【義手と義足の昭和史】フィリピンの女子学生に償いの義手(S29.7.15)

7月8日の安倍元首相の暗殺事件では、世界中から弔問が訪れたと言うが、フィリピンのドゥテルテ大統領も、自らのFacebookにその追悼のメッセージを寄せた。

今後、水曜日はこのブログは、フェチに関して何らかのエントリーを載せることとしたい。
平日は常にこのブログは非公開となっているが、あまりにも非公開が続くのは良くないだろうと言うことで。
それで、週の真ん中の水曜日と言うことにしたのである。
これを「水曜仕事」と呼称したい。

その水曜仕事の第1回目は、「義手と義足の昭和史」となる。

終戦から9年が経過し、サンフランシスコ講和条約により日本が独立を勝ち取って2年が経過した昭和29年7月15日の毎日新聞に報じられているニュース。

7月11日から、神田駿河台の明治大学を会場として「日本国際学生会議」が開催されていた。

「第3次世界大戦をいかにして防ぐか」を議題として開催されていたその会議にフィリピン代表として出席していたのは、戦争の時に日本兵に右手を切られ、爆弾の破片で右目を失った24歳の女子学生であった。

このことを知った高松宮妃殿下は、日本赤十字社の名誉総裁と言う立場でもあり、「ここにいる学生たちは100円ずつ出し合って彼女に精巧な義手を贈りましょう」と言うことになったようだ。

これに対し、当該のフィリピンの女子学生は「戦時中、日本軍は実に強制的でした。けれども、今度来た日本は違います。何もかもは快適で親切です。帰ったら日本の事や会議のことを全て報告いたします」と言っていた。

そして、翌月、昭和29年8月11日の読売新聞では、その国際化育成会議のさよならパーティーが、後楽園で行われたことを報じている。

義手は何も日本で作ったわけではなく、アメリカで作成したようで、この日に届いたようである。

何でも「ふわふわと柔らかく、まるで本物そっくり」と言うことで、代金は30,000円であったと言う。
いくら米国製とは言っても、当時のことであれば「不気味の谷」に突き落とされたようなものではなかっただろうか。

発案者である高松宮夫妻や、学生たちが見守る中で、女子学生は「私は戦時中に1つの腕を失いましたが、今日新たに友愛の腕をいただきました。フィリピンに帰ったら私なりの方法でまだ日本に対する恐怖や誤解を解くように努力します」とコメントしていた。

ちなみに、現在でもその女子学生に関する記事はフィリピンの日本大使館のページに掲載されている。

その女子学生は、その後の人生を教職に捧げたようである。
そして、1989年に亡くなられたようである。

さて、ではこのような記事を書くと、フィリピン料理を食べたくなってきた。

さっき직맹案件で失敗をやらかしたが気を取り直して通勤経路上でフィリピン料理を探すと、湯島に数件あるようだ。
というか、なぜか湯島にフィリピン料理が集まっていると言うのは、上野とか湯島のあたりにフィリピン人が集住してると言うことだろうか。

ともかくも、その中の一軒「パンゲア」と言う店に入ってみる。
18時過ぎの夕食時ではあるが、客は自分1人だけである。

その中で、日本人はどのようなものをよく食べるのか聞いてみたら、「シシリング」というのが有名なようだ。

ただし、自分は米も食べたいので、「ロングシログ」と言うのを食べることにする。

ご飯とソーセージと卵焼きが乗っている。
ベトナムで言えば 粓𦧘 Cơm Thịtのようなものだろうか。

1300円でありながら、量はそれほどでもないので、すぐ平らげてしまった。
なかなか旨いじゃないか。

そんな「水曜案件」の第1回目。

決死出演は1名(累計28名)。


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