誰も知らない沼島の沖合

昭和29年11月3日、東宝により公開された映画「ゴジラ」の冒頭は、
「南海サルベージ所属の貨物船『栄光丸』が消息を絶った」
というものであった。

その4年後・・・

昭和33年1月26日朝、徳島県内各戸に配られた徳島新聞の社会面は、以下のような内容であった。

まず、社会面トップでは徳島県下の人口の動きについて報じている。

徳島県内の出産数は減少傾向にあると報じられている。
これは、医学の向上による乳児死亡率の減少により、最初から子供を産む数が少なくなったこと、「人工流産」によるものと分析している。
2018年の現在でこそ「少子高齢化」が叫ばれて久しくなっているが、戦後しばらくも、出生率の低下傾向はみられたようである。(Wikipedia「合計特殊出生率」より)

郡市別に見ると、昭和32年の人口1000人当たりの出生率は、以下の通りとなっていた。

  • 徳島県平均 16.7
  • 三好郡(池田など) 21.6
  • 美馬郡(貞光など) 19.7
  • 名東郡(佐那河内村など)、名西郡(石井など) 14.5
  • 鳴門市 13.9

出生率が高い・・・ と言えば聞こえは良いかもしれないが、裏を返せば医療が行き届かず、乳児死亡率が高く、多産多死の伝統が続いていたのかもしれない・・・ とみることも出来る。

また、左の囲みには、「白骨街道」と呼ばれたインパール戦線から帰還した兵士の回顧録が連載され、この日で25回目を数えていた。まだ終戦から13年目となったばかりの年である。

また、下には小さく「小型船にラジオを」という記事がある。
これは、その数日来の強風のために、小型の漁船の沈没が相次いでいたということから、四国海運局では気象状況を知るためにもラジオの設置を励行しようというもの。
しかし、ラジオを備えているのは県内の小型船舶の1割にも満たないという状況で、徳島県水産課でも「政府の補助でもないと設置なんて無理」と断じていた。

左下にきわめて小さく、徳島県内から阪神方面への船の便の時刻表が掲載されており、総合すると以下の通りになっていたようである。

小松島港 徳島港 鳴門港 和歌山港 なんば駅 神戸港 大阪港
南海丸 8:00 10:30 11:55
おとわ丸 11:00 15:50 17:20
あかね丸 13:30 17:50
わか丸 14:10 16:40 18:05
南海丸 17:30 20:00 21:25
ときわ丸 20:00 翌4:00 翌6:00
あき丸 21:00 翌3:30 翌5:30
乙女丸 21:00 翌3:00 翌6:00
あきつ丸 23:30 翌4:30 翌6:10
  • :南海汽船
  • 青:共同汽船
  • 赤:関西汽船
  • 紫:宝海運
  • 橙:共正海運

実に5社もの海運会社が関西に向けて出帆していたのだった。
その中で、和歌山行きの南海汽船は、和歌山で電車に乗り換えるのでその分スピードが好評だったようである。
この1年前には、前エントリの勝浦毒ウイスキー事件の犯人である父親も20:20の南海汽船で高野山を目指していた。しかしここでは20:20発の船というのはない。

ともかくも、その日の17:30発に小松島を出版した南海汽船「南海丸」で・・・

翌1月27日朝の徳島新聞で、17:30小松島発の南海丸が18:30頃、「危険」の信号を残したまま行方不明になったことを報じている。
南海丸に関しては、複数の資料で「紀阿航路」と呼ばれているが、徳島県の新聞だけ「阿紀航路」と呼んでいる。その辺りの感覚は、早慶戦を慶應の学生が「慶早戦」と呼んでいるのにも通じるのではないだろうか。

南海丸の総トン数470トン、乗員28名、乗客124名であったという。
船齢はそれほど古くない・・・ というよりは2年前の昭和31年に建造したばかりの新鋭船である。ただ、「よく揺れる」ということは評判になっていたようであった。

小松島港には、遭難の報を受けた船客の家族が集まっていた。
最初は「全員無事」という知らせが入っていたようで「よかった、よかった」などと胸をなでおろしている。

左下に天気図があるが、ちょうど紀伊水道を前線が通過している形となっている。
事実、徳島地方気象台からは四国沖に海上気象警報、強風注意報が発表されていた。

徳島県内を出る他の航路は、鳴門~淡路島のフェリーが16:25の最終便が欠航、「阿摂航路」と呼ばれていた共同汽船のあきつ丸は普段通り23:30に出航していた。
この時間になると前線も通過し、波も低くなっていたのだろうか。あるいは内海に入る航路だけにそもそも波も低いという見立てだったのであろうか。
ともかくも、この時間には既に小松島の南海汽船営業所では南海丸の遭難信号を受信しており、それを知った上での出航ということは確かだったようである。

