中国山脈横断

ちょっと思うところあって中国山脈を横断することにしたい。

ということでサンライズ出雲の中の人となる。

松本清張の「点と線」では、東京駅のトリックのシーンは15番線の横須賀線ホームから13番線の20系「あさかぜ」を見たものであったが、今や11番線より先は東北新幹線や北陸新幹線のホームになってしまい、サンライズは9番線からの発車となってしまっている。
決死モデル:トルソーさん丸尾

帰宅ラッシュの中で東京を発車した「サンライズ出雲・瀬戸」は、退勤客でひしめく京浜東北線のホームを横目に悠々と走る。
この非日常的な愉悦こそが夜行列車の醍醐味である。

今回の個室は下段になるので、ホーム踏面と同じ高さに窓が来る。カメラなんて持ってたら人生がどうにかなりそうな位置に来たが、幸いスカートの短い女性はこのメアトルソーさん)以外視界内にはいない。

横浜を出発するとあとは通過駅だけとなってしまい、こちらも寝るだけとなる。

明日の朝も早いので、黒霧島を飲んであとは寝るだけである。

 

・・・そしてよく朝起きた時は、まだ薄暗い加古川あたりであった。
どうやら寝過ごしたという事は無かったようである。

そして姫路到着。
下りのサンライズにとって、朝の有効時間帯の最初の停車駅は姫路となる。
決モチームWBノノナナ

向こうに停まっているのは末期色の岡山行きである。
姫路は新快速の終点であると共に、山陽路の入り口でもある。

でも今回はこの末期色の電車には乗らない。
また、あまりに朝が早すぎるので姫路駅の有名な蕎麦屋「まねき」も開店していない。

今回はキハ127に乗って姫新線で行くことにする。
姫新線のホームは中間改札で区切られている。それもそのはずで、姫新線は播磨新宮あたりまでしかicocaは使えないはずだった。

姫新線はローカル線という割には、運行頻度が意外に高く交換駅が多く、このように新車まで導入されている。
また、車両基地も姫路駅の高架化を機に余部に移転しており、区間運転もたまにある。

このキハ127の3両編成自体も播磨新宮止まりで、播磨新宮からは佐用まで乗り換えることになる。
決死モデル:チームPメイ

このような運用の仕方は全国のローカル線のいたるところにあるような気がする。例えば宗谷本線だと名寄以北とか、土讃線の須崎から先とか。
2~3両の列車が必要な区間と、単行で十分な区間を截然と区切って運行する方が効率的であるという事だろうか。

そんな都市圏と切り離されたローカル区間とはいえ、前述の宗谷北線みたいな末期的なイメージを考えているとそうではなく、列車交換もそれなりにある。

三日月でも列車交換があったが、向かいの山は三日月型に伐採されていた。
決死モデル:トルソーさんナイ

この三日月駅は今でこそ佐用町にあるが、2005年10月まで佐用郡三日月町であり、ローカル線の中ではそれなりに規模の大きな駅である。
そして、その三日月町の町章はあの三日月の形であったという。何とシンプル・イズ・ベストな町章であることか。

そして現在は同じ佐用町となっている佐用駅に到着。
1994年に智頭急行が開業してから、この山間の小駅はジャンクションとなった。
とはいえ、姫新線の線路は智頭急行につながっているわけではない。

そしてここからは20m車のキハ127から、16m車のキハ120の津山行きに乗り換えることになる。
ここから先、輸送量はまた落ちることになるとあからさまに示している。

そして津山からまたキハ120の新見行きに乗り換えることになる。
決死モデル:チームR天美

津山駅は昔からの木造駅舎であるが、現在外面だけが改修工事中であった。
せっかくなら外装だけでも国鉄の頃のように古いままでいいような気もするけど・・・
ちなみに、ホームは相変わらずキハ58「みささ」「みまさか」が走っていた頃のような古式蒼然とした雰囲気である。

その古式蒼然としたホームから新見行きは出発する。
岡山県の人口希薄地帯を往復する単行のキハ120。

そして列車交換のために久世で3分か4分の停車。
駅舎側のホームに停まったので、3~4分あればこの程度の決死は訳もなく可能である。
決死モデルチームRスマレ

久世駅の駅舎は味のある木造駅舎であるが、この久世駅の近くには、明治建築で有名な遷喬小学校の旧校舎がある。この校舎は「ALWAYS 三丁目の夕日」でも撮影に使われたほどのものである。

