本州には梅雨前線が横たわっているが、小笠原諸島は全く高気圧に覆われている。
また、波も非常に穏やかであるようだ。
船が座礁でもしない限りは、全く安心な航海だ。
おがさわら丸の船底のマス席で目が覚めたら5時台だった。
周りの席では、もうデッキに出ている人もいる。
こちらは、普段の睡眠不足を補う機会でもあるが、既に南硫黄島には近づいているのだという。
では、乃公も行ってみることにしよう。
7階の展望ラウンジからデッキに出ると、雄大な南硫黄島はすぐ近づいていた。
山の標高は913メートルで、実は八丈富士よりも高く、東京の島嶼で1番高い山なのだという。
こうした決死撮影の時、強い日差しは、前髪が庇すなど障害になるのだが、ちょうど屋根の影になって、うまいこと決死できた。
ここは、硫黄島や北硫黄島と違って、1度も有人島になった事はなく、手付かずの自然の宝庫であり、特別に保護されているのだという。
そして、その南硫黄島の学術調査に行った人による解説がアナウンスされる。
しかし、このような海食崖ばかりの島では、歩くのも命がけだっただろう。
おがさわら丸は、この南硫黄島を2周して北え向かう。
さて、こちらは朝食にすることにしよう。
持参した朝食の1食目、非常食のわかめご飯・ツナ缶・スープ。
そして、iPadの「本日休診 我が西鉄ライオンズ」を読むが、充電コードを持ってこなかったのは失敗だった。
そして、8時を過ぎると、多くの人が船の右舷に歩いていく。
硫黄島は右回りで回ると言う。
右舷デッキに出ると、すでに平坦な硫黄島が近くに見えており、摺鉢山も見えている。
船が摺鉢山を過ぎる8時40分ごろから、小笠原村による洋上慰霊祭が始まる。
小笠原村の教育長、硫黄島協会の会長、小笠原中学校の中学生たちが集まる。
硫黄島は、第二次世界大戦で初めて日本で陸上戦闘が行われたところである。
当時、1000人以上の村民がいたといわれるが、100人以上が軍属として島に残された。
その残された村人も、ほとんどが死んだのだと言う。
それで、小笠原村長の挨拶代読、硫黄島協会長の挨拶、中学生の挨拶など厳粛にとり行われる。
そのうち、海岸に朽ち果てた船が見えてくる。
実は、これは戦時中の船ではなく、戦後に米軍が占領したときに、何かの工事を行う時に沈めたコンクリート船なのだという。
沈めたはずの船が、このように海岸に上がっているというのは、硫黄島自体が、火山活動で隆起を続けており、ついには父島の面積を抜き去ったのだという。
そんな硫黄島に「帰りたい」という住民の気運はあったようなのだが、昭和59年には「産業が発達する見込みなく、帰還して定住できる見込みは無い」という結論が出されている。
それで、現在では自衛隊だけが駐留している島となっている。
今でも、島では湯気を噴き上げているところがある。
まるで青ヶ島だ。
そんな硫黄島では、現在でも遺骨収集団が上陸しているが、亡くなった人の半分も収集されておらず、手紙も見つかるのだと言う。
ところで、硫黄島を右回りに回って後半に差し掛かった東側を通ったあたりで、iPhoneの電波が4本も立っている。
向こうには自衛隊のレーダーなどが立っている。
アナウンスでは「自衛隊施設はSNS等に投稿しないようにお願いします」なんて言っている。
ここで、これまで撮った写真をGoogleフォトにバックアップしてしまうことにしよう。
しかし、石垣島と同じ緯度の硫黄島の直射日光の下でのiPhoneはすぐに過熱で止まってしまった。
デッキの別のところからは、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。
いや、鳴き声などと言う生易しいものではなく、もう一段上の「非常呼集」というレベルである。
なるほど、厳粛な慰霊の場も、赤ちゃんにとっては「単なる暑い場所」であろう。
何しろiPadが過熱で止まるほどなのだ。
そして、スタッフが1本ずつ花を持ってくる。
もう一回摺鉢山のところを通ったところで、花を捧げて黙祷ということになった。
後はまた、北硫黄島を目指して北進して行くばかりだ。
その間、また7階の展望ラウンジで読書でもしていることにする。
「本日休診 我が西鉄ライオンズ」なのだが、これは昭和39年の新聞連載をその25年後の平成元年に刊行したものである。
福岡市内の産婦人科の先生が書いたものであると言うが、令和の基準で言うと、フェミニストに怒られるような表現が満載である。
当時の女性たちは、このような決めつけや偏見も笑って受け流さなければいけなかったのである。
北硫黄島への到着は11時55分ごろであると言ってあと30分ぐらいあるので、少し寝ていることにする。
大体、11時40分ぐらいになると、乃公が座っていた右舷の並びには誰もいなくなっている。
つまり、北硫黄島が近づいたと言うことになる。