その日の夕刊では一転、南海丸の169名は全員絶望というニュースとなっている。

船体こそ発見されなかったが、南海丸のブイやオールが流されてきたことからそのように判断した、ということのようである。

南海汽船の親会社である南海電鉄も至急重役会議を開いている。

ちなみに、前年の南海ホークスは西鉄ライオンズに7.0ゲーム差を付けられパリーグ2位に終わっている。
投手成績は木村保21勝11敗、皆川睦雄18勝10敗、野母得見8勝10敗など。
ドラフト会議の無い時代でもあり、新人選手の獲得は各球団とも札束やらOBの義理人情が入り混じった仁義なき戦いであり、その年の焦点は「立教三羽烏」長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾をどこの球団が獲得するかであり、立教と言えば南海に大沢親分がおり、その伝手で長嶋と杉浦の獲得は確実視されていた。
結局、ふたを開けてみると長嶋は千葉県出身ということで長嶋家を押した巨人が獲得、杉浦だけが南海入団という運びになった。

話題を戻すと、これだけの大惨事に発展したので徳島新聞は1面のみならず2面でも大々的に報じている。

小松島港では桟橋のターミナルの外にテントを設け、小松島電報電話局が特設の窓口を設けている。
また、和歌山側でも和歌山港駅の電車を臨時に泊めて関係者待合所を急ごしらえした。

共同通信の専用機で空から取材する限りでは、翌27日も相変わらず風浪は激しいという状況だったようである。

下の広告を見ると、徳島で洋画専門館として知られたグランド劇場(後のOSグランド)では、ジョン・ウェイン主演で「ジェット・パイロット」が公開されていたようである。
映画としての評価はさほど高くないが、現在ではアメリカでは1950年代の航空情勢が分かる映画として歴史的興味を引いているのだという。

翌28日の新聞では、四国海運局徳島支局長により、この海難事故の分析が行われている。
この支局長自身、海運局の職に奉じて初めての大事故であるという。

曰く・・・

  • 南海丸は阿摂航路に比べて「よく揺れる」という評判は知っている。しかしそれは安定していないのではなくむしろ「安定しすぎている」ということ。起き上がりダルマがすぐに起き上がるのと同じように、少し揺れてもすぐ元に戻る力が強い、ということ。
  • 海の要因としては、紀伊水道という地形的に風と波を横から受けるという事情がある。このような航路は最悪。
  • 1月26日当日は、南東風で波が高く、途中で突然北西に風が変わった。このような時によく突風が起こるもの。これが沈没の原因ではないか。

記事の最後では「この事件に関しての監督不十分の責任は受けるつもりだが、海上では思いも付かない不可抗力な事件も起こるということだけはいいたい」と結んでいる。

同じ28日の社会面でもまだ南海丸関係の記事は大々的に続いている。

徳島側の遺族休憩所は、小松島市貿易会館前に設けられ、200人もの遺族が南海汽船本社常務に詰め寄り、その責任をなじったと報じられている。

南海汽船本社は和歌山市西蔵前丁(南海和歌山市駅あるいはその近く?)にあったようで、社長も取材を受けてただ平身低頭するばかり。

問:強風警報なのに船を出したのは軽率だったのでは?
答:船長はベテラン。あの程度の風浪であれば船を出したことは数多い。瞬間的な悪条件が重なったのではないか。
問:今後阿紀航路をどうする?
答:当分休航する。自社の船は遺体捜索に充当する。今後は親会社と検討して再開を図りたい。

また、船会社同士のサービス合戦も原因にあるのではないかという指摘もなされていた。

読売の徳島版もやはり話題は南海丸である。

知事までが小松島入りして、遺族の見舞いに訪れている。
公選知事としては3代目となる原菊太郎徳島県知事は終戦で自刃した陸軍大臣・阿南惟幾やキリスト教社会運動家・賀川豊彦も輩出した名門・徳島中学(現:城南高校)から盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に進学するものの中退し、木材商として名を成した人物で、外部資金の導入により県の財政を立て直したという手腕の持ち主でもあった。
そんな原知事も「最後まで望みを捨てないように・・・」というのが精一杯であった。

また、読売新聞は全国紙であるだけに小さな囲み記事には「27日付朝刊は阿摂航路欠航のため配達が遅れ、27日付夕刊は南海丸遭難のため特別に空輸した」旨の断り書きがある。
当時の読売新聞の輸送ルートとしては、朝刊が阿摂航路、夕刊が南海汽船けいゆうだったということであろうか。

