べらんめえの嘆き

こんな記事を見つけてはっとさせられた。

天地真理は今や老人ホームで週に数千円の暮らしをしているという。
往年の大スターがこれなら、自分なんかどうなるんだっていう。

嫌でも長生きしなければいけないのであれば、今からでも「蓄財」というものを考えないといけない。
「蓄財」と言えば何と言ってもこの人である。

Wikipediaにはこんなエピソードがある。

なるほど・・・「預金通帳を読書する」癖か・・・
「時間をきちんと守る」のは、前エントリでも全くできていないが、預金通帳を眺める癖は今からでもつけておこうと思う。

そのついでに、今日のダークツーリズムは、そのトニー谷の息子が誘拐された事件の現場を歩いてみたい。

第一報は昭和30年7月18日 の新聞となっている。
この3日前の7月15日、大田区立入新井第四小学校に通うトニー谷の長男が誘拐され、身代金20万円が要求された事件が発生したことが報じられている。

事件発生から第一報まで3日間のタイムラグがあるが、この時点で報道協定があったわけではない。何より誘拐された長男の生死は不明である。
報道協定が生まれたのは、この5年後の昭和35年の「雅樹ちゃん誘拐事件」以降のこととなり、狭山事件ではその報道協定が発効して、昭和38年5月1日の事件発生から3日後の5月4日の新聞での第一報となっている。

状況としては、学校が終わって帰宅する際、トニー谷宅は池上通りを右に曲がる(大森駅方向)はずが、その日に限って左に曲がった方(池上駅方向)に曲がり、黒い服を着た男と一緒だったという級友の目撃談であった。

最初は「トニー谷の人気や傍若無人な態度をねたんでの怨恨」という説が第一にたてられていた。
Wikipediaで見るだけでも、相当なセクハラやパワハラを働いていたようである。
「やりかねない」覚えは多々あったようである。

ところで、この記事の左上に、三田高校の校長が自殺未遂というニュースがあるが、これは「少年犯罪データベース」で触れられている。

昭和30年(1955).6.30〔18歳女子大生が不良教師との失恋で焼身自殺〕
 東京都港区青山の洋画家宅で、次女の東洋大学1年生女子(18)が石油をかぶって焼身自殺した。今春まで通っていた都立三田高校の教師(28)と在学中から関係を持っていたが、教師がほかの教え子と婚約したため。この教師は女生徒8人に手を出しており、1人は1月に睡眠薬自殺を遂げ、1人は自殺未遂。学校図書館から160冊を盗んで金にしていたので横領で逮捕されたが、微罪のため不起訴処分となった。
 教師の父親が地元の有力者で校長(52)と親しかったためこれまで見過ごされていた。東京教育大卒で成績優秀。7.17に校長はガス自殺を図ったが、命を取り留めた。

微罪で不起訴処分になったということであれば、現在であれば実名を報じられることはないだろうが当時は昭和30年。
マスゴミの報道被害も相当なものであった事が伺われる。

この日の読売新聞夕刊では、16日に届いた脅迫状についての分析がなされている。
ちなみに、朝刊で「20万円」と報じていたのは実は「200万円」の誤りだったのだという。
当時の大卒初任給は11,000円程度の時代の200万円である。

脅迫状は武蔵野市吉祥寺から届いたもので、それまで公開されていなかったトニー谷の本名で宛先が書かれていた。
この事件でトニー谷は、隠していた個人情報が次々と暴かれることになり、本人の芸能に対するモチベーションは失速していくことになる。

また、徹底して嫌われていたとWikipediaもあったが、友人が全く皆無であったわけではなかったようで、KRラジオ(現:TBSラジオ)の「東西アルファベット読本」で共演した三遊亭小金馬が見舞いに訪れている。
大正6年生まれのトニー谷に対し三遊亭小金馬は昭和4年生まれ。つまり12歳年下ということになる。

