黄色いワンピース

各国で色に関してはこういう意味があるそうで・・・

黄色ワンピと言えばアンヌT)が持ってるぞ。

ということで、長崎に来ていることとて新地中華街の門の前で着てもらいましょう。

たまにこのような、メンバーに固定した衣装というのがある。
発足当時は全員がそのような衣装であり、かつてのピンク衣裳はその頃の名残である。
だから、「ある」というよりは「残っている」という言い方の方が実態に近いかもしれない。

アンヌの場合は、間違って頭部に瞬間接着剤をくっつけてしまったので、その部分に帽子をかぶせた衣装にしよう、ということでこの固定衣裳になったのである。

さて、今は朝早いので、特段の飲食店がやっているわけでもなく。

ついでに、長崎国旗事件が発生した浜屋デパートの前でも。

長崎国旗事件」とは、昭和33年に発生した国旗棄損事件である。
長崎一のデパートであったこの浜屋で、日中友好展覧会みたいなのが開催されていたのだそうな。
当時、日本と国交があった「チャイナ」は、中華人民共和国ではなく、中華民国(台湾)の方。
その展覧会で吊り下げられていた中華人民共和国の国旗を、観客が破り捨てたのだという。
これがアメリカやイギリスの国旗であれば、「外国国章損壊罪」に問われたであろう。しかし国交のない中共だったらどうなる?
この事件は、かなりの物議をかもしたようである。

事件の第一報となる、昭和33年5月3日の朝日新聞西部本社版をここに掲げる。
当時の朝日新聞西部本社版は小倉市で発行していた。門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市が合併し、福岡市に先駆けて九州初の政令指定都市「北九州市」が発足するのは、この5年後の昭和38年である。

第一報は西部本社版でもそれほど扱いは大きくなく、真ん中より下あたりに「中共旗を引下す」という見出しで報じられているという程度である。

この記事中の「長崎駐在中国領事館」の「中国」とは、当時は中華民国、つまり台湾政府の事であった。
東西冷戦期、資本主義陣営にとっての「中国」とは中華民国であり、新聞などでは「国府」、対する社会主義陣営の中華人民共和国は「中共」と呼び分けていた。
現在のような中華人民共和国の国家承認となるのは、これから14年後の昭和47年のことである。

他の記事に目を移すと、「白山丸で帰る人」の名簿が載っている。
終戦からまだ13年、シベリアに抑留されている人もまだいた時代である。
最後の帰還船が舞鶴に到着するのは、この年の9月7日の事であった。

また、田川の炭鉱で無断欠勤した鉱員を勤労課員が殴るけるの暴行という、筑豊の炭鉱ならではの話も載っている。

さて、次は軍艦島に行くべく5番系統の市電に・・・ と思ったら、近くに長崎バスの新地ターミナルがある。
長崎バスと言えば、昨日乗ってきた島原鉄道を子会社化したという。

バスターミナルは、どこもかしこも昭和の味わいというものがある。
決死モデル:トルソーさん霧島

新地ターミナルの場合、昭和40年代から開業しているそうな。
盛岡バスセンターや後藤寺バスセンターなき今、味のあるバスターミナルの孤塁を占めることが期待される。
バスターミナル内にはイオンが入っている。

バスターミナルは、バスが斜めに頭を突っ込む方式となっており、これは盛岡バスセンターと同じ形式。

市内線のバスが盛んに発着していた。

空港行きのバスはバスターミナルの外側からの発着となっていた。
これは、長崎駅前などほかにも寄る所があるからという配慮だろうか。

さて、では軍艦島へ・・・
と思ったら、何やら由緒ありげな木造の洋館があるんだけど・・・?

何かと思えばこれは、オランダ商館らしい。

ああ、ここが出島なのか・・・
あまりにさりげない立地過ぎてスルーする所だった。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

軍艦島への船まで、1時間弱の時間があるのでちょっと見ておくか。
入場料は520円。

出島というと、歴史の教科書には関西空港のような人工島のようになっているが、現在は周囲にまで市街地が広がっていて、島であったことが信じられないような状況である。

オランダ商館の他には、まるで時代劇のセットのような街並みのセットと、出島の何分の一かの模型。

それと、日蘭国交150周年みたいなミッフィー?ムスティ?の立て看板。

もう少し、出島を見るだけでも時間を取ればよかったのかもしれないが、時間が押しているので程々にしておくことにする。

さて、今度こそ市電に乗って軍艦島ツアーの桟橋へ行くことにしましょう。。。

 

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