小笠原諸島には前線がかかろうとしている。
ただし今日は晴れか曇りで推移するようだ。
最高気温は25℃になるという。
起きたのは5時台。
それもそのはず昨日は風呂から上がってすぐに寝てしまった。
起きて何をやるかと言うと、まずはブラウザゲーム。
もうクラスダウンする事は確定である。
まぁこういうこともあるだろう。
そして、スーツを洗濯する。
島流しにあたり、丸洗い可能なスーツを買ってきたのだ。
しかし、何もやる気にならない。
やろうと思っても、やることがないのだ。
そういえば、髪も伸びてきたので、切りたいところだ。
と言うことで、島に2軒しかない床屋のうち1軒に電話をかけてみる。
そうすると「怪我したのでやってない」と言う。
それは大変。
結局、もう1軒にかけてみることにする。
そしたら、「1番早くて23日」と言う。
もう2週間以上先だ。こんなことだとわかっているんだったら、東京で髪を切ってくればよかった。
23日になったら、髪を分けれる程どころか、結べるほどになっているんじゃないだろうか。
ともかくも、この休日を無駄に過ごすと言うのも損なので、外に出ることにしよう。
この父島は、東京までは直線距離で979キロ、グアムまでは1538キロなのだと言う。
昭和43年までアメリカに占領されていた頃は、何をやるにもグアムに行っていたのだと言う。それも、月に2回位しか来ない米軍の飛行艇で往復していたのだと言う。
1番近い母島まででも59キロだと言う。
もはや「絶海の孤島」。
バス停を見ると、11時のバスがあると言う。
あと30分以上ある。
ちょっと港のほうに行ってみようか。
港には全く船が入っていない。
予定であれば今日の11時、つまりここからバスが出るのと同じ時刻におが丸が竹芝を出発するはずなのだ。
全く船のいない二見港は閑散としている。
ちょっと、バスに乗って旅でもすることにしようか。
役場前のバス停から、11時の小笠原村営バスに乗ることにする。
車両はポンチョ。
客は乃公一人かと思ったら、生協前のバス停で5人ぐらい乗ってきた。
1人は地元とおぼしき老人、4人は親子連れだった。
船が出ている間に、親子連れでバスで海岸に行こうとしていると言う事は、2航海ブッコ抜いてでも親子共々休める、気合の入った家族か、あるいは小笠原への赴任者で車を持ってこなかった家族といったところだろうか。
しかし、右手に見る海岸は非常に美しい。
そして、海岸から少し離れて内陸に入り、地元の客を降ろしていく。
そして、そこからもう少し行くと、タコノキの林の中に小港海岸のバス停があった。
「小港海岸」とは言っても、別にこのバス停から海岸が見えるわけではない。
タコノキの生い茂る、林を分け入った先に海岸があるようだ。
また、ここが東京都最南端のバス停であると言う。
しかし、海岸に行く道であると言う以外は、本当に何もないので、すぐに折り返すことにする。
そしてまた、左手の美しい海岸美を見ながらバスに揺られることにする。
そして、奥村で降りることにする。
奥村と言うのは、二見腕の向こうにあるちょっとした集落である。
村で2つしかない床屋の2件ともこの辺にある。
また、発電所やオイルタンクなど、ちょっとした産業地帯ともなっているようだ。
向こうには農協のスーパーがあるのだが、全く営業していないようだ。
昼食できるところがあるわけでもなく、ここにいる意味は無いので、大村に向かって歩くことにしよう。
果たして、大村に戻ってきたが、就職できるところがなかなかない。
あったとしても弁当販売だけ。
コロナでこんなことになってしまったのだろうか。
いや、船が出ている間なので、観光客がいないので、こういう風になっているのかもしれない。
ともかくも、中華料理店でマーボー定食。
昼食を食べたからといって、特段何をするわけでもない。
港の近くの四阿で、ぼんやりと過ごすだけだ。
そうしていると、何かのエンジン音が近づいてくる。
見てみると、共勝丸だ。
共勝丸は東京と小笠原を結ぶ貨物船で、建築資材や廃棄物はこれで運ぶことになる。