読売新聞は、徳島版のみならず全国版(大阪本社版?)の社会面でも大々的に取り上げている。
写真は和歌山側の桟橋。ここから船を降りて電車に乗り換えていた・・・ ということらしい。
まだ、沈没したであろう南海丸の船体は発見されていない状態であった。

南海汽船では、安否を気遣う遺族のために、同社所属の「黒潮丸」という85トンの小船を家族船として差し向けることにしたと報じている。

また、遭難者の家族で協議会を設立する動きも報じられている。
捜査の動きに手ぬるさを感じており、徳島の漁民だけに「うちの漁船なら2時間で見つけられる」などと言うものもいたようである。

この日の別のニュースに目を移すと、東京都内では流感で学級閉鎖となった旨が報じられている。
「インフルエンザ」という呼ばれ方もしてはいたようだが、見出しでは簡潔に「流感」とするのが一般的だったようである。
今日、ネットのニュースで「流感」と検索しても、中国語のニュースが出るだけである。

徳島で深い悲しみに包まれているかと思えば、韓国に面した下関では、韓国に拿捕されていた漁民の釈放という事で喜びに包まれていたようである。
当時は日韓国交正常化前で、元首は徹底した反日家である李承晩政権であった。

そしてその日の徳島新聞夕刊で南海丸の沈没船体を発見した旨が報じられる。

また、遺体については沼島消防団の捜索船が女性の遺体を発見したものの解剖してみると死後10日が経過しており南海丸とは無関係と判明。しかし経常的に死体というのは浮いているものだと思う。
しかし、程なくして同じ場所で男性の5遺体が発見される。

衆議院運輸委員会でも、南海丸の事故は追及されることとなる。
政府委員として招致されたのは、運輸政務次官、海運局長、官房長、気象庁長官、海上保安庁長官らであった。
その議事録が以下となる。

新聞では衆議院とあるが、議事録では明らかに参議院である。この辺りは新聞のちょっとしたミスであろうか。
ともあれ、この議場では遭難原因はまだ明らかにされていない。

一方では、「李承晩ライン」を越えて抑留された日本人漁民の送還の喜びのニュースが控えめに報じられている。
その中には、徳島県人30名の名前もあった。

その後海難審判が行われ、2年後の昭和35年3月8日に結審するが、主文は、

本件遭難は、その発生原因が明らかでない。

として結ばれている。
船長を含め生存者がいなかったため、原因の追及のしようがない、という結果であった。

その後、南海フェリーは41年後の1999年、徳島側の出帆地点が小松島港から徳島港となる。小松島港から鉄道がなくなって14年後のことだった。

その60年後の今となっては「誰も知らない」沼島の沖合に、当時を偲ぶこととしたい。
今回のダークツーリズムは海の上である。

ところで、生名からのバスは15:01発で徳島駅には16:06着。
これでは、20分おきに出ている徳島市営バスで南海フェリーの桟橋へ行っても16:30のフェリー第7便には間に合いそうにはない。
そうすると18:55の第8便ということになるが、難波着が22:32となり、そこから梅田へ行くと、23:00発のドリームルリエ2号発車の6分前ということになってしまう。
これはかなり危険な賭けで、どこかで遅れが発生したら即アウトである。
どうにか16:30の第7便に間に合いたい・・・

ということで、南海フェリー桟橋に最も近い昭和町の津田橋でバスを降り、そこからタクシーで桟橋を目指すこととしたい。
まさに「時間を買う」。

タクシーでフェリーターミナルへは、ものの1080円で到着した。

フェリーターミナルへ入ると、美少女キャラが出迎えてくれる。
青い方が「阿波野まい」、緑の方が「高野きらら」というのだそうで、「和歌山徳島航路活性化協議会」という団体が企画したのだそうな。
あの南海丸事故の南海汽船も、今やアニメキャラを前面に押し出す時代となっている。
決死モデル:チームWBノノナナ

さすがは南海の系列会社だけあり、難波までの通しの切符を買うことができる。
そして2階の待合室へ。

明石海峡大橋の開通で船便は衰退したというものの、それでも1日8便はある。
南海丸事故の時は1日3便だけだった。

現在就航している船舶は「フェリーかつらぎ」「フェリーつるぎ」の2隻で、今回乗るのは和歌山側の葛城山から命名された「フェリーかつらぎ」。
ここにも「阿波野まい」「高野きらら」が大々的にあしらわれていた。
総トン数は2,571トンで南海丸の5倍以上となるが、それは容積という3次元の数なので、長さベースで行けば2倍もないということになる。
また、南海丸の定員は444名で、フェリーかつらぎは450名。この点はほとんど変わりはないのである。ただし、フェリーだけに車両を入れるスペースはあるのだが・・・

