ややこしい大地を行く

いよいよ台湾フォルモサも最終日となる。

いつたったか、ジラード事件の足跡を追って群馬まで行ったが、これと同じ時期、台湾でも同樣の事件が発生していたのである。

まず前提となる話から。
朝鮮戦争が勃発し、アメリカとしては自由世界(共産世界に対して)の同盟国から支援を求める見返りに、アメリカで技術や金を出して軍備の増強を行なっていた。
それは朝鮮戦争が終わってからも、東側諸国に対峙する必要性から、その軍事支援は続けていた。(駐日米軍とは別の枠組み)

これを、MAAG(Military Assistant Advisoriy Group=軍事顧問団)と呼び、台湾やビルマ、南ベトナムなどに人員を派遣していたのである。

1957年早々、日本では米兵が現地人の農婦を面白半分で射殺した事件が起こった。
アメリカの世論は「未開な日本の司法ではなくアメリカで裁判を受けさせろ」と議論が勃発した。

そのジラード事件から2ヶ月後の1957年(民国46年)3月20日の夜のこと。
台北の北東に聳える陽明山にある米軍宿舎の前で、米軍顧問団の曹長が1人の台湾人を射殺するという事件が発生した。

この事実は、翌21日には米軍顧問団司令部から報道発表された。
そのまた翌日の22日に英文紙が報じた所によれば、「中国人が棍棒で襲ってくるので自衛のために射殺したのだ」と。

そのまた翌日の23日に中央通訊社が報じた所によれば、「その中国人が覗き見をするから不幸にも射殺してしまった」と。
アメリカ系の通信社に米軍曹長が訴えた所によれば、「妻が風呂に入っているのを覗いたので射殺した」と主張していた。

22日の英文中国日報で報じられたものが最も詳しかった様で、その晩、被害に遭った中国人は派出所で飲んでいた。
そして23時半ごろ派出所を後にして、家に帰ろうとしていた途中のことであったという。

中国人の死体は、宿舎から30m離れた中正公園に放置されていたのだという。
その中国人は、身長180cmぐらいの長身であり、家は貧しく、中華民国の国家機関で露命を凌いでいるということだった。
また、彼には妻と満16週になる子供がいた。

この事に関し、米軍の報道関係部署は台湾のマスコミに合うのを避けていた。
アメリカ人は人権を尊重し生命を重んじるので、そう簡単に裁かれるということは無さそうである。・・・という感想が書かれていた。

果たして、アメリカの軍事法廷ではこの曹長がどう裁かれたか。
5月23日に下された判決は、「正当防衛」として無罪となったのである。
風呂を覗いた云々のくだりも報じられていた。

このことで5月24日、台北のアメリカ大使館では暴動が発生した。
そのことはまだ「国府」と国交のあった日本でも報じられた。

元々は、2〜300人規模の反米デモであったようである。
しかし、これに一般市民が加わり、群集心理でアメリカ大使館での打ち壊しにまで発展したということの様だった。

日本の外務大臣にあたる外交部長は再審を要求しているということであったが、当の米曹長はフィリピンのクラーク・フィールド基地から本国に帰ったといい、再審は到底望めない状況であった。

国民感情としてはこの様な理不尽な判決があったとしても、大陸の全てを中国共産党に取られており、そこから国土を奪還しなければならないという国府としては、米華同盟は今後も継続して行かなければならない。
それで駐米大使は「デモに加わった者も強い反米感情は持っていないと思う」という苦し紛れのコメントを出すしかなかったのである。

