北朝鮮KCTV「党政策貫徹は我らの生命」より🇰🇵
目が覚めたらまだ暗かった。
スマホのGoogle マップで確認してみると、まだ福島県内で、時間も1時過ぎであった。
いくらなんでもこれは早すぎる。もう少し寝ておこう。
次に目が覚めた頃には、夜が明けようとしており、まずは盛岡南に到着するところであった。
盛岡南と言うのは、津志田にある岩手県北バス盛岡南営業所のことである。
ここでそれなりの人数がおり、次は盛岡駅西口へ行く。
盛岡駅西口も5時台の到着であるが、それなりの人数がおり、宮古を目指す客は数えるほどしかいなかった。
皮肉なことに、自分の後の男性客は宮古を目指すようで、思うように椅子を倒すこともできない。
兎も角も、バスは盛岡駅西口を出て、茶畑交差点のほうの旧106号線を通って宮古を目指す。
もうすっかり朝も開けたので、車内も明るくして良いのではないかと思うのだが、車内はカーテンを閉めたままで、スマホの光漏れを気にしなければならない状態。
兎も角も、昨日の分の日記をつけた位にして宮古到着を待つ。
国道106号線もすっかり新しくなっており、トンネルが増えたために、電波の入り具合がかなり悪くなっている。
そしていよいよ宮古に到着である。
宮古に着くと言うのも、かれこれ室蘭へのフェリー乗った時以来である。
その頃、たいして変わっているわけではないが、足元を見ると、106急行は予約した客が優先になっているようであった。
今日のメインイベントは、3月12日で全列車通過になる平津戸駅へ行くことである。
その平津戸駅はもちろん無人駅であるので、宮古駅で切符を買っておく必要がある。
そしてまた、宮古駅ならクレジットカードも使える。
そして切符を買った位にして、1つダークツーリズムを入れることにする。
そのダークツーリズムは、まずどのような事件であったか。
それは、昭和29年にさかのぼる。
4月12日は、全国的に前線が横たわり、大雨の降りしきる日であった。
岩手県宮古市の指定金融機関は、岩手殖産銀行宮古支店であった。
その日に宮古市で取り扱った公金20万円余りを持って、26歳の行員がはす向かいにある銀行に戻るところであった。
銀行の通用口から入ろうとしたの刹那、後からガンとやられてそれきりになってしまった。
宮古支店では、市役所から公金を持って帰るのはいつもの日課になっていたので、その日に限って帰ってこないようで店長が「おかしいな」と思い、べつの行員に探してくるように命じたら、通用口で倒れていたのを見つけたのであった。
ポストンバックが切られて中にあった200,000円余りは盗まれていたので、これは強盗事件であった。
そして行員は、病院に運ばれることになった。
事件から1週間が経とうとしてもまだ、犯人が捕まる見通しはなかった。
襲われた銀行員は、記憶を失っていたようで、取材には支店長が答えている。
改めて、事件が起こった当時のことを答えている程度ではあるのだが。
そして、第一発見者となった同僚の銀行員は、最初「手持ち無沙汰だったので2階でピンポンでもしようかと思っていた」と言うのである。
仕事中にそんなことも許された、のどかな時代だったのである。
また、こうした事件が発生して犯人が捕まらない状態だと、指揮者や推理作家に推理をさせるのが常であった。
この事件では、元盛岡市警察署長が「これは怨恨によるものではないか」と推理している。
また、元盛岡市警察署探偵長と言う人物も答えている。
この人は、昭和21年に盛岡市内で発生した誘拐事件の時も、死体の場所を言い当てたのだと言う。
この人によれば、犯人は普段から被害者を知っており、単独での犯行ではないかと見立てている。
そしてこの時点で、「狂言とは思われず」と言う言い方をしていると言うと事は、狂言説も根強くあったと言うことなのだろう。
また、宮古市教育委員と言う人物によれば、この事件は長い間計画的に準備されていたものではないかと言う見立てであった。
警察ではすでに、捜査線上に2人の容疑者を上げており、なんと新聞では実名まで上げているのである。
おそらく今であれば、訴えられていたであろう。
そして、4月2 14日の岩手日報では、襲われた銀行員が病院で取材に答えている。
その時点で根強くあった「狂言説」に自ら答えようとしていた。
狂言説が疑われているのは、被害者の行員の供述が曖昧なことであった。
また、市役所で100円札と10円札を数え間違ったと言うトラブルもあったようである。
これについては「うっかりしていたので、これについてもあれこれ言われても困る」と言う反応であった。