「ヨオ、金ちゃん」
「トニーさん、大変なことになりましたねえ」
「おめえ、子供生まれたのか」
「ええけさね。女の子でした」
「おめえに子供が生まれておれの子供がさらわれる。そんなバカなことがあるかい」
「・・・」
「おめえと放送で誘かい事件の話をやったかやらねえか知らねえけど、手前がこうなるとはネ・・・」
(中略)
「おれや子供の知り合いでこんなひきょうなことをする野郎はいねえはずだ。どんな男か知らないが無事に返してくれさえすれば何も言わない」

トニー谷は銀座で生まれて小伝馬町で育った筋金入りの江戸っ子で、山手言葉のザンス口調の芸風とは違い、素ではべらんめえ口調だったようである。

ところで、Wikipediaでは「かつらのことは公然の秘密だった」と書いているが、この記事では「カツラ隠しの手ぬぐい」と堂々と書かれている。
このこともこの記事で初めて暴露されたものだったのだろうか。

さて、気遣われるのは「さらわれた」長男の消息である。

7月18日の夜21:45頃、応接間に電話が掛かってきた。
その電話を取ったのは、芸能仲間であった三代目村田正雄だった。

「トニー谷の家か」
「そうだ」
「いま子供と代わるからトニーを出せ」
「待ってくれ。いま出す」

そして無精ひげを生やしたままのトニーが電話を代わる。

「どうしてる?元気でいるかい?」
「コッペパンを水で食べてるの」
「何?コッペパン?」
「(ヤバイ、やめろ)」
「ランドセル持ってるよ」

とりあえず子どもは生きていた・・・!
傍若無人で知られていたトニー谷は、一人の父親としてそこにヘタヘタと座り込んでいた。

その3日後の7月21日、その長男が無事に保護されたことが、翌22日の号外で広く報じられることになった。

保護されたのは長野県の上山田温泉であった。
上山田温泉は、げんざいはしなの鉄道となった信越本線の戸倉駅からバスで行った所にある。

身代金の受け取りのために渋谷に出て来ていて逮捕された犯人は、その長野県の男で、雑誌の発行資金欲しさに、何かの雑誌で見た1932年のリンドバーグ長男誘拐事件を参考に誘拐を思いついたと自供した。

長男の通う小学校では、「トニー谷の息子である」ということは全く秘密ではなく、オープンであった。
そして他の児童からクラスと担任の名前を聞き出し、13時頃の下校のタイミングで「この(平凡に掲載された)写真はおじさんが撮ったんだよ。もっと良い写真を撮ってあげよう」と誘拐に及んだのだという。

7月15日に誘拐されて以降、どのような経路をたどったかについて、22日の読売新聞に掲載されている。

まずはバスで池上駅に出てから、東急池上線で蒲田へ出てブラブラしたが特にあてもなく、目蒲線で田園調布へ行き東横線に乗り換えて渋谷へ出て、そこから今度は京王井の頭線で吉祥寺へ向かったのだという。
そして脅迫状をここから出したので、消印が武蔵野市内になっていた、ということのようであった。

そして中央線の浅川行きの電車で立川へ行き、立川からはおそらくED14などが牽引したであろう普通列車で松本へ向かい、松本駅で駅寝して翌朝篠ノ井線で篠ノ井へ行き、バスで戸倉へ行き自宅へ行ったのだという。

子供自体は丁重に扱っており、妻には誘拐の事実を触れず「よく世話しろ」と言いつけ、ジャガイモを食べさせたり風呂に入れたりしていたという。

そして同日の夕刊で、長男が信越線経由で帰ってきたことを報じている。

当時であれば信越本線の碓氷峠越えはアプト式ED42が客車列車を牽引していたであろう。

ところが「大宮駅で降りる」と言うところまで知れ渡っていたからたまらない。
大宮駅に到着した頃には大群衆にもみくちゃにされ、国道17号線をわざわざ大宮まで来た父親のトニー谷は、そこでは会えなかったのである。
これにはトニー谷も憤慨した。「テメエ何見に来てやがるんでえ!テメエも子供をさらわれてみろ!」と中年の男に殴りかかる騒ぎにもなった。