船内に入ると、昔ながらの客船同様、マス席があり売店がある。
決死モデルチームPウメコ

今時の南海汽船は、美少女キャラが宣伝しているのみならず、Wi-Fiがあり、なおかつ電源も整備されている。これはバスには無い魅力である。(まあプレミアムドリームなんかにはコンセントもWi-Fiもあるけど)

この旅は基本的にはダークツーリズムなので、不謹慎な目的なので、このことを「よかった」などと形容するのも忍びない気がするが、予定より1便早い16:30発に乗ることができたので、明るいうちに沼島沖合の現地に到達することはできるだろう。

そして、デッキに出て紀伊水道の風を浴びる。
左前方に沼島が見えてきたあたりで、まず手を合わせる。

現在は、昔よりも救難設備が充実しており、救命ボートへのシューターなども付いている。

そして、揺れが少ないあたりで撮影。

あとはマス席に戻って、スマホの充電でもしつつゴロゴロ寝るだけである。
だんだん、夜のとばりが降りてくる。
それでも徳島と和歌山の中間あたりは、携帯の電波状態もあまりよくないので、いよいよ寝るしかやることがない状態となってきた。

そして向こう側の灯が見えてきたら和歌山に到着である。
日本で最後の鉄道連絡船だけに、時刻は正確である。

和歌山側の待合室は、レストランまである立派な徳島側に比べて簡素なものであった。冬だったら隙間風でも入ってきそうな雰囲気である。
そして「同じ駅」と言う体は一応取っているが、駅への通路はやたら長い。
決死モデル:チームY宇崎

この簡素な雰囲気こそが「鉄道連絡船」としての情緒をいやが上にも盛り上げてくれる。
恐らくは深日港と同じで、南海の財政事情がやむを得ずそうさせているのかもしれない。

そして電車乗り場へ。
この和歌山港線自体、フェリー客以外はもう相手にしないとばかりに途中駅を廃止してしまっており、高野線の極楽橋のような簡素な乗換駅となっている。そこが良いんだけど。

電車乗り場では特急券は売っていない。サダンの指定席に乗りたいお客様はホームの中ほどへ、と案内されている。
かといって、特急券の自動券売機があるわけでもない。

難波から来たサダンの折り返し作業が一段落したところで、車掌から車内券を買うというシステムになっているようだった。
まあ現在では指定席予約もオンライン化してカレチ端末からでもアクセスできる現状で、1日何本も来ない特急のために券売機を維持するというのは合理的ではないのだろう。

ということで、旅の最後ぐらいはリッチにサダン座席指定だせきしていを取ることにしたい。

そして難波に到着。
決死モデル:チームPペギー

同じホームからは、各駅停車の泉佐野行きが出発しようとしていた。

さて、2時間早いサダンで大阪に到着したので、とりあえず何か食べる余裕もある。

そしたらとりあえず天王寺にでも行くか・・・
ということで、難波には来たもののいったん新今宮に戻って、大阪環状線で天王寺を目指すことにする。
どうせ環状線乗り換えを前提に新今宮に行くのであれば、高野線で行きたい。何故なら新今宮の4番線からJRの駅に直接乗り換えることができるからである。
ということで、準急の三日市町行きに乗って新今宮へ。

そして新今宮から環状線に乗って天王寺へ。
大阪に来るたびに寄るのが、あべのキューズモールにある「加寿屋」である。

ここは、かすうどんのチェーン店で、羽曳野などにも店舗を展開している。
最近でこそ「大阪のソウルフード」などと言われてもてはやされてはいるが、大阪でもかすうどんを扱っている店は少なく、大阪環状線の芦原橋や、近鉄南大阪線の矢田あたりが本場とされている。
これ以上のことは、上原義広著「被差別の食卓」で詳しい。

そもそも「かすうどん」とは、「油かす」(牛の腸からラードを取り出した残りかす。コラーゲンが豊富)を上に乗せたうどんである。
羽曳野市向野に本店があるこの店は、「かす大盛り」「かす特盛り」も可能となっているので、遠慮なく「かす特盛り」で頂くことに。

さて、かすうどん食って満足したら、あとは御堂筋線で梅田へ行くだけ。

梅田でしばしブログを編集するも、特にダークツーリズムの場合は、前提となる新聞記事の解説などもあり、かなり時間がかかることになる。
結局時間が足りずバスに乗ることに。

今回のバスは、「ドリームルリエ」という結構な高級バスであり、3列關も全てカーテンが掛かりプライバシーが保たれているが、前方には2列席(それもプレミアムドリームより高額)もあるという豪華さである。
決死モデル:チームRスマレ

この高級バスに乗って、あとは東京を目指すだけ・・・

 

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