第10回ウォーキング ~梅は咲いたか~

現在、梅の季節で偕楽園駅が臨時営業中。

と言うことで、これを機に今まで行けていなかった偕楽園駅に行って見ることとしたい。
それとともに、偕楽園に面した千波湖で発生した陰惨な殺人事件についてダークツーリズムすることとしたい。

その発端は水戸を1000km西に離れた本州の最西端・山口県は下関から始まる。

当時小倉市で印刷していた昭和30年6月3日の朝日新聞西部本社版の社会面では、あまりに子供を巻き添えにした一家心中が多いことから、福岡高検ではもっと厳格に求刑していく方針を立てたという。
この時期、貧困などを原因とした一家心中は執行猶予が付くなど、裁判所が温情主義を取っていたということに対する対抗策であった。
曰く「子供の人権を守れ」。

このような御時世の下、小倉のすぐ向こう側の下関で心中事件が発生したのである。

場所は、山陽本線と山陰本線の合流点であり国鉄の工場もある鉄道の街・幡生に近い市営住宅であった。
その家の表戸が朝から開かないので不思議に思った近所の人が入ってみると、73歳主人と67歳妻が死んでいた。
そして机の上には「会社の金を使い込んで申し訳ない。2日後には私も逝く」旨の遺書が残されており、これは27歳の養子(以下「犯人」)によるものであると推測された。

この犯人の男、関門トンネルを通って門司の会社に勤めていたのだが、妻は臨月であったという。
そして会社には「親が死んだので休む」旨伝えていたのだという。

新聞こそ「さん」付けにはなっているが、この時点で容疑は非常に濃厚となっていた。

そして、同日の地元紙「夕刊みなと」では、もっと踏み込んだ表現がなされており、情婦と逃走したのではないかと書かれている。
また、下関署から逮捕状が出ており、この時点で「さん」は付いていない。

上述朝日新聞からは読み取れなかったが、どうやら端緒としては、「両親が死んだ」旨の報告を受けた上司が香具を持って犯人宅へ来たところ開いていないので近所の人に聞いてみて、その結果見つけたという経緯のようであった。

下関署による検死の結果、青酸反応が出てきて、事件性ありと見なされることとなったのである。

ところで、現在の山口県域の地元新聞は山口新聞であるが、元々は昭和21年創刊の水産専門紙「みなと新聞」であり、夕刊はその下関市内版が昭和27年に独立したものである。朝刊は相変わらず水産専門紙であった。
下関はまた「鯨一頭獲れれば球団は経営できる」と放言したという中部謙吉オーナーの大洋ホエールズの本拠地でもあった。
水産専門紙あり、プロ野球球団ありの非常に景気の良い港町が下関であった。

翌6月4日の「夕刊みなと」には、1面で「毒殺は確定」であり、心中を偽装したものであると報じている。

それ以上に、ショッキングな写真が掲載されている。
その青酸カリでの死亡の直前の飲み会だというのだ。
現場で押収したカメラから発見されたという。

あえてこのような現場を写真に収めようとする心理はなんだろう?
よほど恨みが溜まっていたということになるだろうか。
報道でも、殺された義母は犯人と妻との結婚に反対して確執になっていたのだという。

また、会社での評判は「真面目な集金人」として通っていたのだという。
酒類販売会社の集金人、つまりサザエさんに出てくる三河屋さんのようなイメージだったのだろうか。

会社の上司には「親が死んだ」と言いつつ、近所の人には「親を連れて岡山へ行く」などと言っていたようであるが、これ以降犯人は杳として行方が知れなくなる。

年が明けて翌昭和31年2月8日、その岡山県は山陽新聞で、倉敷市内の山林で焼死体が発見された旨を報じている。

これは、前日7日の深夜、住宅地の裏山で火柱が上がったと思って警察に通報したら、そこから若い男の焼死体が見つかったというものである。

死体近くに空瓶と石油缶があったことから、服毒の上自殺したものであるとの結論がなされ、死体の身元を引き続き調べるという記事となっている。
この記事は、それ以上報じられることはなかった。

そしてまた、記事冒頭で紹介した通り、相変わらず一家心中は盛んであり、この面だけでも、滋賀県草津市で一家6人が、そして当時の日本の最南端であった奄美大島は名瀬でも一家5人が心中しているという世を挙げての心中ブームであった。

