山並みは惨劇を知っている

今、オホーツクにやたら中国人観光客が多いのは、今が春節だからという事もあるようである。
春節とは中国の旧正月のことで、中国では一斉に民族大移動が始まる。
そしてこれがまた、日本でいうGWや年末年始のような最大の旅行シーズンとなっているようだった。

一方、日本で一般的に祝うのはあくまで新暦の元旦となっている。
ちょうど60年前の元旦、遠軽から名寄本線でほどない上湧別の駅で・・・

昭和34年1月2日の休刊日が明けた1月3日の北海タイムスの社会面で、元旦の初日の出を拝んで間もない網走管内の上湧別駅に到着した貨車の中で、杣夫が殺されていたという記事を報じている。

杣夫そまふ」とは聞きなれない言葉であるが、森林労働者一般をさす言葉のようである。
ただし、森林労働にもいろいろ種類があるようで、狭義では杣夫はいわゆる「木こり」、そしてそれをトビで木を出すのが「藪出し」、そして馬で運搬するのが「馬追い」。

今回の事件の被害者として報じられた遠軽の男は記事中では「運搬夫」、つまり「馬追い」という事ではなかっただろうか。

現在は釧路市に飛び地合併されている音別町の山深い二俣の製材所から馬を連れて上湧別に戻っている最中のことであったようだ。
列車の行程としては、12月30日14:36に馬3頭を積み出発し、翌々日1月1日朝5:40に上湧別に到着。
これを別途旅客列車で戻った同僚が発見したというもので、マサカリで顔を割られて死んでいたという凄惨なものであった。

地元の上湧別厚生病院(現:JA北海道厚生連ゆうゆう厚生クリニック)で解剖の結果、死後40時間が経過と判断され、それは池北線が分岐する池田駅の構内で泊まった時ではなかったかとの判断がなされた。

ではだれが犯人か?

同じように馬を連れて、道北は美深に戻ろうとしていた同僚が池田駅発車後に姿が見えず、家族から捜索願も出ていたことから容疑が濃厚とされた。

その上湧別の事件の捜査に進展が見られたのは1月6日の北海タイムスの記事である。
それは「進展」というよりは「急転回」であった。

それまで「容疑者」として追っていた音威子府の男の方が、実は殺されていたのではないか、という事である。
1月3日の新聞では書かれていないが、それまで容疑者として行方が追われていた美深駅止めの男の居住地は常盤村、つまり音威子府だったようである。
道北の常盤村は昭和38年に「音威子府村」に改名され、天北戦も廃止され国鉄の職員もいなくなった今では人口1000人を割り、道内最小自治体となっている。

元旦に第一発見者となった製材所での同僚が、上湧別の駐在所に「やっぱりあれは音威子府の男ではないか」と申し出たのである。
それは、着衣や持ち物が遠軽の男ではなく、どう見ても音威子府の男のものであることなどからであった。
また、ポケットから出てきた出稼ぎ賃金の仕切書が音威子府の男あてであったことから、それは確定的になった。

ではなぜそれまで気づかなかったのか?
上湧別まで来た貨車であれば乗ってるのは遠軽の男だろうという先入観があったこと、死体がマサカリで人相が分からなくなるまで割られていたことがその理由として挙げられた。

兎も角も、捜査はこれで振出しに戻ってしまった。

その5日後になっても、事件の手掛かりはつかめないようであった。
1月11日の北海タイムスに、事件のそれまでのまとめが書いてあり、また殺人現場となった貨車の状況も詳細に図示されている。

書いてあることの大要は、当エントリに先述した通りであるが、この日の記事で新しく分かったのは、遠軽の男であるとされた遺体を上湧別の病院で解剖した際、その上湧別に帰省していた内妻に見せなかったということである。

