「ハイサイおじさん」を偲ぶ旅

今年の高校野球はコロナで中止になってしまったが、沖縄代表のチームがスタンドで演奏する応援歌といえば「ハイサイおじさん」であろう。

実はこの「ハイサイおじさん」には、悲惨な殺人事件が明確に関係している。
それは昭和37年、アメリカ流に西暦で言えば1962年5月23日のこと。

その日の沖縄タイムスの夕刊で報じるところでは「狂った母親 七つの娘を惨殺」。

コザの島袋に住む39歳の精神異常をきたしていた母親が、朝の9時過ぎに7歳の三女の首を斧で切って殺したのだという。
これを最初に発見したのは、5歳になる弟。

びっくりして近所の人に事件を知らせるも「まさかそんな・・・」と誰ひとり信じなかったのだという。
結局近くでお茶を飲んでいた父親、つまりその母親の夫がこの5歳の次男に呼ばれる形で帰宅して、初めて事件を認知したということになる。

ところで、この日は水曜日であり5月なので夏休みでもない。
であれば三女だってとっくに学校に行ってるのでは? と思うところだが、通学の手続き自体をしておらず、コザ市教育委員会から不就学の通知を届けようにも住所が分からなかったのだという。

つまり、義務教育にすら見放されるほどの困窮した家庭だったということ。
事件の4年前になる1958年3月に大黒柱である夫が交通事故で働けなくなり、妻が日雇いに出て働くことになった。
この年の4月には、政府に「救済家庭」・・・内地でいうところの「生活保護」だろうか。これも蹴られていたのだという。

夫の弟のコメントも載っており、「酒飲みで家庭をあまり省みなかった」と言っている。
この「酒飲み」だった兄、つまり犯人の夫、他ならぬ被害女児の父こそが、後年明るく歌い継がれているハイサイおじさんその人だったのだ。

ところで、同じ5月23日夕刊の琉球新報ではどのように報じられていたか。
「母親が娘を惨殺」という見出しで報じている。

こちらでは殺されたのは三女ではなく四女であり、子供は6人いたと報じている。
稼げるのが母親しかいない困窮家庭で子供が6人とは、相当の負担であっただろう。
上の子は中学を出て働き始めていたであろうか。

また、沖タイでは事件現場を「島袋小学校近く」としていたが琉球新報では「島袋中学校のガケ下」と書いている。
ちなみに現在の沖縄市に「島袋中学校」は現存しない。

近所の人は「もっと早く生活保護にしていれば事件は防げた」と、この貧しい一家に同情的なコメントを寄せている。

また、ここ数日の経緯も報じており、妻のその精神病のために座敷牢(監置所)に入れていたのを、数日前に出したのだという。
そしてその朝8時ごろ、四女(沖タイでは三女)が頭を血だらけにしながら「母ちゃんが殴った」と訴えてきたのだという。その「母ちゃん」はと言えば「見知らぬ男が入ってきて殴った」という。ここまで精神が荒廃していても、責任だけはしっかり回避しようとするあたり、責任回避とは人間の社会的動物としての本能なのだろうか。

いずれ、夫婦はコザ署に連行され取り調べを受けることとなってしまった。

さて、ここからダークツーリズムへ赴くこととしたい。

今回の宿は信頼と安心のAサインである。
決死モデル:チームWBラジエッタ

チェックアウト時、GoToキャンペーンの旅行証明書をもらった。
そういえば昨日、身分証明書まで確認させられた。
コロナに感染した時の身元確認とか東京在住者の排除かと思ったら当たらずも遠からずで、GoToキャンペーンで補助出す時に使うのだという。

前回、コザ暴動のダークツーリズムできた時もここにとまったが、その時のデータが残っていたようである。

朝食は1階のステーキレストランが営業していないので、どこかで食べるしかない。

事件現場に近いという島袋小学校は、このホテルから歩いて行けなくもない距離にあるという。

アップダウンの激しい小道を行くと、アメリカ世や、もしかしたら事件当時を知ってるのではないかと思うような古い瓦ぶきのブロック家屋が並んでいる。
ちなみに、この時点では資料を収集しているわけではないので、具体的にどこかはわからないので、取り敢えず島袋小学校の所で撮ることにする。

