西武ライオンズの応援歌「吠えろライオンズ」が広瀬香美によってカバーされるという。
「吠えろライオンズ」といえば、西友に行けばよくかかってるというイメージがあるが、それにしても広瀬香美!?
だって広瀬香美って福岡出身で・・・ というか、福岡出身だからこそである。
彼女は西鉄ライオンズの末期を知っているのだ。
その頃からライオンズを見捨てずに応援していたのだ。
そう思ったらかなりエモい人選である。
とは言っても「〽️サイタマ西武〜ライオンズ〜」はどうなんだ・・・
さて、先週は島根まで長躯したので、今週は近場で済ませることにしたい。
昭和34年7月22日の読売新聞夕刊では、埼玉県岩槻市で一家7人が焼死する放火事件が発生したことを報じている。
焼死したのは戸主(63)とその兄(75)、長男の妻(28)、長男の子供たち(4つ・2つ・2ヶ月)そして姪(10)の7名であった。
その中で長男(24)だけがいない。
容疑は、この長男にかかるのは当然のことだった。
そしてこの放火が突発的に行われたわけではないということを記事は物語っている。
前日の7月21日午前1時頃、近所に住む親類の家に投石があり、玄関には「俺の家を焼き払ってやる」と、署名入りの犯行予告があったというのである。
また、3時頃にはこれまた近所の妻の実家にも投石があったのだという。
それほどの怨念をどうやって蓄積していったのか。
「大判例」の浦和地方裁判所 昭和34年(わ)407号 判決にその答えは出ていた。
この長男、20歳になった年に親類の勧めで4つ年上の妻と結婚することになった。
しかしこの妻というのが「挨拶もできない」「一家の主婦として用を足すことができない」ほど知能が低かったというのである。
そもそも長男自身が血族結婚の末に生まれ遺伝的に知能が低かったようで、親類にしても「知能が低い同士お似合いだろw」という腹があってのことだったのではないだろうか。
こんな低能の嫁を押し付けて、馬鹿にしやがって・・・!
それが、犯行前日の親類宅や妻の実家への投石や犯行予告につながることになる。
翌23日の読売新聞朝刊では、この長男が逮捕されたことを報じている。
あっけない程のスピード逮捕だった。
22日の未明の犯行以後の足取りはどうなっていたか。
それは、自転車で岩槻市の中心部とは逆の越谷方面に向かっていた。
そして20時頃から越谷市内の国道沿いの飲み屋で飲んでいたというのである。
夜21時過ぎ、その飲み屋からフラッと出てきて、小型乗用車に飛び出した、いや飛び込んだのである。
近所の病院に担ぎ込まれたが、結局命に別状あるほどの怪我ではなかった。
越谷署員が急行して調べてみると、「俺は火付けだ」という走り書きが出てくるではないか。
ここで逮捕状が執行され、お縄と相成った。
動機については先述の通りで、「女房を押し付けられた」ということに尽きる。
家族全員が死んだことは、そこで初めて知ったという。
今でこそ岩槻はさいたま市岩槻区として政令指定都市の一行政区となっているが、この時は昭和29年に市制してまだ5年目であった。
そしてこの事件が発生したのは「昭和の大合併」で岩槻町が成立する前は南埼玉郡和土村であった。
かれこれ114514回言い続けているが、「三丁目の夕日」に出てくるような昭和ノスタルジーの世界はまた、貧困に喘いでいた「発展途上国としての日本」の時代である。
新聞を見れば「一家心中」は当たり前のように発生していた。
そんな福祉も貧弱だった時代である。
ここで輪行も兼ねてダーク入れてみましょうか。
ということでこの松戸の南側から岩槻へ行こうとなった場合、東武野田線で行くことになるのだが、ではどうやって行くか。
新鎌ヶ谷から乗りかえる?
それよりも自転車で六実の駅に行った方が良いような気がする。
(決死モデル:トルソーさんのナイ)
久しぶりに自転車に乗ったら空気が抜けてるような気がする。
そこで、途中の自転車店で空気を入れることにしたいが、このロードバイク、フレンチバルブなのである。
どうやって空気入れればいいんだ・・・?
それでもどうにかこうにか空気を入れて、六実駅へ行く。
鮮魚街道はロードサイド地帯となっている。
六実からは柏行きに乗る。
今では柏を串刺しにする系統はない。
柏からは11:01の運河行きをやり過ごして11:08の大宮行きの急行。
今では野田線にも急行が走るようになったのだ。
春日部を出ると、急行では次の駅が岩槻となる。
岩槻は1~3番線のホームの他にも側線があり、保線車両が停まっており、今なお「列車駅」の佇まいである。
(決死モデル:チームWB小津麗)
岩槻は事件当時から既に「人形の町」として知られていた。
また、城下町でもあり観光案内所が当然のようにある。
駅のコンコースには「コロナと闘う医療関係者に感謝」という幟が立っている。
駅前に出ると、早速人形店が立ち並んでいる。
今なお「人形の町」であるようだ。
ところで、市内の店舗にはやたら「小島」姓が多い。
そういえばAKBの小嶋陽菜も埼玉出身。
岩槻は人形の町であるだけに「人形博物館」がある。
(決死モデル:チームTフジアキ)
博物館の前には「合併記念碑」がある。ここは岩槻町役場のあった所でもあったようである。
揮毫は第2次岸内閣(昭和33~34年)で自治庁長官を務めた青木正。
岩槻町そのものの合併は昭和29年であるが、青木は地元の旧制不動岡中学(現:不動岡高)出身であり、埼玉4区選出の自民党議員でもあった。
入るとまずは検温。それと、クラスタ発生時に連絡できるように連絡先まで書かされた。
雛人形の工程が模型で解説されている。
また、日本人形全般に関する展示も。
ところで、博物館の案内員(40年配)の制服のスカートが短く、座ると太腿がかなり露わになるのが印象的だった。
まあ動きやすいのと、ほぼ女性しか来ない場なので気楽なのだろう。
さて、博物館を出て現場へ向かいましょう。
いかにも事件当時はこの道を通って岩槻市役所まできたのであろう佇いの道である。
かつては純農村であっただろうが、現在はすっかり宅地化が進んでいる。
それに応じて道路も増えており、ロードサイド店舗も増えている。
現場も完全に住宅となっており、カメラで向けることは憚られた。
しかし現在でも近くの神社は当時の佇まいを感じた。
(決死モデル:チームYジャスミン)
夏の日の深夜、火を放って悪しき運命と決別した時も、この神社の鳥居を見ていたであろうか。
無期懲役となって死刑は免れても、きっとここに帰ってくることは無かったであろう。
どんな思いでこの県道を越谷方面に向かったであろうか。
だんだん川と並走してくる。
これが「元荒川」であり、さほど川幅は広くない。
越谷附近の日光街道は何回か付け替えられているようで、元々は県道325号線が元々の日光街道だったようである。この大沢橋に続く道は今なお越谷の昔からのメインストリートとして栄えている。
一方、火を放った長男が酒を飲んでいたのは、昭和34年の時点で「新国道」と呼ばれていた県道49号線(足立越谷線)の方であり、当時はこちらが国道4号線であったようである。
(決死モデル:トルソーさんの丸尾)
こちらはかつての越谷宿の面影はない。単なる郊外の住宅地となっている。
それでも、車の往来が華やかだった当時は、飲み屋も多かっただろうか。
さて、後は南越谷にでも行きましょうかね・・・
結局、23.3kmを2時間05分で走破し表定時速は11.2km/hとなり、速度としても遅くなってしまった。