報じていれば、野次馬だって押しかけることだろう。
また、この日の社会面でそれ以上に大きく報じられているのは、原爆症で亡くなった女の子に千羽鶴の願いを叶えることであった。
今や、毎年広島市や長崎市でも処理に困っていると報じられており、ややもすれば「偽善の象徴」にすら見られて槍玉に挙げられる千羽鶴も、このようなところにルーツがあると言うことである。
果たして、その男は21日の朝に鹿児島駅に到着したことを、12月21日の南日本新聞夕刊は報じている。
早朝ではあったが、新聞で報じるものだから案の定野次馬が押しかける中での到着であった。
その男は、大葉の襟を立てて新太郎終わりにしており、記事の表現をそのまま借りれば「シスターボーイそのままの優男」だったのだと言う。
シスターボーイとは?
それは、この年「お茶と同情」(原題:Tea and Sympathy)と言うアメリカ映画が公開されたのであるが、そこに登場するジョン・カー扮する優男のことをいい、のことをいい日本でも流行語となったようである。
そんな優男が記者に吐いた言葉は「殺せと言うから殺したまでさ」。
こうなるとまるで日活映画出てくるようなチンピラである。
とはいえ、この男の素性は自分で自称している以外のことは誰も分からないのであった。
さて、この現場はどこにあるだろうか。
沖之村遊廓は、現在でもソープ街になっているという。
しかし、思うところあって図書館で当時の住宅地図を調べてみる。
昭和31年版の「鹿児島市住宅案内図」で調べてみると、裁判記録にある住所の場所は、もっと南側にあった。
現在ソープ街となっているところが、むしろ当時は普通の住宅しかなかったようだ。
件の事件の住所は、天保山橋の近くの、甲突川と清滝川が最もくびれたようなあたりで、「○○楼」とい屋号が連なっている一帯があり、まさにそこには記事に出てきたタクシー会社もあった。
さて、ここまで調べたらダークツーリズムへ行きましょう。
ただし、バスはちょうど行ったばかりである。
仕方がないのでローソンのイートインで緑茶でも飲みながら雨の中を過ごしている。
そして時間になったので行くことにしよう。
最も近いバス停は市役所前。
鹿児島市役所は石造りの風格ある建物だ。
…と思ってたら12番のバスが来た。
向こうのバスに乗る旨の意思表示をしつつ駆け込み乗車。
無事に間に合うことができた。
そして「清滝通」と言うバス停で降りる。
それが15時11分。
大きな通りを挟んだ向こうに現場があるはずだ。
向こう岸に行きがてら、帰りのバス停の時刻を調べると、15時17分と言うのがある。
どうやら鹿児島市営バスだけではなく、鹿児島交通のバスも走っているようだ。
しかしこれに間に合うだろうか。
そう思ってたら、両足が軽く攣るような痛みがあった。一体何?
それはともかく、行ってみることにしよう。
結果、記事に出てきたタクシー会社は現在でもあったのだ。
さて、15時17分のバスはもう行ってしまった。
ならばこの雨の中をどうやって時間を潰すか。
少し歩いたところにガストがあるので、そこで時間潰ししていることにしよう。
そして、15時57分が近づいたのでバス停行くことにする。
ほぼ正確な時間でバスがやってきた。
そして、いづろで降りる。
高見馬場通りにあるスターバックスでブラウザゲーをするなど。
もうすでに雨すら上がっていた。
さて、夕食はどうしようか。
ラーメンにでもしようか。
しかし、今足腰が痛い状況で、体重を増やすのはどうかと言うような気もする。
と言うことで、帰宅というかホテルに戻って非常食でも食べようか。
そう思ってたら、「トマトパスタのようなラーメン」と言うラーメン屋がある。
若い人がやっているような、新しいコンセプトのラーメンのようである。
そして、ヴィーガン的なラーメンもあったので、それを食べてみることにする。
果たして、それは鶏肉が入っていたのでヴィーガンではなかったが、なかなか健康に気をつかってそうなラーメンではあった。
そしてホテルに戻る。
さっさと風呂に入ろう。
テレビのBBCワールドでは、エリザベス女王の国葬をやっていた。
21時からは、踊るミエさんの生配信。
踊るミエさんは、「ベルサイユのばら」にはまっているらしい。
こちらは、回顧録について2012年3月から現在まで、毎月途切れないように書いていく。
結局、2014年10月を最後に、全部つなげることができた。
まるで青函トンネルの先進導坑がつながった時のような喜びだ。
やはり、2010年の弊喜び組創設当時からの記事をつなげることで、これまでの積み重ねが分かろうと言うものである。
結局121記事まで書く。
ところで、明日は朝にうねりで三島村へのフェリーが出なかったらどうしようか。
その場合は、23時に出るトカラ列島経由名瀬行きのフェリーに乗ることにしよう。
そして、なぜでは宇検村にでも行くことにしよう。
まあまあのプランBが出てよかった。
さて、明日はどうなることやら。
とにかく今日は充電をしっかりして寝ることにしよう。
何だか酒を飲む気にもなれず。
今日の決死出演は3名(累計35名)。