ミニスカートの日、52年目の羽田空港

今日10月18日は「ミニスカートの日」なのだという。
理由は今を去ること52年前の昭和42年10月18日にツイッギーが来日したから。

その当時のツイッギーフィーバーについて新聞記事から追って見ることにしたい。

まずは来日半年前の昭和42年4月17日の朝日新聞より。

11面家庭面で、「ツイッギーが欧米で旋風を巻き起こしている」旨が報じられている。
副題で「ビートルズ以来の人気」と、ビートルズが引き合いに出されている。
この前年の昭和41年6月29日に、ビートルズが来日して今なお残る大ニュースになったところである。

また「金の卵」という表現が時代を感じさせる。
当時はまだ集団就職が盛んであった。
しかし昭和42年時点では既に高校進学率の増加で全体の人数は減少傾向にあった。(参考:土田隆平「高度成長と集団就職――中卒者就職構造の分析――」)
集団就職で東京に来た彼らもまた、ビートルズの日本公演やツイッギーのファッションショーを見に行っただろうか。

記事を読んでみると、ミニスカートを「女らしくない」「中性化」と形容している。
今では考えられない視点であるが、当時はそういう時代だったのだ。

そして来日1ヶ月前の、昭和42年9月5日の読売新聞夕刊を見てみる。

3面カメラ・ニュースで「わたしこそツイギー娘」との見出しで、アメリカのフィラデルフィアで行われたツイッギーのそっくりさんコンテストの様子を報じている。
朝日新聞で「ツイッギー」とカタカナに起こしているのに対し、読売新聞では「ツイギー」と書いている。
Twiggyに対する表記の揺れが新聞ごとに違っているということが見て取れる。

また、このカメラニュースの面で最も大きく扱われているのは、国会での米価の審議で、消費者団体が子供まで連れて農林省前で座り込みをしているところである。
亀岡高夫官房副長官にまで面会して陳情しているが、「農民は値上げしろというし、調整が難しい」と嘆いている。
いずれにしろ、当時の日本人は権利の要求はきちんとしていた。今なら「米が安いというのであればもっと給料のいい仕事につけば良いだけ」などと知ったような事を言われるだろうか。

そして昭和42年10月3日の読売新聞夕刊。

扱いは小さいが、広告記事に「ミニの女王トゥイギー」と広告が打たれている。
広告主は東京12チャンネル。現在のテレビ東京である。
Twiggyの表記揺れは前述したが、「トゥイギー」という表現もあったようである。

この面で最も大きく扱われているのは、この日の午前11時半頃に発声した岩手県・松尾鉱山のガス爆発事故である。
原因の推測としては、大きな鉱石の小割り作業で使用した発破が鉱内のガスに引火したのではないかと報じている。
松尾鉱山には鉄道まで走っていたが、この数年後に閉山となり、廃墟となることになる。
最近、八潮秘宝館のラブドール が盗難に遭ったのも、この松尾鉱山の鉱員住宅跡である。

そして昭和42年10月18日、ツイッギーが来日し、羽田空港に降り立つ。

これを報じたのが翌19日の朝日新聞となる。

「ミニスカートの女王」であるという評判に相違し、降り立ったときは丈の長いキュロットスカートだったようである。
羽田空港の送迎デッキには、5〜600人の女性ファンが詰めかけていたという。

個人的な話になるが、当方の父親か母親かの卒業アルバムに、東京へ修学旅行に行った時の写真が載っていた。
まさにツイッギーが降り立った頃の羽田空港である。
2階建て程度の建物で、当時は「富裕層の乗り物」であった飛行機をすぐ間近に見ることができたようである。
そしてまた、「羽田空港で飛行機を見る」ことは、東京の1つの観光名物でもあった。

ところで、ツイッギーの降り立ったタラップは、ツイッギー自身の母国イギリスのBOACではなく、スカンジナビア航空とスイス航空の文字が踊っている。
一体どの便で来たのだろうか?

