金盾の向こうからこんにちは。
【ニュース】トランプ大統領、Twitter禁止の中国でもツイート。独自装備を持ち込んでの投稿か。中国は金盾(グレートファイアウォールとも)でネット規制が厳しいが、それをかいくぐってのツイート。https://t.co/PU4o292sIG #トランプ大統領 #Twitter #ツイート pic.twitter.com/wVZrTJweXy
— MdN Design Interactive (@MdN_tsushin) 2017年11月10日
単にこれは香港sim使っただけ、という説明はできないのだろうか。
さて、その金盾の向こうの北京の宿であるが、やたら高級だった。
こんな感じでロビーには緑があふれており、まるでリゾートホテルのようである。
(決モ:チームPみく)
それ以上に感動したのが、ホテルの各部屋にあったアンケート用紙で「希望接到 您的宝貴意見」と書いてある。
「您的宝貴意見」ですってよ。
自分が中国に初めて来たのは、まだ香港がブリティッシュ・ホンコンで、空港も啓徳空港だった。
そこから九広鉄路で羅湖まで行き、深圳に歩いて入ったのだった。
香港の資本主義的な明るい雰囲気とは一転、すべてが古臭く暗い雰囲気になった。
その時、深圳駅のおばちゃんが「ちょっと!あんた!そっち入っちゃダメ!」と怒鳴った。
ここで「中共」を感じたのだった。
そんな中共で「您的宝貴意見」なんて言葉を目にするとは・・・
そして北京駅へ歩く。
北京駅へも何回か来たことがあるが、少なくとも自分の記憶の中では北京駅の前というと猥雑な市場となっており、今みくが立っているあたりは、旅行カバンを売る店が何件もあったような気がする。
今やそんな面影すらなく、銀行の高層ビルな立っている。
もはや自分の知っている北京などどこにもないような気がした。
もっとも、自分が北京に来ること自体が10年ぶりになるので、ある意味当たり前なのかもしれないが・・・
さて、北京駅の方であるがこちらは相変わらずである。
(決モ:チームWB嵐山)
北京駅は1959年つまり昭和34年の建築で、つまり中ソ対立やそれに伴う大躍進政策が始まった頃となる。
戦後すぐ、少なくともソ連の指導者がスターリンでいる間は中国とソ連は仲が良かった。
ところが1953年にスターリンが死去、1955年にフルシチョフはスターリンを批判する声明を出した。
これを中国共産党は「ソ連修正主義」(蘇修)と批判、中ソ対立が始まることとなる。
1958年には、「15年間でイギリスに追いつき、追い越す」と、農工業の生産における大躍進政策を決定する。
農工業の生産はいいとして、農業や工業で、確かな学識を持った人が当時の中国にいたかと言えばいなかったのである。
製鉄に必要な論理や資材もないまま農村でたたら製鉄を始める、生態系に関する学識もないまま米を食い荒らす雀を絶滅させたら、雀を天敵としていた蠅や蚊やイナゴが大発生する・・・
それでも、各地区の共産党は「食糧増産」と報告する。「そんなに増産したなら輸出を増やしてソ連への借款の返済に充てよう」と農村から一切の穀物がなくなる。
結局、数千万の餓死者を出しただけに終わってしまった。
翌1959年に毛沢東はこの失政の責任を取り主席を辞任している。
さて、北京駅の駅舎へは、乗車券を見せないと入ることができない。
つまり、改札口が二重にあるようなものである。
北京駅の待合室や改札口は、「中共」の雰囲気を今に残している。
子の改札口はシベリア鉄道でモスクワへ留学するエリート学生も、文化大革命で農村に下放される紅衛兵も見守ってきただろうか。
ただ、もう発車までギリギリなのでそんな情緒に浸っている暇もない。
さっさと改札を通ってウランバートル行きに乗るだけである。
ウランバートル行きのK23列車は7:27発。
ただし、日本時間にすれば8:27となるのでそれほど朝早いという感じはない。
ちなみに、このウランバートル行きK23列車は週に2回だけの運行で、週に1回はこのスジがモスクワ行きK3列車となる。
そのせいでかどうか分からないが、サボには中国語で「乌兰巴托」、モンゴル語で「Улаанбаатар」の他に、ロシア語で「Улан-Батор」と書いてある。
余談ながら、キリル文字の「У」はロシア語で「ウ」だが、モンゴル語は「オ」になるので、「Улаанбаатар」はモンゴル語にすると「オラーンバータル」になる。実際、東京外国語大学モンゴル語科のページでは、「モンゴルの首都オラーンバータル」という書き方をしている。
さて、ホームはと言えば発車ギリギリなので、人はほとんどいない。
物売りすらも・・・!
