いつか、この駅に行きたいと思っていた。
岩手県にある山田線の大志田駅。
2016年に廃止になってしまった。
中学校ぐらいの頃、何かの本で読んだのだが、こんな記述があった。
山田線の大志田駅がスイッチバックの駅で、SLが走っていた頃のこと。
大志田駅を出発する盛岡行きの貨物列車に、赤ちゃんを抱いた母親が乗せてくれという。
貨物列車の車掌は、規定上乗せることはできないと断ったが、どうしても盛岡に行かなければいけないというので仕方なく車掌車に乗せてやった。
ところが、貨物列車が出発すると、旅客列車以上のその揺れで、母子は列車から振り落とされてしまった。
そして女の赤ちゃんは複雑骨折。
車掌は、規定に反して貨物列車に旅客を乗せ、なおかつ大怪我までさせてしまったということで、昇進の道から外され、いつまで経っても主任になることができず、後輩にも陰口を叩かれながらヒラ車掌として黙々と勤務していた。
いつしか、SL列車は廃止され、ディーゼルカーの時代になった。
しかしその車掌はまだヒラ車掌のままだった。
そんなある日のこと、旅客列車に乗務していると、大志田駅からセーラー服の少女が乗り込んできた。
そのセーラー服の少女はびっこをひいていた。
あの時列車から振り落とされた赤ちゃんが中学生になったのだ。
そしてまた年月が過ぎた。
大志田駅から、花嫁が乗ってきた。
その花嫁は、びっこをひいていた。
そうか。あの赤ちゃんはついにお嫁に行くのか。
それでも、その車掌はまだヒラ車掌のままだった。
これはだれが書いた本だろう・・・
この手の鉄道がらみの人情話は、宮脇俊三でも種村直樹でもなく、檀上完爾あたりが書きそうな気がする。
檀上完爾は昭和20年から昭和46年まで国鉄で勤めた経験があり、その経験からあまたの著作をものしている。それもキャリアのはじめは水沢駅員や盛岡車掌区である。
して、その作風はと言うと・・・ 今でいえば2ちゃんねるの家庭板的というか、弘兼兼史の「人気交差点」的というか、おじさんおばさん世代の噂話の域を出ないようなエピソードばかりのような気もしたが、それでも中学生の頃は、貪るようにして読んでいた。
たぶん檀上完爾著「国鉄青春日記」ではないかと思い、日曜日に四谷の図書館に読みに行ったのだった。
・・・が、この本ではなかった。
ただ、それに近い話はあり、檀上自身のエピソードだった。
若い頃、盛岡車掌区では山田線の貨物列車の乗務は誰もが嫌がった。
それは、トンネルが50もあり、煙で苦しくなるからだった。
そんなある日の山田線の貨物列車の乗務のこと。
宮古行きの貨物列車の乗務に、宮古駅の電信手の女性を乗せてくれと依頼があった。この貨物列車に乗らないと、明日の宮古での勤務に間に合わないのだという。
檀上自身も若い頃で、電燈も無い車掌室の中で、若い女性と2人きりは非常に緊張した。
駅に到着すれば勤務に集中できるので助かったが、乗っている時は変な気を起こしてしまわないか緊張の連続だった。
果たして、列車は無事に宮古駅に到着した。
その日の昼、盛岡行きに乗務しようとすると、真新しい手袋をおにぎりを持って行けという。
聞けば、その電信手の女性によるものだった。
ボロボロの手袋を見て可哀そうになったのだろうか。
こころ温まる話だった。
何か微妙に違うが「山田線の貨物列車に便乗した女性」という意味では似通っているし・・・
いずれ、中学生だった自分には「大志田駅」「びっこのセーラー服」「びっこの花嫁」というイマジネーションは、義足ではないにしてもフェチ心を刺激して余りあるものだった。そういう意味では「私的devotee史」と言えるかもしれない。
解明はできなかったが、いずれにしても盛岡に行ってみようと思う。
ということで東京駅。
徹夜案件後なので眠くてしょうがない。
(決死モデル:チームY間宮)
それでも、大志田駅に行くにはレンタカーを運転していくしかないので、どうにか仮眠時間を確保することにした。
例の池袋の上級国民の事故でも、遺族が上級国民を厳罰に処すように署名活動を始めている。
自分自身も署名することに吝かではないが、その前に自分が事故を起こしたら元も子もない。
なるべく、東京から盛岡の間は寝る時間に充てることにした。
そして12時33分に盛岡に到着。
秋田行きの「こまち」と切り離すので6分停車となる。
(決死モデル:チームRナオミ)
連結シーンは老若男女問わずだれでも大好きで、スマホのカメラの砲列となる。
さて、こちらはと言えばレンタカーを借りて大志田駅の跡まで行かないといけない。
とりあえず、運転できないほど眠いという状態にはなっていない。
レンタカーの手続きをして大志田へ行くことにする。
カーナビで大志田駅の跡を指定すると、国道455号線(国鉄バス早坂高原線)で藪川まで行って、そこから林道を指定するという大回りなルートになってしまう。
そして、途中のスーパーマーケットで盛岡のソウルフードである福田パンのあんバターを買うことにする。
福田パンは独特の食感が印象的である。
本当は炭水化物なんか摂ったら眠くなるのだが、昼時でもあり、なおかつ盛岡に来たら盛岡らしいことをしたいと思ったので仕方ない。
ところで、事前にGoogleマップで調べた限りでは、大志田駅の跡に行くには上米内駅付近から米内川沿いに行くのが一番近いようなので、そちらのルートで行くことにする。
しかし、いくら米内川沿いに行っても「ルートを変更しました」「ルートを変更しました」と、しきりに藪川回りをサジェストしてくる。
しかし、しばらく行っているとカーナビも根負けして「道なりです」と案内するようになった。
・・・と、目の前に鹿がいるではないか!