そして上述の偽装心中事件や焼身自殺事件が解決しないまま、さらに2年が経過し昭和33年となってしまった。
その1月14日の茨城県の県域紙「いはらき」では、偕楽園に近い仙波湖畔で出光ダフニーオイルの缶に人間の鼻・親指・陰茎チンポが入って捨てられていたというのである。また、付近からは腸と手拭いも発見されたという陰惨極まりない状態となった。
「チン切り事件」として有名となった阿部定事件から20年。とはいえ、それなりに同時代的な記憶をしていた人は少なくなかっただろう。今年2019年でいえば、1999年の事件を思い出すような感覚であっただろう。

いずれ「陰茎チンポが切られていた」というインパクトから、当初は「痴情のもつれ」での事件であると目していた。

ちなみに、ダフニー・オイルとは、出光興産の潤滑油の一つのブランドであるという。
そのあたりは出光興産のホームページに詳しい。

翌1月15日の「いはらき」では、成人の日に関する報道をしている。また、4コマ漫画も成人の日をネタにしている。

前日に大きく報じられた千波湖のバラバラ事件は、体の一部のみならず、鼻や陰茎チンポの無い全裸死体が、オイル缶のあった場所の向こう岸である、桜川に面した北岸で発見されたことを報じている。
また、矢羽模様の手拭いも発見され、身元に関する手掛かりとして期待された。

また、件のダフニー・オイルは高級自動車向けであるということで、高級自動車を扱う方面を捜査する方針が決定したようである。

ただし、この時点では死体の身元は分からない。
また、この死体発見場所で殺したわけではなく、どこかで凶行を演じここに持ってきたのではないか、死体損壊してあるのは身元を隠すためではないかという、捜査本部の見解が発表された。

その2日後、1月17日の「いはらき」4面では、事件発生からそれまでの捜査について写真でまとめている。

事件の端緒となった死体発見現場であるが、オイル缶ではなく、死体が発見された場所の写真となっている。
そして水戸警察署の写真は昭和49年まで使用された旧庁舎であり、そこでは鑑識が6万枚からの指紋照合を行なっていた。
そして機動隊は千波湖に鉄舟を出して捜査していた。このような鉄舟は普段どのようにして保管していたのだろう。茨城県でこのような船が必要な水面といえば千波湖以上に霞ヶ浦であるが、霞ヶ浦にもやはり同様の鉄舟が保管されて出動の時を待っているのだろうか。

また、雨がちであったようで捜査員も記者もレインコートであったようである。

その日の5面の社会面で、死体の身元が判明したことを報じている。

東京は墨田区に住む29歳の男で日雇いの仕事をしているようであった。
矢羽根模様の手拭いから、常宿にしていた旅館が割れたのである。
また、自転車窃盗の前科があり、指紋が割れていたことも身元判別の手掛かりとなった。

ただし、この墨田区の男には水戸に知り合いがいるわけではない。
何者かに水戸に連れ出され殺されたのは明白であった。

一応母親は墨田区内にいて、10日午後に「岐阜へ行くから移動証明書を持っていく」と言って出て行ったのが最後であるという。
この「移動証明書」というのがよく分からないが、住所移動の履歴を示す「戸籍附票」の事を言ってるのだろうか?

そしてまた被害者が根拠にしていた山谷【さんや】について、昭和33年の茨城県民にもわかるよう丁寧に解説を加えているのだが、曰く、

ここに止宿している者たちは千人以上いるといわれ、そのほとんどは日雇い人夫、夜の女、ポン引、愚連隊などこのほか都内数カ所にドヤ街があるが、山谷が最も大きく前科者、変態性欲者、ヒロポン中毒者などが多い日本のスラム街。夜になると百二、三十人の男しょうが姿を見せている。

ここでいう「変態性欲者」とは同性愛者のことであろう。
この当時、同性愛者は「精神病」であり、「治療して強制すべきもの」であったのだ。
これがWMOのリストから削除されるのは、この記事から32年後の1990年のこととなる。