デッキに出てみると、10時の歩行に確かに島影が見える。
肖像権なんか糞食らえで他のお客さんも巻き込んでバシバシ撮っていく。
北硫黄島は、切り立った海食崖で本当に有人島だったことがあるのだろうかと言うほどの島である。
なんでも、戦争の頃までは、この本当に狭い海岸に西村と東村があり、小学校は東村のほうにあったのだという。
そして、西村の子供たちは、非常に狭い波打ち際を通って学校に通っていたのだという。
海が時化ている時は、なんとこの山を登って学校に通ったのだという。
そこまでして、一体どんな産業で暮らしていたと言うのか。
そのような、人が住むのに適しているとは思えないような島でも、外来のクマネズミの大発生で絶滅した植物もあるのだという。
しかし、現在でもカツオドリやアカオネッタイチョウなどが繁殖しており、船からも見ることができた。
この北硫黄島も左回りで2周したら離れていく。
後はもうやることもない。
16時過ぎに母島の東側を通ると言うので、それまで寝ていることにしよう。
それで、船底のマス部屋に戻る。
iPhoneやカメラは充電することにする。
そういえば、ボーナスも入ったので、カメラは新しいのを買うことにしたい。
ところで、15時半過ぎに、小腹も空いたので4階に上がってあんパンでも食べることにする。
そして、食堂の近くでやっていた硫黄島関係のパネル展示を見ることにする。
これがまた馬鹿にしたものではなくて、有人島だった頃の生活の様子とかが展示されている。
また、独特な植生についての解説もあった。
そしてまたマス席に戻って、iPhoneにPDFで保存している佐藤栄作日記の続きを読む。
こういったものは、この当時の政界の動きに興味のある人だったら面白く読めるのだろうが、補助資料もなく、ただ日記だけ読んでいると、何が何だかさっぱりわからない。
16時半ぐらいになると、この船底のマス席にもiPhoneの電波が1本立ち始めた。
つまり、母島に近づいていると言うことなんだろう。
ちょっと7階のデッキに登ってみよう。
左舷前方には、すでに明確に島影が見えている。
アナウンスによれば、あれは母島ではなく、姉島と妹島なのだと言う。
しかし、奥に見えているのが母島の乳房山であると言う。
いよいよ、父島に到着するまであと1時間半となった。
18時ごろ、一夜を共にした216号室1番のマスを後にする。
後は、電波が通りやすい4階のロビーで麦茶でも飲みながらブログでもつけていよう。
しかし、iPhoneの電波は4本も立っているのに、やたらネットが重いのはどういうことだろうか。
立っている本数が多いのと、快適にインターネットができるという事は違うことだということなんだろうか。
最初に降りるのは、小笠原中学校と母島中学校の中学生であると言う。
そのうちに、「一般のお客さんも降りていいですよ」と言うことになった。
そして、ぞろぞろと降りていくと、各民宿のボードを出してお出迎え。
この辺は、普通のおがさわら丸の入港と変わりがない。
それと、校長先生が中学生たちに訓示している。
「これまで、母島までが小笠原村だと思っていた人たちはいませんか?
本当は、南硫黄島まである日本一大きい村なのです」
表通りを歩くと、飲食店は何軒か営業している。
ただし、生協も小祝商店も閉まっている。
そして帰宅すると、案の定アマゾンの荷物がたくさん届いていた。
曰く、カメラ充電用コード、クーラーダクト用防虫キャップ、箒、ちりとり、ゴミ拾い用トング、しょっつる、乾燥しいたけ1kg、非常食のわかめご飯50食、ツナ缶30個、こんにゃくプリン。
ダンボールはもはや台所の半分以上を占拠する勢いだ。
ところで、間宮の中の中の人なのだが、芸能界を引退したと思ったら今年の3月に1回だけグラビアに出ていたらしい。
ただ、ボディメイクは全然できてないようで、とてもグラビアに出るという感じではなく、さながらOB戦、いやOG戦か。
それもそのはずで、現在は2児の母をしつつ、自動車リース店で事務員として働いているのだという。
芸能人と結婚するくらいなら、どこかの社長とかそんなのかと思ったら、そんなことはなく、「ゲームアプリで知り合った人」なのだという。
しかし事務員までしつつ露命を凌がないといけないというのは、よほど普通かそれ以下の収入の人と結婚したということだろうか。
それはともかく、ささみ肉を解凍して鍋の準備をして食べる。
YouTubeのライブニュースでは、山口県で線状降水帯が発生して美祢線の鉄橋が崩落したと。
もう美祢線はダメか・・・
その後副産物ブログをつける。
エアソファーでチルしていたらまた空気が抜けた。最近こういうことが多い。
またアマゾンで買うことにする。
その後風呂に入ることにする。
風呂の中でブラウザゲームをやるが、まぁそれなりの結果に終わった。
ここまでの決死出演は6名(累計13名)。