拙ブログでも取り上げた「渋谷暴動事件」の4日前のこと。
沖縄でも警察官殺害にまでなった暴動事件が発生していた。
例によって、当時の新聞から情勢を紐解いてみるが、まずは前提となる話から。
もちろん、当時の沖縄はアメリカ世である。
昭和46年11月10日、沖縄は返還協定に反対しゼネストに入ろうとしていた。
待ちに待った日本への返還であるというのに、何がお気に召さなかったのか。
最大の争点は「米軍基地は返還せずそのまま」ということであった。
当時はまだベトナム戦争中であり、沖縄は「Keystone of the Pacific」として毎日戦闘機や輸送機が嘉手納などの基地から大量の兵員と物資を運んで出撃していた。
その米兵は明日をも知れぬ命を沖縄で憂さ晴らしするのである。いわく喧嘩、いわく性的暴行、いわく酔っ払い運転・・・
これらのしわ寄せはすべて沖縄県民に行くことになる。
人が死ぬレベルの犯罪行為であろうと微罪で釈放という有様。
しかしそれはあくまで泥沼のベトナムに向かう兵力を減らしたくなかったというだけのことで、重い刑を科されないまでも彼らはベトナムの地でその命を散らせることになったのだ。
たとえアメリカの兵士がそうであろうと、それは沖縄の人々に関係のないことである。彼らにしてみれば、何より欲しいのは平和な日常である。
日本に復帰したところで、米兵が相変わらず闊歩しているというのであれば、何の意味もないではないか・・・
その怒りの結果が、11.10のゼネストということだった。
これに対し、屋良朝苗行政主席(後に沖縄県知事)は「請願の意図するところは分かるが、ストでしか訴えられない手段は容認できない」と言うのが精一杯だった。屋良主席は民選で初の主席であり、のちに沖縄県知事になってからも革新系の重鎮として活躍し続けることになる。むしろデモ隊の先に立って基地返還闘争に加わりたかったところであろうが、主席としての立場から「冷静な行動を」というのが精一杯であっただろう。
果たして11月10日、ゼネストはそれまでで最大の規模で決行された。
当時右側通行であったバスもマヒ。学校も一斉に休校。米軍基地があってこそ仕事ができていた基地労組までがストに入っていた。
一方、アメリカ本国では沖縄返還に関する協定が上院で承認を待つばかりの状態になっていた。
上院のフルブライト外交委員長は「日本占領が終わり、新たな日米関係を」と、沖縄の人々には響かないであろう声明を出していた。
また、別の囲み記事に目を移すと、尖閣諸島に関する主権問題は、当時からくすぶっていたことが分かる。
那覇市内の与儀公園では「沖縄返還協定批准反対完全復帰要求県民総決起大会」が開かれ、6万人もの人が集まった。
そして1968年に那覇の琉球政府の3〜4階から浦添の米軍基地内に移転した米国民政府へのデモに出発し、軍道1号線(現在の国道58号線)を北上して行った。
当時の沖縄は、屋良朝苗行政主席をトップとする琉球政府の上に、「高等弁務官」をトップとする米国民政府という軍組織が君臨していたのだ。
デモ隊は1号線を北上し安謝橋を渡り、勢理客の交差点に入ろうとしていた。
先頭に紛れ込んでいた中核派などの過激派が、警備していた機動隊員に火炎瓶を投げた。あとは「機動隊を殺せ!」という阿鼻叫喚の場である。
過激派が投げた火炎瓶をまともに受けた警官が倒れ込み、そこへ集団リンチとなってしまった。
結果、火ダルマとなり「さすがにこれはまずい!」となったデモ隊の組合員が組合旗を被せて火は消したものの、警官はそのまま死亡してしまった。
この事件に対し、復帰協もコメントを発せざるを得なかった。
曰く「警官が殺されたのは残念。しかしそれは学生ではなく過激派。罪にない学生にまで催涙弾を撃って警備のあり方に問題があるのではないか」というものだった。
そうかと思えば中部はコザでも米兵とのイザコザが発生していた。
酔っ払い運転の米兵が前の車に追突し、警官が双方をコザ署に連行して話を聞いていたところ、群衆が「米兵は横暴だ」と車に火をつけ始めたという、前年の「コザ暴動」さながらの事件が起きていた。
