春、早稲田通りからやってきた気違いの男

ちょっと用事があって高円寺まで行ってきたんだけど、ツイッターで「高円寺」とだけ検索するとバンドやら演劇やらの告知ばかりヒットする。
高円寺というのはそういうカルチャーの街なのね・・・

今回の「事件現場を歩く」は、この高円寺で変質者が起こした事件である。

今を去ること61年前となってしまった昭和32年の年度始まりから間もない4月5日の朝日新聞夕刊では、ある中学生の失踪事件が「誘拐」と断定されるに至ったことを報じている。

高円寺駅から早稲田通りを隔てて北の中野区大和町に住む中学生が、4月2日以降行方不明であり、脅迫状まで届いたというのである。

失踪当日の夜は友人と一緒に近所の銭湯へ行くと、三十年輩の男が「背中を流したい」という。
友人に対しては「昨日も流してもらったんだけど、あの人に誘拐されるかもしれない。顔を覚えておいて」と頼んでいた。
昨日はその男に「明日もこの銭湯に来いよ」と言われていたのだという。
果たして、彼の予感は的中することになる。

ただし、この点では大々的に報道されているわけではない。
最も紙面を割いているのは、全講連汚職の方である。
そもそも「全講連」とは何か。コトバンクによれば、

《「全国購買農業協同組合連合会」の略称》大正12年(1923)創立、昭和23年(1948)再発足。農業協同組合の購買部門の全国的組織。同47年に全販連と合併して全農となる。 

・・・とのことで、Aコープの前身とみればいいのだろうか。
そのような組織が、農林省に贈賄したり、帳簿をごまかして組織の金で宴会をしたりしていたのだという。

さて、件の中学生はどうなったのか。

結論を言うと殺されていたのである。
その死体は、同じ中野区でも東中野の日本棋院7段のプロ囲碁棋士の自宅の床下から、バラバラにされて金魚鉢にホルマリン漬けにされていたという恐ろしい状態で発見されることとなった。
その家の28歳になる息子は、数日前から南多摩郡多摩村の精神病院に入院していたのである。

その精神病院の医師が4月9日になって、血相を変えてその囲碁棋士の家まで飛んできた。
今ほど自家用車が発達していない当時であれば、京王線の聖蹟桜ヶ丘から緑色の京王線の電車に乗って新宿まで出て、72系で運行されていた中央線の普通電車に乗って東中野までやってきたであろうか。
「最近入院したおたくの息子さんが・・・ 子供を殺して埋めたって言うんです!」
「え!?」
慌てて息子の部屋の畳を上げて床下を調べると、中学生ぐらいの男の子がバラバラになって数個の金魚鉢の中に入っているではないか・・・!
それは、かねて高円寺の銭湯で行方不明になっていた中学生と分かるのに時間はかからなかった。
見出しには「気違いの青年を逮捕」と直截的なタイトルが踊っている。

この日はまた、センバツ高校野球で優勝した早稲田実業ナインが東京に凱旋してきたことも報じている。
その早稲田実業のエースは誰あろう、後に世界のホームラン王となる王貞治その人であった。
中華民国籍であった彼は実に「気違い」という言葉が大新聞にまで無遠慮に使われていた時代に高校生活を過ごしていたのであった。

当然、世間は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
今こんな事件が発生したら、ネットでは「糖質のホモショタが中学生をバラバラにして殺した」とでも言われるだろうか。

翌10日の朝日新聞ではすでに、犯人の日記帳が発見されていることが報じられている。
それは、事件の3年前である昭和29年から付けられ、大学ノート7冊にも及ぶものであったという。
4月1日には銭湯で被害者となる中学生を見つけたこと、翌2日にはその中学生を自宅まで連れてきて、本を読んでいる所を後ろから鉈で一撃して殺したこと、被害者の親に送った脅迫状、翌3日には渋谷で金魚鉢や水槽を買ったことが克明に記されていた。
殺人は、2日に銭湯からその中学生を連れて帰り、両親に「風呂に行って来いよ」と追い出すように銭湯へ送り出している間に行い、その後の夜間を利用してバラバラにする作業を行っていたようであった。
これをホルマリンと共に水槽や金魚鉢に入れ、パテで蓋をして完全な防腐処理を行い、隠れて嬉しそうに見ていたようである。
しかしそれも数日間のこと。
よほど嬉しかったのか、あらぬ事を口走るようになり、聖蹟桜ヶ丘にある精神病院に連れていかれ、何度目かの入院をさせられる身となったのである。