また、犯人と記者との一問一答も掲載されている。

――成功すると思ったのか。
「金がとれると思った。トニー谷なら万難を排して金策すると思った」

――もし失敗したら?
「失敗なんて考えなかった。殺すことなんて絶対ない」

――突然知らない坊やを連れて妻や近所の人に怪しまれなかったか。
「上手に話していたので怪しまれなかった」

――長男は帰りたがっていなかったか。
「毎日泳ぎに連れて行くなどしていた。たまに帰りたがっていたようだが」

――今の気持ちは。
「心配をかけた大谷夫妻に申し訳ないことをした」

この年のうちに東京地裁で第一審が開かれたことと考えられるが詳細は不明、控訴したようで翌昭和31年9月に東京高裁で懲役3年が言い渡されている。
しかしここでも上告したようで、昭和32年5月には最高裁で上告審が開かれていた。

犯人は小田急沿線の世田谷区代田に住んでいたようで、5月23日には出廷させられていた。
その帰りの夕方の新宿駅のことである。

駅構内の喫茶店「ド・ルポ」(de Repos=フランス語で「安息」「休養」)で昏睡状態になっている男を女店員が見つけ、新宿駅の公安室に届け出たものである。
犯人はアドルムをオーバードーズして自殺を図っていた。

結局死にきれず、この年の6月4日に懲役3年の刑が確定している。

そしてそのダークツーリズムであるが・・・

果たして神田から京浜東北線に乗り大森へ。
快速運転中ではあるが、神田には停車する。

大森は明治初年の「汽笛一声新橋を~」の鉄道工事の際、遺跡が見つかったという「日本考古学発祥の地」でもある。
決死モデルチームPウメコ

大森駅を出て池上通りを歩くと、歩道がアーケードに覆われた長い商店街を歩くことになる。
この地域は「山王」と呼ばれる地域であるようだった。
中には、おそらくトニー谷の一家を知っているような佇まいの眼鏡店もある。

ここで何やら見たことのあるような選挙事務所が・・・

これは、2014年に東京都議会で女性議員にセクハラ野次を飛ばした自民党の鈴木章浩議員の事務所である。

結局、この事件で自民党を離党したと思っていたが、いつの間にか自民党に戻っていたようである。
ずいぶんとまあ節操のないことで。「ヒーロー!ヒーロー!」じゃねえよまったく。
ここまで厚顔無恥でないと政治家になれないのだろうか。

さて、そこからまたしばらく池上通りを歩くと、入新井第四小学校となる。

とはいえ、小学校自体が池上通りに面しているわけではなく、少し入った所にあり、交差点から体育館が見えるという程度である。
そして池上通りを東急バスが1時間に5~6本と頻繁に走っている。
現在の大森~池上のバスの系統は「森07」となっていた。

小学校を出て右に曲がれば、当時のトニー谷宅だったのであろう。
しかしその日だけは、男に連れられてこのバスが向かう池上駅方向に行かされたのであった。

さて、歩くだけ歩いたし、自分もバスに乗って池上駅を目指しましょう。

程なくして池上線の池上駅に到着。
現在は改築している最中であった。

池上線と言えば、東急電鉄の中でも緑色の旧型車が最後まで残っていた路線で、昭和51年に発売された西島三重子の「池上線」でも、以下のように歌われている。

〽古い電車のドアのそば 二人は黙って駅を出た 話す言葉を探しながら すきま風に震えて

つまり、池上線の電車は「古い電車」だったし、駅は「すきま風」が吹いていたのだ。
電鉄側はこれに怒ってコメントまで出す事態となった。

ただ、池上線開業80周年となった2007年には「名曲池上線号」が運行され、西島三重子も招待されている。

(文字数ランキング54位、4.9パーセンタイル)

 

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