【義手と義足の昭和史】交通戦争の時代へ(S35.12.12)

義手と義足の昭和史」もしばらく間が開いていたが、再開することとしたい。
今回は昭和30年代半ばの新聞記事より。

戦後10年以上が経過し、高度経済成長に差し掛からんとしていた時期・・・

自動車の増加と共に、交通事故も激増している時期であり、昭和35年の流行語に「交通戦争」が挙げられたと言う程であった。

Wikipedia「交通戦争」によれば、この10年後の昭和45年まで死者は増え続けたものの、

交通弱者である歩行者を交通事故から守るため、歩道やガードレール、横断歩道橋の整備を積極的に行ってきたことや、交通違反者に対する罰則強化、交通安全運動を推進したことが成果として現れ、1979年(昭和54年)には死者8,048人とピーク時の半分にまで減少した[1]

・・・のだという。

厚生労働省にでも出向けば、年別の手足の切断理由の統計は出ているのだろうか。

ともあれ、新聞記事で見る限りでは、戦後すぐの「戦傷」から、「交通事故」に、義肢処方のメジャーな理由は移り変わったことを示唆する記事がある。

昭和35年(1960年)12月12日の読売新聞には、世田谷区のパン屋さんの17歳の看板娘が仕事中の交通事故で片脚を失うが、健気に頑張っていることを囲み記事で報じている。

実名はおろか実住所が番地まで書いてあるというあたりに、当時のプライバシーというものに対するものの考えが分かる。
(とはいえ、昭和50年代に発行された本でも、漫画家やプロ野球選手の住所まで書いていた。これでファンが押し掛けてきたらどうするんだろうと思ったものだったが・・・)

そう思うなら、こうしてブログに載せんじゃねえよ、という気もしなくはないが、現在の住居表示はすっかり変わってしまっているのでご容赦願いたい(無理?)

小田急バスに轢かれたとのことであるが、現在でもこの辺りには、小田急バスの渋54系統(渋谷駅~経堂駅)が走っている。
この当時であればボンネットバスだったであろうか。

また、この面のトップに目を移すと「一周年迎える北朝鮮帰還」という見出しが躍っている。

戦後の在日コリアン史を語る上で、多くの人が痛恨の念をもって語るこの「在日朝鮮人の帰還事業」であるが、その機運は昭和30年頃から勃興していたようであり、それなりの数の朝鮮人が朝鮮半島への帰還を希望していた。
また、今以上の差別と貧困に喘いでおり、現在でもネトウヨを中心に話題となっているように犯罪率や生活保護率は日本人に比べ格段に高かった。そんな彼らにとって「帰国」とはまごうかたなき「希望」だったはずである。
また、日本政府にとっても、犯罪や暴動といった社会不安の原因となるコリアンが帰ってくれるなら、それは願ったり叶ったりということではなかったであろうか。
しかし、その当時の日本は北朝鮮と国交は無かった(それどころか韓国とも国交がなかった。韓国の国交は昭和40年の「日韓基本条約」から)。
それで両国の赤十字社が中心となって帰還事業を進めていくこととなり、昭和34年8月13日、インドのカルカッタで「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)が締結されることになる。

果たして、この記事のちょうど1年前となる昭和34年12月10日、東京から「労働者の地上の楽園」北朝鮮へ帰還する朝鮮人を乗せた新潟行きの列車が品川駅を出発した。

それから1年、北朝鮮への帰還事業はどうだったかを検証しているのがこの記事である。

帰還事業自体は、昭和59年(1984年)まで続くことになるのだが、開始から1年で早速希望者や意志変更者が出始めていることが報じられている。
それは、帰国者の北朝鮮からの手紙により、生活が苦しいということが伝えられたということが大きいようだった。

韓国側にしてみれば、新潟日赤センターの爆破を図るほど北朝鮮の帰国事業を反対する立場でもあり、そのような帰国者の窮状を切に訴える手紙を在日コリアンの間に大いに回覧し、プロパガンダに使ったようである。

朝鮮半島が、今以上に「政治的にややこしい」時代の話であった。

・・・ところで、Wikipediaの記事にあった新潟日赤センター爆破未遂事件の記事(S34.12.5朝日)を見てみると、実行犯の住所が、本エントリのヒロインである、右足を失ったパン屋の看板娘と丁目レベルまで一緒なのである。

世間って狭いね。。。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です