Airline timetable images」には、1966年当時のBOACの時刻が掲載されている。

新聞記事によれば、ツイッギーは10月18日16時45号分に羽田空港に降り立ったという。
しかし、BOACの時刻表にはそれらしき時間に到着する便はない。

あえて言うなら、12時30分に羽田に到着するAI102便、「AI」とあるのでBOACですらなく、エアインディアということになる。
ボーイング707が使用されたその便は、ロンドンを火曜日の10時に出発し、パリに11時に到着、パリを11時45分に出発しフランクフルトに12時55分に到着し食事の時間。そして14時15分に出発し、19時10分にベイルートに到着。20時20分にベイルートを出発すると翌朝5時にボンベイ(ムンバイ)に到着。
ここで乗り換えて6時45分に出発し、カルカッタに9時10分に到着。9時50分に出発し、バンコク に13時40分に到着、14時25分に出発し香港に19時に到着、翌朝8時35分に出発し東京には木曜日の12時30分に到着する、というフライトプランだったようである。

この他、木曜日と土曜日にも同じような便があったようであるが、ツイッギーが羽田に降り立った昭和42年10月18日は水曜日。
よって、BOACではないということになりそうである。

では、タラップにあったスカンジナビア航空はどうだろう?
スカンジナビア航空はこの10年前の昭和32年、北極回りのアンカレッジ経由の航空路を開設し、一般的であった南回りの航空路に比べて時間を劇的に短縮している。当時は東西冷戦の真っただ中であり、ソ連上空を通過することなど決して許されていなかった。

そのスカンジナビア航空の1965年の時刻表を調べてみると、コペンハーゲンを火曜日と土曜日の15時10分(GMT+1)に出発し、アンカレッジに12時50分(GMT-10)に到着、13時50分(GMT-10)に出発し、東京に水曜日と土曜日の16時30分(GMT+9)に到着。
恐らくはこの便で間違いないだろう。

1ドル360円の固定相場制の時に1000万ドル、つまり36億円稼いでいたというツイッギーは、この極東の島国までコペンハーゲン経由で来ていたということになる。

そして翌10月20日の朝日新聞で、最初の記者会見について触れられている。

記者会見は到着翌日の10月19日の午後、永田町のヒルトンホテル(現:キャピトル東急ホテル)で行われた。

いわく、「ひざ上30センチ、ボタン色のビロードの超ミニ・ドレス」ということで、日本のカメラマンの砲列に「恐怖を感じた」とまで形容している。

その時の質問は、

――総理の名前は?
(ペロリと舌を出して首を横に振る)

――知っている日本語は?
「ハイ」

――ヒッピー族についてどう思う?
「服装は好きだけど、LSDは良くないわ」

――今一番欲しいものは?
「幸せ」

また、朝日新聞では報じられていないが、同日の読売新聞では当時日本でも話題になっていたベトナム戦争についても触れられていたようである。

――ベトナム戦争をどう思う?
「よく分からないけど戦争はいや」

――歌手活動もしているということだが?
「下手だから恥ずかしいのでもう歌わない」

――モデルになっていなかったら何をやってた?
「デザイナーになってたと思うわ」

――節食はしている?
「してないわ。パパもママも痩せてるの。私も生まれつきやせっぽちなのよ」

――(マネージャー兼プロデューサー兼恋人の)ジャスティン・ドビレヌーブとの結婚は?
「まだ若すぎるけど、4~5年のうちにはもしかしたら・・・」

52年目のこの日、ちょっと羽田空港まで行ってみようか。

当時、2階建てだった羽田空港は現在は6階建てにまでなっている。
展望デッキはエレベーターで6階まで上がることになる。

現在の展望デッキは往年のように、5~600人の女性ファンを収容するなどという大きさではない。
わざわざ飛行機を見に来るくらいなら、自分で乗った方が早い時代になっているのである。

そして駐機場にはJALの国内線ばかりが並んでおり、向こうでは中国南方航空のエアバスが飛び立とうとしていた。
決死モデル:チームPみく

 

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