ちなみに、このことを報じた11月11日の琉球新報は、普段の12ページ建てではなく4ページだけとなり、内容もこの事件だけを報じるものとなっていた。それはこの琉球新報の労組自体がゼネストに参加していたから。
この11月11日の琉球新報の3面では、警察側についても報道している。
曰く「機動隊 同僚の死で無差別報復」。
あくまで警察の行動は統制の取れたものではなく、仲間を殺された感情による報復だ、という見方をしていた。
17時過ぎに事件が発生して火炎瓶やガス弾が飛び交う騒ぎとなり、18時に県労協議長が「もう続けられない。解散!」と宣言した後も、後ろの方の事情を知らないデモ隊が「なぜ解散?」と不思議がる。同僚を殺された警察官はデモ隊を殴る蹴るなどしていたという。
事件の報を受け「誠に遺憾」とコメントを出した屋良朝苗行政主席は、殺された警官の遺体が安置してある那覇署へ駆けつけた。
ところが若い警官からは「いまさら何しに来たんだ。帰れ!」と怒鳴られる始末。
屋良主席は、のちに初代沖縄県知事になって以降も革新系の重鎮として沖縄の世論を引っ張り続けた。反基地闘争ではむしろ先頭に立ってデモすらしたかったであろうが、行政主席という立場からデモ隊に穏便な手段を要求し、米国民政府との間に立って調整しなければならなかった。
そしてなおかつ、琉球警察の総責任者でもある。それを怒鳴り付けるというのだからただ事ではない。
上意下達のはずの警察にあってここまでの状態になるには、おそらく普段から「屋良さんはいざとなったら守ってくれない」という不信感が警察内部にあったのではないだろうか。
この日の夕刊では、アメリカ本国で沖縄返還協定が上院で84対6で承認され、あとは大統領署名を待つばかりの状態となったことを報じている。
時にアメリカ東部時間10日15時20分、日本時間で5時20分のことであった。実に沖縄での総決起大会が那覇の与儀公園で開かれる9時間前のことである。
この昇任に対し、与党である共和党の院内総務は「日本語で『ありがとう』と言いたい」と、沖縄の人々が聞いたら血が逆流するであろうコメントを発している。
そしてまた、日本の与党や外務省でも、この承認は好意的な反応となった。
官房長官であった竹下登は「非常に喜ばしい。我が国でも早く承認されることを望む」、外務省でも「アメリカの対日感情が中国代表権問題の共同提案で好転したことによるもの」と歓迎ムードだった。
まだ中国との国交は、台湾の「国府」とあった時代である。
一方、福田赳夫外相は来日中のコナリー米財務長官と会談し、沖縄中部の基地の縮小を要請したが、コナリー財務長官は明確な回答を避けている。
沖縄での反応は、屋良主席が「米国の利益だけでなく、沖縄の一般市民の要望も入れて実務に当たって欲しい」、復帰協の会長は「アメリカの経済危機で防衛を日本に肩代わりさせたくて協定を急いだのだろう。問題の多い協定なので引き続き見直しを迫っていく」とコメントを発表した。
この夕刊の3面では、先日発生した沖縄復帰闘争史上最悪の事件を、県民や政界がどう受け止めたかを報じている。
- 浦添市の会社員(40代)・・・学生の行動は運動の原点を忘れている。誰に何を要求するのか。本土政府もこの暴動の意味を考えて欲しい。
- 那覇市の女子大生(20歳)・・・デモから帰って警官の死を知った。あんなに荒れたデモは初めて。警官だって暴力が酷かった。暴力を取り締まるはずの警官が殴る蹴るだなんて許せない。
- 那覇市の主婦(40代)・・・ゼネストなど難しいことは分からない。警官だって県民なのに殺し合うなんて。学生の行為は出過ぎ。
- 沖教組役員(30代)・・・確かに警官の死は遺憾。しかしこれは機動隊に守られながら県民の声を無視した政治を26年間行ってきた結果だ。
- 公務員(50代)・・・警官の死は県民の怒りの犠牲だ。本土は県民の声を聞いてほしい。