写真に撮ろうとすると、びっくりして笹薮の中に消えてしまった。
果たして、大志田駅に到着する。
周囲には家が疎らに2~3軒しかない。
これではJR東日本も廃止を検討しようというもの。
ところで、この大志田駅近辺の山林はは熊が出没するという。
また、地元紙である岩手日報には、朝刊に「熊の出没情報」が載っているという。
それなら岩手日報を買って持って行こうじゃないか。
(決死モデル:チームRスマレ)
・・・が、きょうの朝刊にはその熊の出没情報は載っていなかった。
そして、1面には昨日京アニで起こった放火33人死亡事件の件が載っていた。
ところで、本来であれば決死撮影はセーラー服でやりたかった。
しかし、うちの衣裳室にはセーラー服が全くないのだ。
それもそのはずで、うちの歌劇団では「袖ヒラ」は余りやっていない。袖なんて腕があるのが前提である。
ただ、アンドロイド仕事用に胸像はあったのでこれを使うことにするか・・・
ということで、手足の組み換え可能なアンドロイドメンのスマレに出てもらうことにしたのである。
さて、どうせなら列車の通過するときに撮影したい。
一番近くて、上米内を14:05に出発する宮古行きの快速「リアス」があるようである。
ではこの「リアス」がいつ頃大志田駅を通過するか。
盛岡起点9.6kmの上米内駅と、19.2kmの大志田駅と、その次の駅である区界駅(35.6km)と、そして「リアス」の次の停車駅である陸中川井駅(73.5km)との関係を勘案し・・・
きっと14:15頃に通過するのではないかという結論に至った。
それまでに熊に襲われでもしたらえらいことである。
近づいてきた時のイメージトレーニングを欠かさずにいることにした。
果たして14:15過ぎ、警笛が遠くで響き、エグゾースト音が近づいてきた。
いよいよ感動の瞬間である。
こんなに計画的に撮り鉄したのは、もしかしたら初めてかもしれない。
・・・と、1両きりの快速「リアス」がやってきた「その瞬間」は、風が吹いてきてスマレがよろけながらの撮影となってしまった。
これは・・・ 1面トップに載せられた事件の死者の霊がもたらしたものだろうか。
こんな悲惨な事件をネタに使うな、という。
それでも、ここまで安全に運転できただけでも運が良かったのかもしれない。
あとは、森林でおおわれた細い林道を盛岡駅に戻るだけである。
帰りもどうにか安全に戻ることができた。
その前に、やはり盛岡のソウルフードであるところの冷麺を食べることにしたい。
(決死モデル:チームRハナ)
「はやぶさ」の新函館北斗行きは15:35、この冷麺を注文したのが15:15頃だったので、正味20分も無い。
大急ぎで書き込み、急いで切符を買って新幹線のホームへ。
とりあえず、「はやぶさ」に間に合うことができた。
ところで、隣に座ったオッサンがやたら臭い。
体臭ということに関しては自分だってとやかく言えたものではない。しかしそれを差し引いても臭い。
外見では定年退職した普通のサラリーマンのように見えるこのオッサン、しかし不潔感はただものではない。ウエストポーチもリュックも垢で汚れている。
これは企業戦士で過ごしてきながら熟年離婚でもされて傷心旅行にでも出ているのだろうか?
