大瀬しのぶというローカルタレントがいて、CMにも盛んに出ていたのでそのハゲ頭はお茶の間でおなじみの存在だった。
その大瀬しのぶは、昭和60年つまり55歳の時に自伝的な本を出している。
なにぶんお袋が教育ママだったもので、図書館からやたら本を借りてきて読まされたものである。
その中に、子供の頃の自分のフェチ心を刺激するものがあったのだ。つまりこれは「義手と義足の昭和史」であるとともに「私的devotee史」でもある。
国会図書館で検索したら、その本は容易に見つかった。
その大瀬しのぶは旅芸人の一座に入る前は、色々な仕事を転々としていたというのだが・・・
青森県の南部地方で生まれ育った大瀬しのぶは、終戦後の一時期、家業がつらくて逃げるように家出して、三沢の飛行場なら何か仕事があるだろうと思って古間木駅(三沢駅)まで行ったのだという。
そこで飯場の親方に拾われてしばらく働いていたのだが、生来の話術のうまさから飯場でも人気者になって行ったのだという。
そんなある日、親方の娘が札幌からやって来るので、案内してやってくれないかと言われた。
その娘は18歳にしては大柄で、黒いワンピースとレースの手袋の似合う清楚な女性だったのだという。
(決死モデル:チームPみく)
そして持ち前の話術により小川原湖でのデートは大成功。
その夜のこと。
「あの青年は良いと思うが・・・」
その様子をのぞき見してみると、机から手がにょっきり生えている!?
何だあれは・・・
信じたくない現実ではあったが、ある一つの結論に至った。
「彼女の左手は義手だ」
深いショックと共に、何であんな可愛いお嬢さんが義手に・・・ という念しかわいてこなかったという。
「昨日私のこと見たでしょ」
「いや、俺何も見でねえ」
「いいんですよ。小さい頃貯木場で遊んでて潰れたんです。でもリンゴの皮だって剥けますし、着物だって一人で着れます」
「なあ、一緒になろう」
思いもかけない言葉に、彼女はただ微笑むだけだったという。
翌日、家に帰って母親に彼女と一緒になりたい旨を伝えた。
しかし、「あんたが良いというならそれでいいかもしれない。でもあんたに似合う五体満足な女性がいるのではないのかね・・・」
結局、家業も逃げ出すような半人前の自分は、結婚を断念するしかなかったという話。
これが具体的にいつのことか・・・?
この話の前に終戦後の話があり、この直後に「旅芸人の一座に入った」という記述があり、あとがきには「芸歴30年になる」という記述がある。
この本が出たのは昭和60年なので、旅芸人の一座に入ったのは昭和30年頃ということになる。
また、古間木駅が三沢駅に改称されるのは昭和36年なのでこの後のことなので本件では参考にならず。
少なくとも、昭和20年代らしいということしか分からなかった。