「ホモショタ」としては、殺人はしないまでもこの事件が初めてではなかったようで、それまでに以下のような奇矯な事件を起こしていた。

  • 近所の男の子を抱きしめる。
  • 銭湯やそろばん塾で男の子に近づき家に連れて帰って奇妙な可愛がり方をする。
  • 20匹近い猫を飼って極度に可愛がる。

この様な男だったので、普段から近所では「あの人に近づかないように」と言われている矢先のことであった。

同じ日の毎日新聞でも犯人の日記ノートの存在について報じているが、描写は先述の朝日新聞のそれより事細かで、読んでいるとだんだんこちらの具合が悪くなってくるようなおぞましい記述が続く。
少年を連れて帰ってきていること、部屋の床に血が付いていることにも両親は気づいていたようである。
そもそも、近所からは「あの家の息子には近づくな」と後ろ指をさされている息子であったが、あまりに凶暴で両親も恐ろしくて手が付けられなかったのだという。
ひきこもりになった子供が両親に対しては凶暴化して手が付けられなくなる・・・これは現在でも共通する構図を感じる。

また、それと共にこの事件を契機として精神医療の貧困を世に問うている。
昭和29年の厚生省の調査で、強制入院が必要な精神病者が30万人いるが、入院施設は5万床しかない、つまり残りの6分の5である25万人は野放しになっているというのである。

当時、日本は「先進国」とはみられていなかったであろうが、欧米の主要先進国と比較してもベッドの床数は極端に少ない状態であった報じられている。
厚生省としても「15万床あれば」と言っているところ、それよりもまだ少ない5万床しかないという状態であった。

さて、この事件の判決であるが、事件発生から1年半近く後の翌昭和33年7月に東京地裁で出ている。
曰く「懲役10年」。

精神病院に何回も出入りしているほどの「気違い」であり、心神喪失による不起訴も争点にあったが、事件発生当初に被害者宅に脅迫状を送っているのである。
この事が決め手となり、不起訴とはならず精神鑑定は正常であるとして判決が下された形となった。

奇しくも、前掲の昭和32年4月10日毎日新聞で「精神病者25万野放し」が報じられていたのに対し、こちらの昭和33年7月17日の紙面では「殺人犯盛り場に野放し」という記事が掲載されており、愚連隊の親分の顔写真まで遠慮なく掲載されている。
今こんなことをやると、記者の家に鉄砲玉が飛んで行き妻子もろとも血祭りにあげられるのではないだろうか。
良きにつけ悪しきにつけ、昔は「忖度」なく報道する時代だったようである。

さて、今日の決死散歩は、事件の始まりである銭湯から始めてみたいと思う。

事件の始まりとなった銭湯は、実に2008年まで営業していたのだという。
在りし日の同銭湯は、このページに詳しく載っている。
決モチームR園田

現在でもコインランドリーだけは行っているようであるが、実はこの銭湯には一度入りに行ったことがある。
何のことは無いごく普通の銭湯であったが、周囲には被害者の中学生と同年代であったと思しき中高年が汗を流していた。例の事件もおそらくは知っているのではないだろうかと思われた。

家の風呂の普及率も高くなく、銭湯の需要が今よりも高かったであろう当時、この高円寺から国電にして2駅離れた東中野まで全く銭湯が無かったとは到底考えにくい。
2018年となった現在でも、この界隈をGoogleマップで検索すれば銭湯は数か所ヒットする。
近所の銭湯に行こうにも、近所では「あの男に気を付けろ」と言われていたことを自覚していないわけではなかったであろう。
被害にあった中学生は「あの人は昨日も来た」と友人に言っていたとのことであるが、それは周辺の風呂屋という風呂屋で美少年探しをして変質者扱いされた挙句、早稲田通りを通ってたどり着いた所だったということなのだろうか。
現在の早稲田通りは、関東バスがひっきりなしに通る往来の多い通りである。

先日、切断ヴィーナスのショーを行った中野の特設会場もまた、この早稲田通りから遠くない場所にあった。

さて、事件が発覚した東中野の「もう一つの現場」はどこであっただろうか。
現在は地番改正で当時の住所は無い。
それでも、「昭和毎日」で調べる限りでは、たぶんのあたりじゃないかな・・・と言ったあたりを。(間違ってたらかなり迷惑)
決モトルソーさんファラキャ

それにしても、中野区は立憲民主党や共産党のポスターがやたらと多く、区役所の掲示にも「憲法が生きる街づくり」と書いてある。
よほどの革新の地盤であるようであった。

 

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