では、どのような経緯で被害者は水戸まで連れてこられたのか。
その経緯が1月18日の「いはらき」で報じられている。

被害者を最後に見たのは東武亀戸線の小村井駅から少し歩いた所に住む母親であるということは前日までにわかっていたが、経緯としてはこういうことらしい。
1月9日、西田と名乗る男が、息子(被害者)を岐阜に連れていきたいと言い、息子もその気になっていた。

翌10日、その西田という男は息子を岐阜に連れて行こうとしたが、不審なものを感じたようである。

母:どこでうちの息子と会ったんですか。
西:山谷です。
母:お名刺頂けますか。
西:それはちょっと・・・
母:うちの子は頭が良い方ではないから、セールスマンより工場勤めの方がいいと思うんですが・・・
西:それは・・・。まあとにかく、うちの皮革工場をやってるのは市のボスなんです。そして傷痍軍人を多く雇っているんですよ。
母:では、岐阜に着いたら電話をかけるので、連絡先を教えて下さい。
西:電話を頂いても連絡が付かなくて2時間ぐらいかかりますよ?

当時、電話は交換手が繋ぐのが当たり前で、東京大阪間で完全即時通話になるのがこの2年後の昭和35年と、そういう時代である。

1月21日になると、犯行当夜の目撃情報について集まってきていた。

それは、死体が発見された千波湖北岸のボート屋で、深夜に「白ナンバー」の車が走るのを見たというのである。
普段であれば、夜にそこを自動車が走るのは1週間か10日に1回ぐらいのものであることから強く印象に残っていたようだった。
千波湖の東側から入ってきており、南側からきたのではないのは確かだったようである。

それが事件に関係しているのではないかと捜査本部は色めき立った。
何しろ、事件の端緒自体が出光のモーターオイルの缶だったのである。

また、被害者の解剖の結果も出ており、胃の内容物から水戸の駅弁を食べたのではないかという推測がなされることとなった。

ちなみにナンバープレートの話になると、現在の様式は昭和37年に大枠が決まったもので、それ以前の旧様式は、4桁の番号でもハイフンがない、東京都のナンバーに地名がないなどの特徴が見られる。
また、現在バスやタクシーなどの営業用は緑ナンバーだが、旧様式の頃は黄色だった。
そして、個人で自動車を購入することが難しかった時代、現在でいうレンタカーやカーシェアのような「ドライブクラブ」というのがあったようで、黒ナンバーであったというが、その写真を見たことはない。

ところで、現在その旧様式のナンバーを一番身近で見ることができるのは、福音館書店の絵本「しょうぼうじどうしゃ じぷた」ではないだろうか。

初版は昭和38年であり、既に現在の様式の、4桁の真ん中にハイフンがある形式に切り替わっていたとはいえ、実勢ではまだ旧様式の方が多かったはずである。
また、作品完成まで2~3年かけたということでもあるので、その頃であれば完全に旧様式のナンバーではあっただろう。

この「じぷた」、現在まで刊行されているロングセラーとなり、2015年には千葉県でリアルで「じぷた」を再現する試みが行われたという。

・・・と、話が横道にそれてしまった。

問題の、自称「西田」であるが、その正体はまるでつかめなかった。

そもそも、犯人の母親に顔まで見られている。そして手土産までもっていっているのだ。
ただ殺すのにこれだけの手間をかけるだろうか?
そして、茨城新聞が「スラム」と酷評するところのスラムを根拠とするこの被害者がそうそう金を持っているわけでもないのは明白なので、強盗の線も無いときている。

また、女を取った取らない・・・の線でも、自害者自身そのようなガラではないという。
それを、身元が分からないように念入りに死体損壊までして殺した理由とは・・・?

一方で、死体の損壊に使った濃硫酸の空き瓶を死体から100メートル東側で見つけることができたという。
モーターオイルの缶、深夜の自動車に続き、自動車のバッテリーや溶接に使う濃硫酸のお出ましで、やはり自動車整備関係の線が濃厚に疑われるのだった。
しかし自称「西田」は皮革関係であるという。
硫酸は革なめしにもつかうので、やはりそちら方面か・・・

1月27日、改めて言うまでもないが茨城県の県域紙である「いはらき」の社会面のトップを飾っているのは、遠く四国は紀阿航路の「南海丸」の沈没事故である。拙ブログでもこの件は触れている。