しかし、ここまでの不手際を犯していながら警察は自らの誤りを認めようとしなかった。「遠軽の男も音威子府の男も追う」というコメントを出すにとどまった。

実はどちらももう殺されており、また別の男が労賃を持ち逃げしているのではないかという推測もなされた。

その翌日、1月12日の北海タイムスでは、遠軽の男から上湧別の親方に手紙が舞い込んだことを報じている。

それは11日朝のことであり、曰く、
「俺は今東京にいるが犯人ではない。やった男は札幌にいるはず。俺は口止め料をもらっただけ。しかしこうなっては娑婆にはおれない」

その筆跡は十中八九遠軽の男であろう、という同僚の見立てであった。
ともかくも遠軽の男は生きていた。

しかし、11日に上湧別に着くためには東京からは7日夜~8日朝に手紙を出していないといけないが、その時点で自分の指名手配を知り得ていたであろうか。この時点では、ただ単に「被害に遭ったのは実は音威子府の男」と地元紙に出ているだけで、全国紙にどれだけ報じられていたか。

その点を読売新聞で確認してみると、確かに「11日に上湧別に着くために東京で投函された日」と推定される8日朝に「あべこべの殺人?」と、それなりの大きさで報じられているのである。

いま拙ブログ上でできる推測としては、東京でこの記事を見た遠軽の男が慌てて手紙を上湧別の親方に出した、ということだって考えられる。

それ以上に大きく報じられているのは、「南米移民が戦後新記録」という記事である。
あの「勝ち組」「負け組」のブラジル移民?

そうではなく、戦後の一時期、政府ではパラグアイへの移民を奨励したのである。
そのことは、南米で事業展開するこの会社のページで詳しい。

曰く、

日本の戦後移住は日本が国際社会に復帰した翌年の1952年に民間主導で再開された。この移住再開は、祖国日本の荒廃と飢餓状態を憂えたブラジル、アルゼンチン、パラグアイ等の南米日系社会が現地政府に日本人移住者枠を要請し、日本政府の渡航費の貸し付けで実現したものである。
(中略)
しかし、ドミニカ共和国については、入植選定を誤り農業ができず、1961年集団帰国(595人)や南米(ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン)への転住を余儀なくされ、計画は失敗に終わった。2006年日本政府はこの失敗を認め、公式に謝罪し補償を表明した。かつて棄民といわれた移住者たちは、同年のドミニカ共和国移住50周年祭で、この謝罪を受けて「祖国日本は我々を捨ててはいなかった」とメッセージを発した。
(中略)
1963年、政府は移住行政を海外移住事業団に一元化し、新型移民船「さくら丸」を就航させ、移住政策の強化を図ったが、その後の高度経済成長(東京オリンピック、大阪万博など)とともに、移住者は激減した。1960年代末には国策移住は実質的に終焉したといえる。

戦後に行われた南米への移民は「日本は発展途上国だった頃」の徒花であったとも言えるだろう。

さて、翌1月13日になると、容疑者を「遠軽の男1本にする」の方針転換が報じられている。

一問一答も報じられているが、

問:なぜ音威子府の男を被害者と断定?
答:血液型と身体の特徴から。したがって容疑者は遠軽の男。

問:1月11日に来た遠軽の男の手紙の真偽は?
答:消印が切り取られているので不明だが、内容から本人が上野で出したのではないかと推測。

問:捜査の見通しは?
答:非常に明るい。近く解決しよう。

問:なぜこれまで遺体が音威子府の男と発表しなかった? 遠軽の男を追っていなかった?
答:追っている。

問:第三の男の存在は?
答:それはない。容疑者は遠軽の男1本。

その翌日1月14日の北海タイムスで報じられているのは、衝撃の結末であった。
それは拙ブログの直前エントリのバレエ教師殺し同様、犯人の自殺という幕切れで終わったのである。

経緯としては、1月10日の明け方3時頃、上野公園で睡眠薬を多量摂取オーバードーズしている男を警察官が発見、千駄木の日本医大に収容したが、その日の夜に死亡してしまった。

上野署から警視庁ホンテン捜査一課ソウイチに紹介したところ、着衣人相があの北海道の「あべこべ殺人」の容疑者である遠軽の男と似通っている。
13日、湯河原に住むその男の父を読んで対面させると、所持品などから間違いない、という。

また、この記事で明らかになったのは、親方あての手紙に「自殺する」と書かれていたこと、事件直後の青函連絡船の乗船名簿に遠軽の男の姓名があったことである。

さて、今日2回目となるダークツーリズムは、網走から紋別へ向かう途上となり、起点は遠軽となる。

遠軽の北見バスのターミナルは。遠軽駅から少し歩いた所になる。
紋別行きのバスは北見バスと北紋バスが共同運行しているというので、北紋バスのホームページで確認すると、15:40発の次が18:25となる。
上湧別で過ごす時間がやたら長くなるが、まあ喫茶店なり大衆食堂なりで過ごせばどうにか時間は捌けるだろう。
何よりここはWiMAXが通じるようだ。であればブログの編集だってできる。