そして新見に到着。
「姫新線」の終点は実にこことなる。
かつては姫路からこの姫新線と芸備線を通って、つまり中国山地を横断する普通列車が広島まで走っていたのだという。
決死モデル:チームP桃園

向こうには電化した伯備線のホームが見え、115系の米子行きが出発していった。
しかしこちらはまたキハ120に乗り換えて備後落合を目指す。

その備後落合行きはまだ時間があるので、駅前を散策することにしたい。

この新見一帯は「備北」というらしく、地元のバス会社も「備北バス」というらしい。備中高梁日本車があるというので、かなり営業エリアは広いようである。
そして大阪梅田まで直通バスが走っているらしい。
決モチームR小沢

この中国山地を横断する鉄路は今や中国道を走るバスに食われてしまっている。
それで「みささ」「みまさか」も今では廃止になっている。
中国道がなかったら「みささ」「みまさか」は「はまかぜ」同様に特急化してキハ187化でもしていたのではないだろうか。

さて、良い時間になったので備後落合行きに乗りましょう。

新見からの芸備線・・・とは言っても、新見の次の備中神代までは伯備線となる。
この区間は、SLが走っていた頃は三重連の撮影のメッカであった。

そして備中神代から先が芸備線となり、1日4往復だけの区間となる。
その4往復も東城までであり、東城から先は実に1日3往復だけとなる。
ちなみに、東城は広島県庄原市となり、岡山県側に1往復の通学列車が出ている、という事になる。

その1日3往復だけの列車の終点・備後落合に到着する。
備後落合は山間のジャンクションというよりは、盲腸線の終着駅が3つ集まったというような、上総中野を負の方向にさらにパワーアップしたような駅であり、周囲に人家は無い。
そんな特殊すぎる駅だけに、ここでの決死モデルは楼山チームY)を起用することにしたい。

それでも昔は、陰陽連絡急行「ちどり」等が走り、貨物輸送もあったので国鉄職員が何十人も勤務していたのだという。
名実ともに「国鉄の街」がこの山間深くに展開されていたのだ。

それが今や無人駅で、秘境駅にすらカウントされているという状況である。

さて、今度は三次行きとなり、車両はやはりキハ120となる。
ただし塗色は岡山色から広島色となる。変化はそこだけである。ちなみに木次線のキハ120は米子色となる。
考えてみれば備後落合は、国鉄時代も岡山局・広島局・米子局のジャンクションでもあったのだ。

そして備後庄原でまた列車交換のため5分程度の停車。
決モチームPウメコ

この庄原は水泳の金藤理絵の出身地であるらしい。
また、駅前には「麦と兵隊」等の著作で知られる火野葦平の母の出身地である旨の石碑が立っている。
ただし火野本人は北九州の若松出身のようである。

そしてキハ120は終点の三次を目指す。
この先、福塩線に乗り換えるので、塩町で乗り換えてもよかったのだが、そうすると三次~塩町間が未乗という事になり気持ち悪い。
それで終点の三次まで乗ることにした。

そして三次に到着。
これで、佐用~津山~新見~備後落合~三次にわたる16m車キハ120の長い旅は終わった。
決死モデル:チームY間宮

三次に来るのは実に三江線に乗った時以来である。
三江線もやはりキハ120であった。

ここから福塩線に乗るが、車両はキハ40となる。それこそ「国鉄広島」。

塩町までさっききた線路と同じところを戻り、福塩線に入ることになる。
備後府中までは非電化区間となる。

別に備後府中というのは正式名称ではなく、「府中駅」というのが正しいのであるが、京王にも府中駅があり、同じ広島県の山陽本線沿いにも府中町があるという状態である。
それでこの府中が「備後府中」として区別されるのだという。
決モチームY宇崎

ともかくもこの備後府中から福山は電化区間であり、国鉄時代から独自カラーの105系が走っている。
この区間は仙石線や富山港線と同じような、買収国電区間なのだという。

福山まで到着すると、日はとっぷりと暮れていた。
山陽本線の快速は117系のである。
117系も国鉄広島にかかれば末期色になってしまう。
決死モデル:チームWBラジエッタ

あとは三原の宿を目指すだけである。
なぜ三原にしたか? それは明日は呉線で旅行したいためである。
尾道であれば観光地なので、それなりのホテルがあるかもしれないが、朝早く出たいので、呉線に入る時尾道~三原間の時間がろすとなる可能性もある。

そして三原に到着。
三原はタコで有名のようである。
決モチームWBナギサヤ

後はもう寝るだけ。

 

 

 

 

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