この最初のデモ隊の先頭に立ってハンガーストライキをしていた被害者の妻は、現在のレベルで見てもなかなか美人ではないだろうか。

彼女について最も詳しく書いているのが、以下のページとなる。

  • 【人物春秋】1957年引爆台湾反美事件的女英雄奥特华_荆有麟・1928年南京で生まれる。
    ・父は魯迅に師事したこともある文化人。しかし1951年に二重スパイの容疑で処刑される。
    ・幼い頃から絵の才能を発揮し、北平(北京)の新聞で「豆画家」として紹介されたこともある。
    ・1931年生まれの弟がいるが、事件発生の時は大陸で機械技術者だった。また妹もいた。
    ・抗日戦争が始まると重慶に移住し、1942年に南開中学に入学。
    ・終戦後、杭州芸術大学に入学。この時、南開中学の同級生だったパイロットと恋に落ちる。リア充グループで恋花に浮かれていた青春時代。
    ・1949年、彼氏を追って台湾へ。しかしその彼氏は翌1950年に海南島で処刑。
    ・ショックから立ち直り次の人生に。
    ・その後出会ったのが、無錫出身の軍官である今回の事件の被害者。
    ・やがて1女をもうけ、台北郊外で暮らすようになった。
    ・当時の台湾は貧しく、地位を利用した軍物資の横流しで生計を立てることもあった。
    ・事件発生後、お互いが軍物資の横流しに関与していたという噂も出たが、有り得ない話ではない。
    ・加害者となった米軍曹長は、衛生用品の格納庫で勤め、医薬品の横流しもしていた。その妻は購買部で働いていたのである。
    ・そのような中で誤解が発生したのではないか。
    ・実は、今回の被害者となったこの中国人の素性は不明なのである。「革命実践研究院の人員」という肩書で報じられていたが、実際は少佐の地位にあったのだ。
    ・そもそも、これだけ美しく才能のある女性を妻にできたという時点で、平凡な男では絶対にない。
    ・軍事裁判で無罪の判決を聞いた時、妻は絶叫して倒れこんでしまった。
    ・この一件で妻が発したコメントは、米華関係に一時期悪影響を及ぼすことになった。
    ・大陸にいた母と弟は、湖南省の新聞に対し「米兵による暴力を非難し、娘(姉)を支持する。米帝の侵略主義と断固戦う」というコメントを発表。
    ・その頃、彼女の仕事は写真館で白黒写真に人工的に彩色することだった。
    ・事件からしばらくして、彼女は台湾を離れ、ロサンゼルスでひっそり暮らすようになった。
    ・彼女と連絡が取れるのは、南開中学時代のリア充グループの同級生だけだったが、その同級生も2004年に死去。彼女と連絡を取れる手段は永久になくなった。
    ・しかし、どこかの空の下で穏やかに暮らしていると信じている。

ところで台湾というのは「中国国民党政府の施政権の及ぶ唯一の地域」であるとともに、それとは別に台湾独立党により「台湾共和国」という亡命政府が東京で樹立されており、その機関紙を日本語で発行していた。

その臨時亡命政府の大統領が暴動の1ヶ月後に発表した所によれば「これは国府の特務機関が起こした陰謀である。射殺された中国人も、国府の特務機関のスパイである。なぜなら警察や消防も、7時間もこの暴動を鎮圧せずに看過していたではないか。台湾人は米軍の立場に同情的である。この騒動には迷惑している」
と、国府とほぼ変わらない主張をしていた。

台湾独立党もまた、国府と大して変わりない主張をしており、なおかつ米軍の支持を取り付けたがっていた様な節が紙面から見て取れる。

ちょっと今日もダークツーリズムに行ってみますか・・・
今日の飛行機は13時30分発なので、それまでに一連の所を回るのを済ませておかないといけない。

と言いつつ結局7時過ぎに行動開始。
これで間に合うだろうか・・・
何しろ、事件のあった米軍宿舎というのは、現在でも歴史的地址として残されている陽明山米軍宿舎群の中でも一番奥にあった場所である。
どうやっていけばいいのかも見当が付かない。

とは言いつつも、台北駅でしっかり撮影は欠かさない。
正方形の駅舎の台北駅の東側には、軽便のSLとディーゼルカーが保存されている。
この岩手開発鉄道のキハ202の様な顔をしたディーゼルカーが、花蓮から台東までの200キロ弱で寝台車を牽引していたのである。
決死モデル:チームR天美

あと、台鉄の主だった駅ではロボット三等兵の様なオブジェが飾られていることが多い様な気がする。
恐らくは鉄道部品の廃材で作ったものではあると思うが・・・

さて、陽明山への道を急ぎましょう。

Googleマップで陽明山のバス停をクリックすると、そこに来るバスの系統が表示される。
捷運淡水線の劍潭駅や石牌駅からバスが何系統も出ているようだが、目の子で見ると一番多いのは129番やS8番が出ている石牌駅の様な気がする。
それで石牌駅で降りることに。

果たして、バスを待っているとS8番がやってきた。
Sというのはsmallの略のようで、マイクロバスであった。

乗客は登山の高齢者が多い。
バスは陽明山に向けて、急な坂を登っていく。
陽明山への坂道は、サイクリングルートにもなっている様で、レーサーパンツに身を包んだ男女が坂を登っていく。

そして陽明山に到着。
事件のあった米軍宿舎は、新北市の職員研修センターになっていた。
また、「中山公園」と呼ばれていた公園は、現在は前山公園として市民の憩いの場になっている様だった。
決死モデル:チームYジャスミン

後は適当なバスに乗って適当な駅に行けば良い。
たまたまその時バス停に北投行きが来たので乗ることにした。
確か北投行きは支線の新北投によるはず。
恐らくは東京でいう北綾瀬や、ソウルでいう西東灘の様な車庫線の駅であろうと思っていた。

