【義手と義足の昭和史】Made in Occupied Japanの頃(S27.4.14)

ここ最近、モバイルバッテリーの爆発による火災が相次いでいる。
ドール撮影の方が、どこのメーカーとも知れぬ安物のバッテリー(20000mAhで1500円)を使っていて火災になったのだという。

また、旧横浜繭検定所の歴史的建築として知られる横浜第二合同庁舎もまたモバイルバッテリーの充電で火事になったのだという。

モバイルバッテリーの怖さをまざまざと見せつけられる思いである。

かつては「made in Japan」が安物の代名詞として扱われた時期があった。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも、以下のようなくだりがある。

(1955年のドク)「ここには『メイド・イン・ジャパン』とあるぜ。そりゃ壊れるわけだ」
(1990年のマーティ)「どういうこと?良い物はみんな日本製だけど?」

戦後の焼け野原から独立を果たし、高度経済成長期を経て「Made in Japan」という国際的信頼を勝ち得た先人に思いを致す時、深い感涙を禁じ得ない。

それと同時に、つい最近の経団連会長が、「日本の給与水準はOECD加盟国の中でも下位にある」と、さも他人事のように言ってのけたことに対し、深い嘆息を禁じ得ない。
そもそも、日本の労働者が大人しすぎるのだ。
なぜ今野労働者は、経営者に忖度しすぎるのか…

いや、まあそんなことはともかく、今回は「メイド・イン・ジャパン」が粗悪品の代名詞だった頃の義足の話」。
というか講和前なので、まだ「Made in Occupied Japan」の頃である。

昭和27年4月14日の読売新聞の社会面は、まだまだ戦争の後始末が続いていた。

フィリピンのアルテミオ・リカルデ将軍は、明治の末の米比戦争で日本に亡命してきた。
そして日露戦争でロシアに勝った日本の軍事力を頼みに「いつの日かアメリカからの独立を果たす」と日本に亡命し横浜で耐乏生活を送りながらその日を待っていた。
しかしその行動は、フィリピンの国民には裏切りに映った。
その真意を日本軍の将官がフィリピンの国民に説明、という内容がトップに来ている。

そうかと思えば南武線の西国立駅では、背広姿の男が留置してあるED34型機関車を勝手に動かしてあわや衝突というインシデントがあった。
昭和24年の下山事件や三鷹事件の記憶も生々しい時期である。
国鉄当局がかなりきもを潰したであろうことは想像に難くない。

では、肝心の義手や義足に関する記事は?
それは左側四段目に小さく書いてある。

身体障害者福祉法の施行により、全国27万人にわたるという障害者に義手や義足が行き渡るようになった。
しかしその2割までが不良品だったというのである。

結局それが「Made in Occupied Japan」の品質だった、ということなのだろう。

まだまだ義肢装具士などどいう国家資格ができる30年以上前の話である。

 

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