イヤの坂

昔の東京には、すぐにそれと分かる貧民窟があった。

昭和5年4月、ここで陰惨な貰い子殺し事件が発覚する。

警視庁史(第3)昭和前編では以下のように記述されている。

その昔は通称「岩の坂」といわれ、遠く江戸時代から続いた非人乞食の部落だった。そこへ関東大震災で、焼け出された貧民が流れ込み、荒れ果てた木賃宿やあばら長屋に、遊芸人、念仏行者、貰い乞食、よいとまけ人夫、便所掃除屋、屑屋、行商人など、百世帯二千人が住んでいて、一日一人三銭で生活できる残飯を、常食としていた極貧部落であった。
そしてこの地域の特徴は、子供の数が多いことと、幼児の死亡率の高いことであったが、一般社会から隔絶された地帯のこととて、外部との交際はほとんどなく、一般市民からは特殊な存在として放置されていた。
ところがこの日陰の街岩の坂に、市民の視聴を集中させる事件が起こった。
(中略)
ところが死体は、鼻口の周りに指跡の班痕らしいものがあり、柔かな乳房で圧したものとしては疑問がある。それにきくの態度はきわめて冷たんで、あやまって実子を死に至らしめた、母親の態度としては納得しがたいものがあった。
けい眼な係員は、これを見のがさなかった。死因に疑いありとして死体は帝大で解剖に付された。執刀した宮永博士は「掌で鼻口をふさいだための窒息死」と判定した。かねてから岩の坂の幼児多死に疑いを抱き、これが糾明の機会をねらっていた原田誠治板橋警察署長は、徹底的糾明を命じて厳重な追及を行なわせた。
(中略)
ここにおいてさらに捜査を進めた結果、次のような暗たんたる集団的貰い子殺しの全貌が明らかになった。

この「警視庁史 昭和前編」自体、昭和37年に出版されたものであり、「岩手の重要犯罪」同様、時代相として人権への配慮を求める方が野暮というものかもしれないが、それにしてもひどい書きぶりである。

ただ、この岩の坂で生まれ育った著者による「ふるさとは貧民窟なりき」によれば、「都市の周縁部には必然的に貧民窟が発生する。その当時は岩の坂がそれに該当したというだけで、都市の拡大によって貧民窟は移動することになる」という趣旨の事が書かれている。

兎も角も、当時の岩の坂が陰惨な貧民窟であったといって、現在の岩の坂は全くそうではないということだけは、ここにおいて前提として捉えておきたい。

現在の「岩の坂」は、中山道(国道17号線)の真下を走る都営三田線の板橋本町駅を降りて、旧中山道に入った所にある。
今回の決死モデルは子殺し事件だけに人間のメンに出てもらうのは申し訳ないので、アンドロイドであるファラキャトルソーさん)に出てもらうこととする。

国道17号線は、東京と新潟を結ぶ国道である。

ちなみに、駅は岩の坂を坂上側にあり、岩の坂を下る方向に歩くことになる。

ところで、気になったのは、駅からずっと自分の前をショーパン姿の女性が歩いていることである。
これじゃまるで当方がそのショーパン女性を追い回しているみたいじゃないか。
まさか彼女も岩の坂へ・・・?

岩の坂を下り切った所には「縁切り榎」という榎があり、それが神社に祀られている。

この榎は、男女の悪縁やアルコール依存症を断ち切りたいときにお参りする所なのだそうな。

件のショーパン女性もこの祠に入っていった。
ストーカーか何か分からないが、よほど断ち切りたい縁があったのだろう。

さて、岩の坂自体は現在は普通の商店街であり、地方都市のシャッター街と化した商店街よりはよほど活気がある。

坂下側から岩の坂を望むと、こんな感じになる。

 

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