マイクロバスは硫黄の匂いのする急な下り坂を下っていく。
北投は温泉地でもあり、さっきの陽明山の事件現場の近くのホテルも、温泉を売りにしている様だった。

さて、バスは新北投の駅に到着する。
新北投は別に車庫でも何でもなく、日本時代から淡水線の支線が出ていたのだという。
そしてその日本時代の駅舎が最近復活したのだという。
駅舎は頭端式だったのだろうか。線路と垂直に置かれ、線路には台鉄の客車が保存されていた。

そして捷運の新北投から電車に乗ると、これは新北投〜北投のピストン運転だという。まるで綾瀬〜北綾瀬の様に。

ただ、北投からは区間運転の始発列車があり、座って行くことができた。

では、暴動のあったアメリカ大使館はどこにあったのか。

Wikipediaには、アメリカ大使官邸については項目がある。
曰く、「北門の台北国税局のあった所に米大使館があった」と書かれている。
最初はこのアメリカ大使館邸の北側の門前にそのアメリカ大使館があったのだと思っていた。

それで、捷運の台大医院前で降りて旧アメリカ大使官邸の北側に行ってみることにした。
しかし国税局らしき建物はない。
そこには、事件発生当時どころか日本統治時代からあったと思しき台湾大学病院が鎮座していた。
明らかにここではない。
決死モデル:チームRスマレ

改めてGoogleマップで調べてみると、「北門」というのは、ソウルでいう「東大門」「南大門」の様な城郭の門であり、台北駅の西側にある様だった。

飛行機まで余裕がない中、そこまで歩いていかないといけないのか・・・

途中にはかつての台湾総督府の建物が、中華民国総統府として使われている。

本当であれば、帰る途中に松山駅に寄ってペギー松山で決死したいところであったが、恐らくは松山駅まで寄る時間もないであろう。
仕方ないので、ここでペギーを使うことにした。
決死モデル:チームPペギー

総統府は、韓国の青瓦台とは違って近寄っても構わない所に聳え立っている。
しかし、建物の周囲には自動小銃を構えた兵士が警備している。
やはり国際的地位の微妙な国の政治の中心は色々大変なのだろう。

この近くの西門駅から北門駅まで捷運で行くのもいいが、階段の上り下りや電車待ち時間を食う可能性もある。
それなら歩いたほうが早いかもしれない。

果たして、北門前の台北国税局に到着。
北門公園から交差点を挟んで先にある。もちろん当時の建物は使用されておらず、全く新しい建物になっている。

ところで、この北門公園には線路の様な2条の線がデザインされ「基隆駅」「桃園駅」などと書いてある。
地上時代の台北駅は、この辺りに線路があったのだろうか。それは十分考えられる事である。
決死モデル:チームY楼山

ところで、ここから深度合成モードで決死してもなかなかうまくいかない。
結局、一番マシだと思える様な写真から選ぶことにした。

さて、そろそろ11時になろうとしている。
台湾虎航のチェックイン時間は出発の1時間前なので、12時10分には桃園空港でチェックインしていないといけない。

台北駅の空港捷運の乗り場は全くわからなかった。
案内に従い走って行くと、空港捷運の駅はかなり遠い所にある事がわかる。

噂には聞いていたが、台北駅でのアクセスはかなり悪すぎる。
これでは国光バスからシェアを奪えないわけだ。
まるで京葉線の東京駅同然である。

結局、乗り場に着いたのが11時13分、そこから11時15分の直通にギリギリで乗ることができた。
ソウルの空港鉄道と違い、特急券を買わず交通カードで乗ることができる。
この事も幸いした。
決死モデル:トルソーさん丸尾

後は台北の街に別れを告げ、霧の中を空港を目指すだけである。

そして空港に到着。
チェックインインを終え、出国審査場に向かう。

自分のパスポートは電子部分が壊れており、人のいるゲートを通らないといけないのだが、係員は「いいからまず電子ゲートを通れ」という。
仕方ないので電子ゲートで手続きをしていると、何と通れたのである。

そしてB1Rゲートに向かう。
どうせLCCなので沖留めのバス乗り場だろうと思っていたら案の定そうだった。

搭乗時間が来て、バスに乗ってタラップをめざすことに。
このタラップへのバスも、まるでバスターミナルの様ではないか・・・

そして雨の中を、タラップから搭乗することに。
決死モデル:チームPさくら

後はもうひたすらブログ付けすることに。

時差が1時間だけの成田に到着した頃には、すっかり暗くなっていた。
ああまた1つ旅行が終わり、現実に戻ることになるのか・・・

最後に、トルソーとトルソーで1枚撮る。
決死モデル:トルソーさんファラキャ

 

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