拙ブログでも触れている(2019.10.26)例の「宇崎ちゃん」が一定の結末を見たようである。
日赤「宇崎ちゃん」献血キャンペーン 謝礼品変更し第2弾開始 #nhk_news https://t.co/lRnATIcWtk
— NHKニュース (@nhk_news) February 6, 2020
本件においては「脈絡なく胸がでかいのは環境型セクハラ」というのが論点だと思ったのだが、パヨクを以って自認する自分でも、こと胸に関して何がどう違うのか分からん・・・
結局拳を下ろす場所をどこかに欲しかっただけではないのだろうかとすら思っている。(だからといって「表現の自由戦士」に加勢する気はないが)
自分自身のスタンスとしては「表現の自由」を楯にしてセクハラを温存したいとは思っていない。
そもそも「環境型セクハラだ」と声を上げるのを圧殺している昭和脳の自覚ありますか?
まして「表現の自由を守れ」だの「文化を圧殺するな」だのと弱者男性まる出しで泣き叫んでるの見てると性的興奮すら覚えるんですけどっていう。
しかし他ならぬ自分自分だって「表現の自由」に守られているからこそ、お手々のないお人形さんを世界中で撮ってネットに放流してもなお生き永らえていることができているのではないか。この事は忘れてはいけない。
ところで、この「欠損」と言う趣味がひとたび世間の目に触れるとどうなるか。
それが2014年の「ゆきりんロボ」であり、2016年の「欠損松騒動」ではなかっただろうか。
欠損松の場合は「だったら近親相姦はOKなのか」とか「私だって体の一部を欠損してるけど問題だとは思わない」と身を張って守ってくれた方がいた。それで収束したはずである。少なくとも「表現の自由」という観点で問題になることはなかった。
・それはともかく、「表現の自由戦士」にどうこう言われるまでもなく、献血に行くことにしよう。
ということで前回に続きゲキレンジャー出身のチームY宇崎に決死モデルで出てもらうことに。
前回と違って今回は400ml献血はOKだった。
一通りの検査が終わったら、例のミスチルの「名もなき詩」のブザーが手渡される。
この「名もなき詩」が流れると自分の献血の番になる。
久しぶりに注射針を刺されたが、何回献血をしても慣れないものは慣れない。
あと、いつだったかの欠損バーでも話したが、とにかく血を見るのは嫌だ。
目をそらしながら血抜きを待っていた。
そして宇崎ちゃんクリアファイルをもらい、献血ルームを後にする。