【義手と義足の昭和史】義手でノックして全国優勝した高校野球の監督(S26.8.20)

今年の夏の高校野球は仙台育英が優勝し、104回目の大会にして、初めて深紅の大旗が白河の関を越えることとなった。

第33回であった昭和26年の大会は、京都代表の平安高校が優勝している。
大会主催者の朝日新聞系のスポーツ新聞である日刊スポーツは、昭和21年に創刊しているが、その頃は「日刊オールスポーツ」と呼んでいたようである。

昭和26年8月20日の日刊オールスポーツは、1面で夏の甲子園の決勝戦について報じている。
「深紅の旗京洛へ」と、平安高校の優勝を報じている。

決勝戦の相手は、埼玉代表の熊谷高校であり、7対4で勝利したのだ。

この平安高校率いた木村進一監督は「投手も打者ももよくやってくれた」と選手たちをねぎらっていた。

この監督の右手は義手であった。

囲み記事の評論家のコメントでは、以下のように書いてある。
「甲子園名物の1つに数えられるようになった義手の木村監督が母校の名誉と野球一筋の情熱に右手の不自由を克服、常人の及ばぬ見事なノックができるまでの苦心のほどは選手の胸中深く食い込んでいる。戦後良いコーチに恵まれなかった高校野球界にあっていち早くこのような良いコーチを持った平安ナインは恵まれていると言わなければいけない。」

この木村監督、すぐに「西村」と改姓し、現在ではウィキペディア日本語版に「西村進一」として1つの項目となっているほどである。

この西村監督、平安中学のOBであり、立命館大学を中退して名古屋軍に入団したと言うプロ野球経験もある。

しかし昭和17年に徴兵され、ラバウルで砲弾を逆に持ったために暴発して右手首を失ったのだと言う。
これで、野球生命は絶たれることになってしまった。

しかし、義手にボールを乗せて、左手1本でノックすると言う努力を重ねたのだと言う。

平安高校の後は、大阪の扇町高校や岸和田高校の監督も務めたと言う。
また、社会人の西川産業の監督に就任し、チームを都市対抗野球に導くなどの手腕を発揮した。
そして、大阪産業大学の監督も務めたと言う。

そして2006年になくなるが、野球指導者として卓越した実績を残したと言って良いだろう。

ちなみに、この平安高校が優勝した第33回大会で、東京都の代表は早稲田実業であり、初戦で大阪代表の都島工に敗退している。

さて、今回は、その早稲田実業が甲子園への切符をつかんだ神宮球場へ行ってみることにする。

朝早い千代田線で新御茶ノ水まで行き、御茶ノ水から総武線の黄色い電車で信濃町へ。
そして、神宮外苑を横切って神宮球場まで。

神宮球場の真ん前には国学院高校があるようで、生徒がどんどん通学してきている。

そして、神宮球場そのものには、少年野球の大会があるようで、複数の野球チームが集まってきている。
こうやって決死なんかしてたら、不審者だと思われていることだろう。

さっさと通勤客に混じって、退散することにしよう。
そんな水曜仕事

今回の決死出演は1名(累計8名)。


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