また、玄界灘の漁場と言えばまだ「李承晩ライン」の時代、山口や福岡の漁民にとって、仕事は韓国警備艇の拿捕と常に隣り合わせの時代だった。
それが拿捕から帰ってきたと言って、元の仕事に就くわけにも行かず、路頭に迷っているというニュースが報じられていた。
そしてこのことがまた、ここまでさんざん触れられてきた「一家心中」の道を選んでしまうことになってしまったところもあったろうか。

そんな県外のニュースはともかく、足元の千波湖のバラバラ殺人と言えば、捜査は膠着状態であったようであり、記者の座談会でお茶を濁しているという状態であった。

1月29日の「いはらき」では、加害者と被害者の最後の足取りが分かった旨を報じている。
それは、10日夜に浅草の国際劇場の裏の旅館に泊まったのだという。

亀戸線小村井のあたりからだと、東武の曳舟まで歩いて浅草に泊っただろうか。
被害者にしてみれば「岐阜へ行く」と聞かされていたわけで、してみれば東京駅から行くことを想定していたであろうか。
当時の山谷を根城にしていた労務者にとって「岐阜」「茨城」という地理観が普通にあったのだろうかというのが気になる所である。

東海道本線なり国道1号線なりを通って岐阜へ行くはずが、常磐線か国道6号線を通って北へ向かっている。
被害者はそのことに対し何かの違和感を訴えただろうか。

そのことと関係があるかどうかは分からないが、石岡駅前にライトバンが乗り捨ててある旨の報告が入り、指紋を捜査している旨の報道もある。

新聞記者の座談会を見ると「背後に麻薬密輸団?」という壮大なプロットが想像されている。
被害者を密輸団の運び屋に仕立て上げようとしていたのではないか、というのがその筋書きであったようである。

しかし、そういう予想も何ら捜査に役立つことはなく、事件発生から半年がむなしく過ぎて行ったように見えた・・・

昭和33年7月9日、警察庁は戦後の13年間に発生した21件の未解決事件につき、特別捜査を行うことにしたという。
その中には、下関で養父母を毒殺した本件の犯人も含まれていた。

ちなみに、昭和32年の倉敷の焼身自殺偽装事件や、この年の初めの千波湖のバラバラ事件との関係はここでは触れられていない。

これ以外で、無限回廊オワリナキアクムやWikipediaで取り上げられるレベルの有名な、意外にもここには無い。
有名な事件は、割とすぐ逮捕されている、ということであろうか・・・

ところで、同じ社会面では人工雨について触れている。
関東3か所の上空で実験したところ、一応成功した箇所もあったのだという。
ただ、それが実用化に至っているという話はとんと聞かない。
それは。水力発電の全発電量に対する比率が少なくなっているからだと言われている。

ただし、現在全く行われていないわけではないようで、文部科学省や気象庁気象研究所で研究自体は続けられているのだという。

その「特別手配」は無駄ではなかったようで、早速功を奏することとなった。
その第1号が、まさに本件の犯人だったのである。

そのいきさつは以下の通りであった。
昭和32年の暮れ、都内東調布署で窃盗で捕まった男の指紋が、特別手配のうちの1つであった山口県下関の養父母殺しの現場にあった指紋と一致していたのである。

犯人はその養父母殺人事件の後、どうしていたか。
それは、犯行後まもなく東京へ出てきて、寺島の「鳩の街」で知り合った目黒区に住む運転手の男(函館出身)から移動証明書を4万円で買い、自分自身も運転免許証を取り、その男に成りすましていたのだという。

では、その函館出身目黒在住の男自身はどこへ行ったのか・・・?