職場の伍長に言わせると「共勝は車も運べるんですけど扱いが荒いので、車が傷ついたりするんですよね」と言う。
ともかくも、おがさわら丸より運行頻度は低いので、ある意味「レアキャラ」と言うことになる。
それはそうと、またやることがなくなってしまった。
そうなったら、帰宅することにしよう。
時間にしてまだ15時前。
生協でおかきを1袋買ってきたが、それを全て食べてしまった。
910キロカロリーだと言う。間食にしてはあまりにも食べ過ぎだ。
さしあたって、部屋の片付けをしよう。
片付けの本質とは、「何がどこにあるかきちんとする」と言うことのはずだ。
何だったらどこにある、ということがきちんと定まっているということ。
今日は、文房具について片付けることにした。
案の定、図書券とかクオカードみたいな金券類がカバンの底に散らばっている。
こういうのがいけないのだ。
と言うことで、こういった金券類は、6月の初めに東京に行く時に売ることにしたい。
そして今度は、ブラウザゲームの今週のまとめ。
いずれにしろ、クラスダウンは確定的なので、それに向けてパーティーを組みなおすことにする。
そして夕食は例によって非常食のわかめご飯とキャベツとトマトスープとツナ缶。
特にツナ缶は、枯渇が心配されるので、食べるかどうか迷ったが、すでにわかめご飯の風を切ってしまっているので、そのまま食べることにする。
さて、今日は父島に行ったら行こうと思っていた「ヤンキータウン」と言うバーに行こうと思う。
ここは、小笠原の欧米系の人がやっているのだと言う。
しかし、いかんせん奥村と言う離れたところにあるのがネックだ。
それでも、一度は行ってみることにしよう。
メインストリートは1部の店はやっているが、すでにどこの店も閉まっている。
怖いほど静かな夜だ。
港の近くの体育館では、太鼓の練習をしているようだ。
そして、奥村までの暗い道を歩いていく。
果たして、「ヤンキータウン」は、薄暗い明かりを灯していた。
マスターは、のんきにテレビを見ていたが、客であるこちらに気づくと、カウンターに行った。
ところで、そのテレビというのが全部英語なのである。
最近の中台情勢についてのニュースであったが、欧米系、住民であるマスターにとって、ネイティブランゲージは英語のようであった。
「あっさりしたほうがいい?甘いほうがいい?」と聞くので、あっさりしたの頼むことにする。
そうしたところ、「ゾンビ」というのが出てきた。レシピは不明。
会話してみると、英語の発音は「レイディオ」などネイティブに近い。
こちらも、話す時は、日本語より英語の方が通りが良かったりする。
それで「僕も東京のHeadquarterにいた時はbossに『Formar headも小笠原行ったことない人だったじゃないですか。僕も行かせてくださいよ』とお願いしたのだ」と、英語を使える所は使うようにした。
なるほど、このようにして小笠原方言が成立したのか。
また、マスターは米陸軍で東西冷戦の頃のドイツに派遣されていたのだと言う。
「ドイツにいた頃は、Beerばかり飲んでいたよ」と言う。
また、ベルリンの壁の看板も飾ってあった。
なるほど、英語・ロシア語・フランス語・ドイツ語で書いてある。当時の緊迫感が伝わってくるようだ。
そうして2杯目は、ラム酒とパイナップルジュースの「Bonin Blue」。
そして、それを飲み終わったところで帰ることにする。
また、暗い夜道を30分ぐらい歩く。
中心街に来たところで、「グァバうどん」という看板が出ていたので、入ってみることにする。
〆めに食べてみようか。
そう思ったが、亀煮もあると言うので、こちらを頼んでみることにする。
亀煮は、牛スジのような味がした。
よく「癖が無くて食べやすい」といわれるが、ある程度はクセがあるような気がする。それで胡椒も付けられているのだ。
そして帰ろうと思ったら、雨が降り出した。
さっさと帰ることにしよう。
そしてまた、風呂にも入らずに滅入ってしまう。
今日の決死出演は8名(累計22名)。