そもそも、この島袋小学校の所在地は「沖縄市久保田2丁目」いかにも1962年当時は存在していなかったのではないかという住居表示感の半端ない町丁名である。
島袋小学校の周囲はハブが出るのだという。
決死モデル:トルソーさんファラキャ

ダークツーリズムが終わったら、バスで那覇に出ることにしたい。
近くの比嘉というバス停からバスに乗ることにしたい。

27番のバスがやって来た。27番は那覇と屋慶名を結ぶ系統で、沖縄バス的に言えば「那ハ〜屋ケ名」ということになる。

そして終点の那覇バスターミナルにつきましたっと。
昔のようなバスターミナルが近代的なビルになってしまい、情緒は無くなってしまったが、それでも沖縄県立図書館がこのビルに入ることになり、ダークツーリズムの資料取りの利便性は向上した。

ここで事件当日の沖縄タイムスと琉球新報を収集する。
マイクロフィルムではなく、縮刷版で揃っていた。
広島に行った時、広島市立中央図書館でも感じたが、主要な新聞はマイクロフィルムではなく縮刷版で見れるものである。

また、かつてはこの2紙だけではなく「沖縄時報」なる保守系の新聞もあったというが、それは1967年に創刊し、1969年に休刊という短命な新聞であった。
保守系の政党が沖縄に補助金や利権をもたらすとは言え、保守系のジャーナリズムは根付かなかったらしい。

それと、沖縄タイムスの出している沖縄年鑑を1959〜1972年分、事件の所をコピーする。結構な分量になり収穫であった。
決死モデル:トルソーさん霧島

さて次は国際通りにでも行きましょうかね。
ちなみにハ群もスマレとレナしか残っていない。どうにかにしこくん仕事ができる所を優先しようか。

まず国際通りで昼食としたい。
沖縄そばにするか、ステーキにするか。
帰りの飛行機が19:05でバタバタになるだろうから、こちらで沖縄そばということになるだろう。

そうなると、今のうちにステーキにしておいたほうがいい。
ということで、ステーキハウスに入ることにするが、料理人がパフォーマンスしながら焼く所で、1人で見てなおかつiPadでブログ付けながらということもできず。

さて、体が臭いのは相変わらずであるが、もう着替えが払底してしまった。
仕方がないのでユニクロにでも・・・と思ったら、与那原イオンとかおもろまちにしかないらしい。所詮はユニクロなど本土の文化。

仕方がないので国際通りでかりゆしウェアでも買いますかね・・・
結局、九千いくらかかってしまった。

さて、次は牧志市場にでも行きますかね。ただし現在は牧志市場は移転中で仮営業中。
プレハブの仮市場へ行くことにする。

牧志市場ってこんなに小さかったっけ?と思うような小ささだった。
1階は市場で2階は食堂街。
山羊の肉なんて売ってるのが沖縄らしい。
決死モデル:チームRスマレ

さて、13時か14時台にして、もう那覇で見たいものは見てしまった。
あとは充電でもしつつどこかで休憩したい。

ではガストへ行くことにしよう。そう思って検索すると、天久とかおもろまちにしかない。
おもろまちか・・・この那覇で「本土っぽい何か」を求めようとすると、おもろまちに行き着いてしまう。
もはやおもろまちとは「新都心」ではなく「租界」ではないだろうか。
決死モデル:チームTレナ

ともかくも、ガストで充電しつつブログ付け。
そして17時になったので、ゆいレールで那覇空港へ行くことにしましょう。

そして那覇空港に到着。
桃航のチェックインは遠い。LCCの悲哀。
それも真ん中の席という苦行である。何でだ?密対策はどこ行った?

検温という最後の関門は・・・ どこかであった?
知らないまま通り抜けてしまった。

でも成田で検温させられて引っかかったりするのかな。

 

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