その答えが出るより先に、千波湖畔のバラバラ事件の関係の方が先に突き止められることになった。
それは昭和33年7月20日の読売新聞夕刊である。

そのいきさつとしては、千波湖の事件発生(1月12日)あたりの1月7~12日に「北海道に帰省する」と言って会社を休んでいたこと、持っていた革靴とオーバーを千波湖の被害者の母親に見せた所「息子のものに相違ない」と言ったことを挙げている。

ところで世間は夏休みの第1週目。しかし雨にたたられてしまったようである。
そうかと思えば、都内の各小学校の児童を乗せた日光・黒磯への高原列車が14両編成で発車したというニュースも伝えられていた。
当時であればEF57あたりが牽引したであろうか。

そして最後に、函館出身の男がどこへ行ったのかが報じられたのは、昭和33年7月25日の読売新聞夕刊である。

昭和32年に倉敷で焼身自殺に見せかけて殺された男こそ、その函館出身の男だったのだ。
函館工業高校ではラガーマンだったというその男は、その時に足を怪我して手術をし、その跡が一致したという事で特定に至ったものである。
手口として「青酸」「ガソリン」と共通点が多いこともあった。

つまり、昭和30年に養父母を殺して東京に出てきてから、その函館出身の男と知り合い、昭和32年2月に倉敷で焼き殺してから戸籍を変えてその男に成りすましたものの、その年の暮れに窃盗事件で東調布署にお縄になり、自分の素性がバレるのを恐れて、今度は山谷に住む墨田区出身の男を「岐阜の皮革会社で働こう。それに当たって移動証明書(戸籍)も持って来て」と水戸の千波湖まで連れ出して殺して、こんどはこの墨田区出身の男に成りすます予定だったらしい。

それにしても、その墨田区出身の男の戸籍まで取り寄せたのであればさっさとその墨田区の男になってしまえばよかったのではないだろうか。
自称「西田」は杳として分からなかったのである。

ともあれ、公判が始まったものの弁護人は「死刑もやむを得ない」と仕事を放棄したのだという。
結局、最高裁で死刑が確定するのは昭和36年3月30日のこと。

オワリナキアクム」によれば、死刑が執行されたのは昭和40年のことであるという。

さて・・・
今回のダークツーリズムの出発は松戸からである。

車内や駅の広告にやたら力を入れている新京成に乗っていると、車内広告に「体育会系IT」なんて広告がある。
決死モデル:トルソーさんファラキャ

ちょっと待って・・・ それでなくてもブラックになりやすいIT企業で「体育会系」を表に打ち出しているときたもんだ。
顧客にしてみれば便利に使える企業と言っていいかどうか知らないが、働く側からするとこういうのはどうなんだろう?

社長が自分1人でやっているような零細な企業であればまだしも、社員全体にそれを徹底させるのは並大抵のことではないだろう。

・・・まあいいか。よそ様の会社をあれこれ批評するのは。

松戸駅に特急は止まらないので、柏まで行くことになる。
とりあえず切符は昨日のうちに新宿駅で買ったのだが、臨時駅である偕楽園までという指定席は買えないようで、扱いとしては「水戸まで」ということになってしまった。

「えきねっと」のアプリでは偕楽園を選べなかったので、新宿駅の窓口で買ったのだが、そういう事であれば最初から「えきねっと」で買えばよかったかもしれない。

兎も角も「ときわ53号」が来たので乗ることにする。
そして一路偕楽園へ。

そして偕楽園駅に到着。
決死モデル:チームY城ヶ崎

子供のころから時刻表に親しんでいた自分にとって「偕楽園駅」とは謎の多い駅であった。
なんで普通列車すら通過するんだろう? 何のためにこの駅はあるんだろう?

その偕楽園駅に初めて足を踏み入れるその愉悦・・・!

ホーム上では、和服姿のミス偕楽園?みたいな女性2名や、水戸駅から派遣されてきたであろう駅員や、観光案内所の人がお出迎えをする。

特急券だけではなく、運賃計算上も「偕楽園駅」というのは水戸駅という扱いのようで、偕楽園駅で出場すると、特別の乗車票をもらえば、運賃を払わなくてもその乗車票だけで偕楽園~水戸までは行けるということになっているらしい。

さて、今朝新京成に乗っていて初めて知ったのだが、「ときわ53号」の過ぎあとぐらいに、大宮から偕楽園の梅まつりのために臨時の快速が走って来るらしい。
そしてそれは、E653系に国鉄特急色を施した車両を充当するらしい。

ということは、帰りの列車もとうぜんあるはず。
調べてみると案の定、勝田14:58発→大宮17:28着というのがあった。
つまりあれか。大宮発の「しもうさ号」と同じルートをたどるだけではなく、新松戸の渡り線まで走るのか。