また、この狂言説は心ない1部の人のみならず、警察からも疑われているようであった。
そして警察から「今引いた事は他言するな」と言われたことを、新聞に他言しているのであった。
この被害にあった銀行員は、クリスチャンであったようで、インタビューの最後は「キリストの教えに忠実に守っていきます」と〆めていた。
果たしてそれは、26歳の銀行の小使であった。
より正確に言うと、「元小使」であった。
表向き今回の事件とは関係なく、「銀行に勤める者としてふさわしくないから」として、24日の時点で解雇されていたのである。
どのような点で容疑もたれたかと言うと、① 3月16日に盗難にあった銀行印のカメラを銀行の天井裏から発見したこと、②土蔵から銀行の封筒に入った24,000円の現金を発見したこと、③事件があったときに、被害者を病院に運ぶのを手伝わなかったこと、と言うことであった。
どうも関係ない事件だったり、容疑として薄弱のような気もするが…
また、この紙面では報じられていないが、近くの16歳の店員女性の証言も重く見られていた。
しかし、周囲の人の評判からは、「女性的な性格でもあり、このような大それたことをしでかすのか」と疑問を持たれているようであった。
しかし、この事件は犯人逮捕で一見落着とはならなかった。
この事件の裁判は盛岡地方裁判所で始まり、事件を目撃したと言う16歳の店員少女も出廷したのであるが、この少女の出身地である田野畑村では、「本当はお前が事件に関係したのではないか」と言って、白眼視されていたのだと言う。
働いていた呉服店も辞め、田野畑村の実家に帰っていたが、実家の周囲では上述の通りの状況で、警察官の協力で、宮古市内の別の青果店で住み込みで働くようになっていたと言う。
挙句の果てには、宮古市内で襲撃されて怪我をすると言う状態にもなった。
その店員少女の証言によれば、襲撃したのは銀行の同僚であったと言う。
しかし、犯人と名指しされた銀行員は、そのことを否定していた。
そして、その襲撃も実は、その店員少女の証言以外には調べようがなかったのである。
このことで、店員少女は孤独感を深め、刑事以外には誰とも話さないようになっていた。
この岩手日報の記事は、それなりに反響巻き起こしたようで、盛岡市内の洋品店主などは、「盛岡に来い」と温かい声を送っていた。
結局、襲撃事件の容疑者と名指しされた2人の銀行員は、容疑が固まることもなく、勾留期限の10日が過ぎて8月31日に釈放しなければならなかった。
このことは、9月2日の岩手日報と読売新聞岩手版の両方で報じられているが、読売新聞のほうは、やや容疑者よりの論調となっている。
と言うのは、被害者である所の店員少女の様子を事細かに観察しており、さほど悔しそうな様子を見せていないことを克明に記しているのである。
この事件は、このブログでも紹介した「岩手の重要犯罪」にも掲載されているのだが、裁判記録では、この店員少女が中学校の頃、虚言癖で嫌われていたことを指摘している。
そこでは、「見栄を張るの少女時代の特有のもので、害のあるものではなく、店では評判が良かった」旨のことを検察側陳述している。
この裁判の結果は一体どのようになったのか、そしてまたこの当時若かった関係者の全てがどのようなその後送ったのか、今となっては知る由もない。
…と、このような事件のダークツーリズムを今からすることにしたい。
現場となった岩手殖産銀行宮古支店は、今なお、岩手銀行宮古支店としてその場所にある。
場所は、宮古駅からそれほど離れているわけではない。
歩いてもすぐに行ける距離である。
宮古市は、最盛期は人口は60,000人ぐらいいたはずである。
それはなんだか最近は、市街地がスカスカになってるような気がする。
事件当時であれば、もっと密度の濃い街並みだったのではないだろうか。
雪がちらつき始めた。
そして、閉伊川の河口付近にその宮古支店はある。
隣には、宮古電報電話局のパラボラアンテナが今でもある。
山田線で都に到着しようとすると、このパラボラアンテナが目立つのだ。
地方都市にはよくあることである。
現在の銀行は、新しい建物に建て変わっている。
撮るだけ撮ったら、朝食がてら106号線沿いのマクドナルド行くことにしよう。
マクドナルドもまた、歩けばそれほどの距離でもない。
そしてマクドナルドで、副業ブログなどをつけながら、9時の宮古市立図書館の開館を待つことにする。
そして9時が近づいたので、宮古市立図書館へ行くことにする。
はっきり言って、宮古市内で見たいものは大して無いので、図書館にこもって、副業ブログの資料を収集することにしたいと思う。
