5月に発生した登戸の通り魔事件は「犯人自殺」という結末を迎え、犯行の動機その他については、裁判によらず推測することしかできなくなってしまった。
「おはようございます!」犯人・岩崎隆一(51)は事件直前、何食わぬ顔で挨拶した《登戸殺傷事件・現場ルポ》 | スクープ速報 #登戸殺傷事件 #週刊文春 https://t.co/4cHcfTfY0b
— 週刊文春 (@shukan_bunshun) May 28, 2019
今を去ること61年前の昭和33年にも、この登戸で通り魔的な殺人事件が発生し、そして犯人が自殺しているのである。
「週刊読売」昭和33年第25号(臨時増刊)であった。
この増刊号は、昭和33年の時点で未解決となっていた事件について相ざらえする号になっており、Wikipediaに記事のある事件だけでも、以下のものがある。
その中で目を引いたのが、特集の最後の「南武線電車内の小学校副校長殺人事件」であった。
この事件について、読売新聞の記者が自らの人生観から記事を書いているのだが、殺人犯に対するものとはいえ、何というかこう・・・ Twitterのある今であれば、書き方も、ひいては犯人もこんな犯罪を犯さなくてもよかったのではないかと考えさせられた。
その記事は「小さな異邦人の自殺」というタイトルで2ページにわたって書かれている。
犯人は小田急線の柿生から南武線の平間にある工業高校に通う高校生。
その高校生が犯した犯罪の動機について、やれ「ふつう人間の内部には~」やれ「職業的習性~」やれ「この密室を開ける合いカギ」などと、実にくどくどとした書き方で書いているが、つまりは「分かりません」というただ単純な事実だけである。
ところで、犯人は18歳の高校生なので未成年になるが、よくここまで顔と実名が公表できたものだと思う。後年の女子高生コンクリ事件(昭和63年)や酒鬼薔薇聖斗の事件(平成9年)では、未成年である犯人の実名表記をめぐって騒動になったはずである。
同じ年の小松川高校の事件(ただしこの号の発行時点では未発生)でも、実名報道に関する是非が論議されたようである。
ともあれこの記事に関する話に戻ると、この記者が教師や同級生などを周辺取材した限りでは、「犯人の高校生は授業が終わると逃げるようにすぐ帰る」「社交性が全くない」「就職活動に失敗した」ことを知ったようである。
そして、「それらの仲間の世界に何とかして加わりたいと願っていた」と取材から判断していたようである。そしてそれは叶わなかった。
その上で、「人が何かの集団に所属するためには、不文律を守ることを要求される。それができないなら仲間への所属は許されない」と犯人を断じている。
ああ、ここまで読んで全てが分かったような気がした。
これは、今であれば「発達障害」と名の付く状態である。
そんな概念が一般に知れ渡るのは、この事件から50年も後のこと。
この容疑者である高校生も、「なぜか周囲とうまくやることができない」ことに苦しんでいたようである。
これが、Twitterのある今であれば、同じ悩みを持つ者同士の情報交換もできて、いくばくなりとも救われたのではないだろうか?
これが「昭和」という時代に生を受けた者の宿命だったということなのだろうか・・・
さて、事件の詳細につき、当時の新聞はどのように報じていたか。
事件発生当日の昭和33年3月18日の毎日新聞夕刊には、既に記事にされていた。
それは、朝8時09分頃、国鉄の南武線と小田急線が交差する登戸駅でのことだった。
南武線の登戸駅舎から見て一番奥の3番ホームから川崎行きの3両編成の電車が出発しようとしていた。
その2両目に乗っていた、武蔵溝ノ口近くの小学校の副校長が、1両目に乗っていた同校の事務員の女性に「背中をコウモリ傘で刺されたようだ」と病状を話したが、顔面は蒼白。背中を見ると血がベットリ付いているではないか!