これは結構エモいぞ。
ということで松戸駅に行った時、ダメ元で指定券をたのんでみたら、奇跡的にゲットすることができたのである。

とりあえず、すぐ後に「行き」の列車が偕楽園に来るので、それを撮影することとしたい。
・・・と言って撮影したのがこの写真である。

さて、この偕楽園駅から千波湖へは、陸橋を通っていくことになるが、その陸橋が撮り鉄のメッカになっていた。
黙っていても特急は結構な頻度で来る。そして両脇には白梅や紅梅が色とりどりのコントラストをなしている。

その陸橋を渡り終えると千波湖であり、あの事件の夜、怪しい白ナンバーの車を見たであろうボート屋・・・は千波湖の東側にあったのか。このボート屋は西側となる。

そして少し行くと、水戸光圀公の巨大な銅像が立っている。
これこそが水戸黄門様である。
決死モデル:チームY楼山

そしてもう少し南に歩いていくと、D51の515号機が保存している。
機関車データベースによれば、昭和16年に大宮工場で新製されたこの515号機は、最初平機関区に配属になったのだという。
そして昭和19年に水戸機関区に転属となった。
そして昭和33年に大宮機関区に転属となる。
そして昭和43年に八王子機関区に転属となる。
そして昭和45年に新鶴見機関区で廃車。
現在の水戸市千波公園に保存しているのは、その翌年の昭和46年からなのだという。

機関車として活躍したのが29年間、そしてこの千波湖の地で置物となって50年近く。もはや置物としての余生の方が長くなっている状態のようである。まあなんだって保存してればそうなるか・・・

そしてダークツーリズムの本題となる、死体遺棄現場である。
まずは、12日にオイル缶の中から遺体の一部が見つかった場所へ行くこととしたい。
しかし、Googleマップのストリートビューで見る限りでは、すっかり観光地化されてしまい当時の面影はない。
決死モデルチームPウメコ

現場から少し離れているが、当時のすすきの原の面影を残す部分で1枚撮影することにする。
一応、ここからでも現場を望むこと自体はできる。

しかし、犯人はここまで車で来て、どんな思いで遺体から鼻や親指や性器をそいでオイル缶に入れて捨てただろうか。
ただ、殺人を1回犯してしまうとあとは平気になるともいうし・・・

そして湖を一周して、今度は体の一部を削り取られた死体が発見された北側を歩いてみることにする。

現在はジョギングコースであり、また釣りのメッカとして平和な感じである。
桜の季節になれば、ここには満開の桜が咲くであろうか。

ところで、事件当夜怪しい車を見たというボート屋は、湖の東側にはもう無かった。
東側は釣りをする所、西側はボートを漕ぐ所、という棲み分けがなされたということだろうか。

さて・・・では、せっかくなので偕楽園の方も見に行くことにしよう。
さっきの撮り鉄のメッカであった陸橋を再びわたり、線路の北側の偕楽園へ行くことに。

そもそも、水戸光圀公の功績は一体何だったのであろうか。

助さん格さんを連れて日本中を旅してまわって勧善懲悪をした?
それは時代劇での話で、史実としてはどうだったかというと、まずは水戸藩の第2代藩主である。
そして「大日本史」という日本の歴史書を開始し、それは水戸徳川家の事業として二百数十年にわたり継続したのだという。
決死モデル:チームR園田

最近「日本国紀」だか言ってWikipediaからコピペしているような本とは重みが全く違うのだ。
ところで、あれはこれからどうなるのだろう。
あの本の中に記されていることがこれから「史実」として定着していくのだろうか。
そのあたり、学術団体であるところの日本歴史学協会はどのように考えているのか、プレスリリースを出してほしい所である。

さすがに梅まつりの季節だけあって、出店もかなり出ている。

焼きそばからもつ焼きから牛豚串から広島焼きからチョコバナナまでなんでもござれといった面持ち。

ところで、徳川光圀公を祀った常磐神社には、靖国神社でいう遊就館のような「義烈館」という宝物庫があるらしい。
そしてその惹句が奮っている。
曰く「水戸のすごいものあります」。

そういわれてしまうと見に行きたくもあるが、いろいろと時間の制約があるので今回は後回しにすることに。

結局、今回の行程でのうぉーキングは5.8kmとなった。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


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