宮古市図書館のマイクロリーダーは、国会図書館に比べたら方が古いものではあったが、どうにか調節してそれなりの画質で出力することができた。
都合、100枚程度収集することができた。
すでに、14時ごろになっていた。
そして、バスの時間が近づいたので宮古駅に行くことにする。
その前に、昼食としたい。
それで、宮古駅前の寿司屋に入ることにした。
寿司屋といっても、カレーライスやカツ丼も出すことができる、大衆食堂の趣に近いところであった。
ここで、納豆巻きやそばのセットを食べた位にしてバスの乗り場へ行く。
ところで、右手の中指が腫れたようになって少し痛い。
最近の106急行は、予約が必要なのだと言うが、実際にアプリで予約をしようと思うと、宮古から盛岡の予約しかできない。
途中で降りる客は、そもそも数に入っていないのだろう。
果たして、バスに乗ってみると、2人掛けのシートが全部1人ずつ埋まる程度には客が乗っていた。
かつての川井村、現在の宮古市川井にある「やまびこ産直館」と言う道の駅までは、1時間程度である。
しかし、充電しながら乗れるのはありがたい。
ところで、最近の国道106号線は、新しいルートがトンネルばかりなので、携帯の電波がさっぱり入らない。
おそらくは震災復興枠でかなり予算がついた夢だろう。
そうじゃないと100キロにもなる道路をここまで改修はできるはずがないのだ。
果たして、「やまびこ産直館」に到着。
ここでコーヒーでも飲みつつ、4時半に来るタクシーを待っていることにしよう。
別に平津戸駅まで歩いても良いのだが、どうやら歩道がないようなので、事故対策も兼ねて、タクシーに乗ることにした。
そしてタクシーで、平津戸駅へ向かうこととする。
結局、平津戸駅までは3000円位かかった。
かつては、この平津戸駅前には106急行バスが1時間に1本来ていたのだ。
それが、今や1日に5本、土曜や休日には3本しか来ないと言う体たらくになっている。
周囲はすっかり限界集落となっていた。
とりあえず、17時29分の盛岡行きの列車を待つことにする。
待合室には暖房がないので、長時間待つには向いていない。
もしタクシーを使わないで、13時台の106急行バスで来ていたとしたら、自分は凍え死んでいたかもしれない。
自分の他にも数人のマニアらしい客も来ていた。
日がくれようとしていた頃、汽笛が聞こえてきた。
盛岡駅のディーゼルカーは、2両編成のキハ110であった。
そして、ワンマンではなく車掌が乗っていた。
久しぶりに暖かい人心地を取り戻したような気がする。
後は、盛岡を目指すだけ。
そう思ったら、区界に到着する前に急停止した。
なんでも、倒木と衝突したのだと言う。
それを撤去するので10分ぐらいかかった。
結局、区界には10分遅れで到着する。
女性車掌が、各乗客にこの先新幹線に乗り換えるかどうか聞いて回っていた。
そしてやっと動き出したと思ったら、区界を過ぎて大志田か浅岸かのあたりで今度は鹿と衝突したという。
トンネル内なので携帯の電波もつながらない。
なんやかやとドラマが多すぎる。
結局、上米内には24分遅れで到着。
終点の盛岡に到着したのは27分遅れの19時01分であった。
さて、帰りの東京に行くバスは21時55分となる。
それまで何をやっているかだ。
夕食を食べるとして、問題は銭湯に行くかどうかと言うこと。
盛岡駅からだと、徒歩で行くには微妙な1.6キロという距離にスーパー銭湯があるようなのだ。
夕食は盛岡らしくじゃじゃ麺にする。
ちょうど、盛岡駅の1階に「白龍」の支店がある。
続けてジャジャ麺をたらふく食べることにしたい。
もちろんちーたんも忘れない。
しかし、チータンのこの汚らしさよ…
右手中指の腫れであるが、ついに箸もまともに持てない位になってしまった。
これは病院に行った方が良いだろうか。
とりあえず、食べるだけ食べて、19時40分ごろ。
バスまであと2時間強ある。
ここは、タクシーではなく歩いて銭湯に行くことにする。
帰りはタクシーでもいいかもしれない。
と言うことで、盛岡駅西口から銭湯を目指す。
北上川から吹く風が寒い。
それでも、ブログを音声入力でつけながら歩いていたら、さほど苦にもならなかった。
そしてスーパー銭湯で入浴。
やっぱり入浴してよかった。
そして21:30にタクシー来てくれるように予約してあとは副産物ブログをつけるくらいにする。
しかし右手中指どうしようかね。
もうペットボトル開けるのも苦痛だ。
何かバイキンでも入っただろうか?
盛岡駅西口で待っていると程なくしてバスは来た。
八戸から来る便らしい。
あとは一路東京を目指すだけ。