髪と眼鏡だけはちゃんとしているのだが・・・
そんなこんなで、二戸までの30分の新幹線は、匂いとの戦いで終始した。
ともかくも二戸に到着。
二戸駅は新幹線が開業して単なる橋上駅舎になってしまい、往年の「北福岡駅」の風情は無くなってしまったが、それでも駅前にはJRバスの二戸営業所があり、(自)二戸駅が鎮座している。
(決死モデル:チームP桃園)
向こうには伊保内へ行く岩手県北バスが停まっていた。
また、JRバスとしては、東京から「あまちゃん」で有名となった久慈へのアクセスは、二戸から乗り換えることを推しているようで「スワロー号」を1日数往復運行している。
さて、これから乗る浄法寺行きのバスと言えば、元々は花輪線の荒屋新町まで走っていた。
しかし、現在は浄法寺から先はJRバスでは運行していない。
それでも、数少なくなったバス駅の浄法寺駅は見ておきたい。
ということで、浄法寺行きに乗る。
途中の御返地は昭和30年まで二戸郡御返地村であり、バスの待合所やその敷地も、かつてはバス駅であったであろう風格に満ちている。
(写真は二戸行きの待合所)
恐らくここには、先に訪れた近江下田同様、バス駅があったのではないだろうか。
選挙掲示板もあるあたり、やはり「村のセンター」としての風格を感じる。
ただ、国鉄バスに関する有力な情報ソースであるふもふも館の、二戸線に関する記述を読んでみると、自動車駅に関しては以下のようになっている。(太字は引用者による)
1977(S52)年8月の「駅営業範囲一覧」によると、二戸線には接続駅(北福岡、荒屋新町及び一戸)の他に、浄法寺に第一種委託駅(自動車駅)が置かれていた。
やっぱり御返地は昭和52年の時点で「駅」ではないか・・・
それでも昭和30年代はどうだったか分からない。
ともあれ、バスは浄法寺駅に到着・・・
(決死モデル:チームPみく)
あれ? 思い描いていたような浄法寺駅ではない。
浄法寺町役場・・・というか平成の大合併で二戸市浄法寺総合庁舎となった庁舎の前に、少し大きめの上屋がある。
たしか浄法寺駅ってこんな「単なるバス停」ではなくて、ちゃんと駅舎があったよね?
あの駅舎はどこ行った?
Googleマップには確かに浄法寺駅は存在しているのだ。
そしてその隣には「STATION」という喫茶店もあり、地域で「駅」として認知されている場所があるはずなのだ。
・・・その答えはすぐに出た。
ショックで声も出なかった。
まさかこんな結末になっているとは・・・
国鉄バスの面影が、また一つ地上から消え去ってしまった。
かつては「はつかり」「十和田」で北福岡から乗り換えた客を迎えたであろうあの駅舎は、もう今は無いのだ。
ショックを引きずったまま、荒屋新町行きの二戸市コミュニティバスを待つことにする。
かつて国鉄バスの路線だった浄法寺~荒屋新町間は、現在は二戸市のコミュニティバスが運行を引き継いでおり、それも朝と夜にしか運行していない。
現在はマイクロバスが往復しているだけであった。
客は自分1人。
そして安比川を遡上し、八幡平市に入り荒屋新町に到着する。
元々はと言えばここは二戸郡安代町であった。しかし2002年からは岩手町(新幹線のいわて沼宮内駅)や西根町(花輪線の大更駅)と同じ岩手郡に属することになった。
そして2005年からはその西根町や松尾村(松尾鉱山鉄道が走っていた)と同じ八幡平市に合併することになった。
荒屋新町はその旧安代町の中心部で、SL末期には花輪線の9600三重連の拠点として、盛岡機関区の荒屋新町支区もあった。
(決死モデル:チームR真夜)
後はもう花輪線で今日の宿である小坂鉱山を目指すだけ。
程なくして大館行きがやってきた。
大館行きはエグゾースト音を響かせ安比川と米代川の分水嶺を越える。
それで荒屋新町のある町は「安代町」だったのだ。
県境を越えても「陸中大里」「陸中花輪」(あ、今は鹿角花輪か)という駅名が続く。
廃藩置県で秋田県になっても、旧国名としては岩手と同じで「陸中国」なのだ。
花輪線も、大館までの全線が盛岡支社の管内になっている。
ということで、十和田南に到着。
かつては毛馬内と言ったこの駅は、特段鹿角市の中では中心的機能があるわけではないようで、夜は全くの闇であり、タクシーも待っていない。
(決死モデル:チームTフジアキ)
仕方が無いので、タクシーを電話で呼ぶことにする。
そしてタクシーは、夜の田園を小坂川沿いに小坂を目指す。
そして、同和鉱業小坂鉄道の小坂駅に到着。
1本だけのホームに、かつて「あけぼの」で使われていた24系25型が停まっていた。
ちなみに1号車は、幕が「みずほ 長崎」となっていた。
(決死モデル:チームR園田)
受付は駅舎であり、定年退職の再就職と思しき係員が「予約されでだ方ですねぁ?」と秋田弁で確認する。
とりあえず今回はA寝台を予約している。
宿泊券は昔ながらの硬券であった。
また、シャワーやロビーは駅待合室を充てていた。
車内に入ると、あの国鉄車輛の匂いがする。
最近は、国鉄車輛の匂いの石鹸まで売られているという。
しかし、揺れも無ければコンプレッサーの響きも無い。
鉄道車両としては「死んでいる」のだということを痛感させられた。
それでも、こうして保存して、宿泊に供してくれるのならありがたいではないか。
向こうには軽便鉄道時代の蒸気機関車が保存してあった。