- 東京沖縄県人会会長・・・いつかこういう事件が起きると思っていた。本土政府は軍用地の徴用など県民感情を逆撫でする施策を繰り返してばかりいる。これをやめないとさらに悲劇は続くだろう。
また沖縄政界の反応は以下の通り。
- 自民党沖縄県幹事長・・・騒乱を起こして意思表示しようとする主席はじめ革新政府の態度が問題。主席の政治責任を追及する。
- 沖縄人民党書記長・・・11.10ゼネストはかつてない壮大なものとして成功。暴力行為は復帰協とは無縁のトロツキスト集団による妄動。そもそも集会やデモに参加することを許されていない。警察がこのようなトロツキストを泳がせていたということを許せない。
- 沖縄社会大衆党書記長・・・11.10ゼネストは成功。我々とは無縁の暴力集団による警官死亡は遺憾。ご冥福を祈る。
- 社会党沖縄県本部政審会長・・・警官の死亡がどのような状況だったか分からないが死人が出たのは残念。この行動があたかも復帰協の行動とされて弾圧されることは許せない。
さて、ここからダークツーリズムとなる。
おもろまちのメインプレイスで本土のとんかつにしかありつけなかったなりにも、行動を開始したい。
おもろまちから勢理客には、228番のおもろまち~読谷線というのがある。
現在の勢理客はすっかり変わっている。軍道1号線は「国道58号線」に名前が変わっていることもさることながら、安謝橋や勢理客交差点を信号を渡らずに通ることができる立体交差ができていたり、勢理客の交番は今はなく、警官が待機していた沖縄トヨタは整備工場だけ残っており、事務所は交差点の向こうに移転しているなど。
(決死モデル:チームTエリー)
そして向こうからデモ隊がやって来たであろう道は、現在は左側通行になっている。
今回の宿はコザに取っており、77番の名護行きのバスまで30分以上待つのはかったるいが近くに良い喫茶店でもないかな・・・ と思ったら意外や意外、すぐに来たので乗ることにした。
これに1時間程度乗っていればコザには到着する。
そもそも、「コザ」という地名があったわけではなく、「胡屋」という地名を米兵が間違って覚えたなど諸説あるが、いずれにしても戦後定着した地名のようである。
その「胡屋」バス停で降りて、夕食はタコスを食べることにする。
なぜタコスなのか。それは基地の町・コザにあって今でも「Aサイン」を掲げている店があるからである。
「Aサイン」とは何か。
それは、米軍が衛生的な観点から、飲食業に厳格な衛生基準を課し、合格した店に「A(Approved)サイン」を出し、その店なら米兵でも安心して利用できる、という表示にしたというのが始まりであり、沖縄復帰に伴いその基準は効力を失うことになる。
そのAサインの店は、いかにも昭和な感じの商店街を通った先にある。
「パッチワークの店」「タトゥーの店」など、日本ではなかなかお目に罹れない種類の店も多い。
そして「チャーリー多幸寿」へ。
店内はいかにも昭和の饐えた匂いがする。それでも昔は米兵の使用に堪えるほどの清潔感があったのだろう。
(決死モデル:チームTアンヌ)
沖縄と言えばタコライスが有名であるが、タコスそのものもここでは出している。
ということで、遅い昼食からそれほど経っていなかったがタコライスとのセットを頼むことにする。
そしてその商店街を戻り、暮色が近づきつつある1号線を胡屋交差点を南下。
ホテルもまたアメリカ世からあったものであり、Aサインが誇らしげに掲げられている。
1階のレストランはステーキハウスとなっており、会計台には別のAサインが掲げられていた。
(決死モデル:チームP芳香ちゃん)
部屋に入り、テレビを付けるとコロナウイルスのニュースばかりやっている。
コロナウイルスでサンリオピューロランド等の娯楽施設が閉鎖というが、非正規雇用の人なんかはどうする? 貯金が底をついて別の問題が発生する都下にはならないだろうか?
ところで、風呂のお湯が出ないんだけど・・・
今時カンボジアですらこんな宿にはお目にかからない。
何なんだAサインって・・・