その前に、昼も過ぎたので腹ごしらえすることにしたい。
適当なコンビニが無いので、スーパーでタッパーの惣菜寿司でも買うことにしたい。
決死モデル:トルソーさん丸尾

・・・と、感動したのは醤油とわさびが別になっていて、取り放題いう事である。
基本的に、この手の惣菜寿司は醤油とわさびが1つずつしか付いておらず、絶対的に数量が足りない。
その点、取り放題になっていればそんな心配は一切ない。
有難く2つずつもらうことにした。

なんというか、この手の惣菜寿司は鮮度的にちょっと・・・という場合が多く、どうしても醤油やわさびを多く付けてしまいがちである。

そうしてバスターミナルで15:40の紋別行きを待つことに。
そして時刻表を見てみると・・・

湧別行きの区間運転が結構頻繁に出てる!?
それも15:00にも出ていたのだという。

そんなことであれば、その15:00で上湧別に行って、その後15:40の紋別行きで紋別に行けば済んだ話である。
北見バスのホームページで調べていれば、それに気づいたかもしれない。

ただ、その15:40の後も、18:25発の間に数本湧別行きがある。
そういうことであれば、その間の湧別行きで上湧別駅の跡へ行き、鉄道記念館を見ることもできるかもしれない。

そして紋別行きの車内の人となる―――

「上湧別」というバス停は、上湧別駅の跡から少し離れた国道242号線上にある。
しかし、紋別方に立派な待合室があり、鉄道転換バスの息吹を感じる。

周囲は旧上湧別町(現在は湧別町に合併)の中心部であり、それなりに飲食店や服屋が並んではいた。

そして上湧別駅の跡へ行く道路は、今でも「上湧別駅前線」と名付けられていた。
決死モデル:チームYジャスミン

しかし、並んでいる店はもはや「駅前通り」と言えるものではなかった。
鉄道が走っていた頃を知っているであろう昭和情緒のある床屋(営業しているかどうか不明)と雑貨店がある程度であった。

そして事件現場となった上湧別駅の跡である。

雪で埋まって何も見えないが、少なくとも駅舎もホームも全く残っていない。
しかし周囲には農業倉庫や建設会社は残っている。

そして何より、上述の記事の現場写真にあった山並みの稜線は今でもそのままであった。
あの山並みだけは、惨劇を知っていたのだ―――

さて、見るだけ見たら、あとは湧別行きのバスを待つことにしたい。
ところで、立ち寄ったローソンに、昔の書店にあったような回転式の絵本立てがあったのには驚かされた。

そして中湧別駅跡に到着。
現在は「中湧別文化センターTOM」となっており、その片隅にバスの待合所もあり、観光案内所もある。

そこから少し歩くと、中湧別駅のホームと跨線橋が残っており、ラッセル車と車掌車が保存されていた。
決死モデル:チームTヤギー

余りの雪の深さに、ホームまで入ることはできない。
しかしなぜキハ22ではないのだろう? 鉄道車両でさえあれば何でもよかった?

しかし、ダークツーリズムという観点でいえば、かの事件は貨車の中で発生した事件なのだ。
そういう意味では、名寄本線に貨物輸送があった時代を彷彿とさせるいい取り合わせと言えるかもしれない。

それにしても余りの寒さに手がうまく動かない。
紋別行きのバスには1時間半以上あるので、近くの道の駅の食堂でブログを付けつつ待つことにしたい。

そしてすっかり日も暮れて暗くなり、紋別行きが来たので乗ることとしたい。
中湧別の市街地を抜けると、本当に闇夜が支配するだけである。こんなに暗い夜を久しぶりに見たような気がする。

そして、紋別駅の跡である紋別ターミナルに到着。
今日から流氷祭りが始まるだけに、ターミナルにも雪像が飾られていた。
決死モデル:トルソーさんファラキャ

あとは投宿するだけ。
ダークツーリズムのつもりが、結局は廃線鉄になってしまった。

 

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