大慌てで2つ目の久地駅で降り、駅前の病院に駆け込んだ。
しかし傷は腎臓まで達しており、昼を回った13時43分に出血多量にて死亡確認。
目撃証言では、その刺した男は白いダスターコートを着た高校生風の男であり、小田急の駅の方向に逃げたのだという。つまり、3番線から線路を横切って駅舎側の1番線の方から逃げて行った、ということになる。
捜査は「小田急線の沿線の工場か学校に通う者」に照準を絞ることになった。
しかしその結末は、3日後の新聞に掲載されることになる。
やはり3月21日の夕刊であり、その日の朝、高校生が八王子市内の農家の竹藪で服毒自殺していたのを発見した、というのである。
雑誌「アトリエ」の裏表紙には、
「先生の死を新聞で知りました。先生すいません。僕は色男でも助平でもない。お父さん、お母さん、姉さん、弟、親孝行ができなくて済みません」
と遺書がしたためられていたのだという。
足取りとしては、事件のあった18日の朝に「僕が死んでも告別式などしないでほしい」と書置きをして家を出てから行方が分からなくなり、翌19日に家族から捜索願が出されていたのだという。
また、この事件の半年前に母親を亡くしていたのだという。
つまり、本件犯罪の敢行時点で、死ぬつもりで家を出たということになるのだろう。
・・・でも何で八王子? 八王子で何か思い出でもあったのだろうか。
ちょっとその辺りを「ダークツーリズム」という形でフィールドワークしてみることにしたい。
小田急の登戸駅は、さっき「1984」について巡った霞が関から千代田線で1本で来ることができる。
多摩川の堤防からすぐの場所にあり、ホームから多摩川を見渡すことができる都会の絶景駅である。
(決死モデル:チームYジャスミン)
小田急の駅を出るとコンビニがあり、その店頭にはドラえもんのぬいぐるみがビッシリと置いてある。
また、バスターミナルからはちょうど藤子不二雄ミュージアム行きのバスが出る所だった。そのバスは忍者ハットリくんのラッピングバスであった。
さて、昼食を食ったくらいにしてJRの登戸駅に行くことにしましょう・・・
JRの駅は今も3番線まであり、ちょうどその3番線から川崎行きの快速が発車しようとしていた。
〽あんなこといいな できたらいいな あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~ の発車メロディが鳴ると、3番線の川崎行きの快速は出発していった。
事件があったのは、電車の2両目であったという。
当時は3両編成であっただろうが、現在は6両編成となっている。
また何より、この当時の南武線は72系すら導入されておらず、モハ30やモハ31など、17m級の電車が充当されていた。
この「17m級の電車」が完全に引退するのは実に1996年のことで、鶴見線の武蔵白石~大川間が最後の運行区間であった。
(写真は電気車研究会「鉄道青春時代 中央線」より)
それだけ、首都圏の鉄道路線の中でも南武線というのは冷遇に冷遇されてきた田舎路線であった。
さて、もう一つの疑問は「なぜ八王子?」である。
登戸から八王子であれば、南武線で川崎行きとは逆方向の電車に乗り、立川へ出てから「浅川」行きの電車で八王子へ向かい、八王子駅から西東京バスに乗るような感じだろうか。
1番線からは立川行きの電車が 〽頭でかでか さえてピカピカ それがどうした ぼくドラえもん~ の発車メロディで出発する。
たまたま快速に乗ることができたが、実は昭和の一時期も南武線に快速は走っていたのである。
しかし、追い越し設備がなかったために、無駄に列車間隔を伸ばしただけで終わってしまった。
現在は、稲城長沼などに追い越し設備があり、快速がきちんと機能した状態になっている。
そして立川に到着。
中央線は昭和32年の時点で新性能電車モハ90(後の101系)が導入され、早いうちに72系が淘汰されたのだという。
それは、貨物列車や長距離優等列車の混在した列車密度の高い路線で、加減速性能の高い車両を、ということだったのだろう。
そして当時の立川~八王子間は見渡す限りの田園風景だったようである。
果たして八王子に到着。
八王子から当時の自殺現場に行くためには、楢原行きで中野町西で降りるか、松枝団地行きで市役所入り口で降りるかどちらか、ということになる。
自殺当時、犯人は近くの浅川の河川敷を歩いていたという目撃証言もある。
その浅川に架かる橋を渡ってみたかったので、できれば松枝団地行きに乗りたかったが、20分ぐらい待つという。
そこへ、隣の7番のバス乗り場に楢原行きが来たので、それに飛び乗ることにした。
ふと思う所があって、登戸駅から自殺現場である八王子市内の竹藪までGoogleマップでルート検索してみると、ほとんど多摩川~浅川の流れに沿っているのである。
きっと、犯人は電車に乗ったわけではない。
多摩川がすぐ見渡せる登戸駅から、その右岸を上流に向かって歩き続けたに違いない。
右岸を歩いたから百草園の多摩川と浅川が合流するところで浅川側を歩いたのだ。
そして精も根も尽きた八王子の竹藪で睡眠薬を飲んだ・・・ ということではないだろうか。
最初は中野町西で降りる予定だったが、予定を変更して、浅川に架かる萩原橋の手前の平岡町で降りて、犯人が最後に歩いたであろう浅川の右岸域を歩いてみることにした。
(決死モデル:トルソーさんのファラキャ)
遠くには秩父の山並みが見える。
犯人はその山並みに抱かれるつもりでこの川岸を上って行っただろうか。
また、現在では住宅地が広がっているが当時は一面の田んぼか荒れ地だったのではないだろうか。
ところで、ファラキャがレオタード姿なのは、犯人の遺書が「アトリエ」誌の表紙裏にしたためられていたから、という所からである。
ちょうど同誌の昭和33年の2月号では、ヌードデッサンについて特集されていたようである。
この号だったかどうかは分からないが、
「僕は色男でも助平でもない」というくだりからは、そのヌードデッサンを咎められたのではないかという推測が新聞によってもなされている。
ともあれ高校の美術シーン、まして今よりはるかに保守的であったであろうこの時代において「女性美を追求する」ことはどのように捉えられていたのだろうかと。
奇しくも、この昭和33年に札幌の大通公園の「泉の像」(3人のレオタード姿の踊り子の像)が本郷新によって完成している。また、本郷はこの「アトリエ」誌にも複数回寄稿している。
向こうには南浅川、城山川、北浅川が合流する地点が見える。
ちなみに、高尾駅の旧駅名である「浅川」の近くを流れる川は南浅川となる。
現在、自殺現場となった竹藪は駐車場となっており、連絡先はその竹藪の所有者と同じ苗字であった。
あとは楢原から来るバスに乗って戻るだけ・・・