これが中華人民共和国だろうか。何もかもが変わり過ぎである。
・・・と、7時25分。
列車は音もなく出発し始めた。
え!?
まだ2分あるけど・・・
日本だったら数秒早いだけでも大問題になる所である。
さすが中共だけにケンチャナヨなんだろうか。
さて、今回乗る寝台車であるが、硬臥でも軟臥でもなく、そのまた上の「高包」という区分となり、お値段は2,403元。
支払い時のレートで44,320円払って購入した超高級寝台車であり、それこそ大日本帝国鉄道省のマイネ37かと思う程の豪華さである。
何と言っても個室の中にトイレとシャワーが付いているのだ。
(決モ:チームTアンヌ)
北京を発車したK23列車は、万里の長城はトンネルでくぐるもよう。
それにしても高包の旅はまるで天国である。
旅客サービスも前進!前進!前進!進!している。
さて、客車そのものであるけれど、さっきのサボもそうだったけど国際列車には協定でもあるのか、中国語、英語、ロシア語の3か国語で表記してある。
中国だと、子供切符の基準は身長なんだろうか。
1.5mが「児童購票基準」で、1.1mが「小児購票基準」となるようであるが、そうすると欠損バーの常連小川くんちゃんさん(1.2m)は子供切符で乗れるだろうか。
列車は中国の田舎を行く。
万里の長城の先は、まだまだ開発は進んでいない所もある。
北京オリンピック前どころか、いまだに人民公社のままじゃないかというような所もある。
最初の停車駅は沙嶺子西となる。
沙嶺子? どこだそりゃと思ったらどうやら張家口の南の郊外にあるらしい。
してみれば高速鉄道の開業後増えた客運専用駅?
(決死モデル:チームY間宮)
兎も角も、10分ぐらい停まるようなのでホームの外に出て何か買うか・・・と思ったら、そもそも外に出ることができない。
それも、ホームの階段に柵があって、乗客以外はホームに入ることすらできない。
中国の列車の旅って、こんなに無機質だっただろうか・・・!?
大同にも停まるが、これは運転停車で客扱いはしない模様。
大同と言えば、中学校か高校かの社会科の授業で石炭が取れる都市として出てきたはず。
それなりに人口規模が大きい都市だと思うのだが客扱いはない模様である。
大同ほどの大きな駅に止まらないで、ではこの先どこに止まるのかというと、集寧南、朱日和に止まるのだという。
集寧南は、かの「最後の中国SL路線」集通線の分岐駅として名を馳せたので知っているが、朱日和なんて知らない。町としてもそんなに大きいのだろうか・・・? 確かに国境に近いだけにモンゴル人、いやモンゴル族は多そうではある。
少なくとも、大同を通過してまで停まる駅とも思えないのだが、こうした停車駅の判断をどのようにやっているのか、知りたいところではある。
さて、腹は減っているものの、昨日のエントリの通り、首都空港ではVISAデビットが使えず、使える人民幣もかなり限られている。
そしてまた、夕食時になるとメニューのほとんどが「没有」になってしまい、「だったら啤酒と米飯持ってこい!」という事でこんな夕食に・・・
(決モ:チームWBミサメグ)
ちなみに、食堂車はほとんどが外国人観光客である。
黄色人種は自分1人で、食堂車の係に中国語で話しかけられたが、ごめんなさいするしかない。
結局、途中の集寧南でも朱日和でも、ドアが開くわけでも物売りがいるわけでもなく、つまりは食料はこの食堂車にあるものがすべてという事になってしまう。
そうなると、飢えを感じる前に後はもう寝るしかない。
高級な旅というのはこんなもんなのか・・・?
空きっ腹を抱えながらも列車は赤い夕陽の満州を行く。
列車は国境の二連に到着する。
二連の到着は20:20だったはずだが・・・ と思って時計を見てみると、確かに20:20なのである。
20時台というのはこんなに明るかっただろうか?
パスポートの無い状態で、他の外国人観光客同様にホームに出ると、途端に日が暮れだした。この写真を撮ったのは20:37である。
(決モ:チームY楼山)
しかしパスポートが無いだけに、ホームの外に出ることもできない。
車掌に「どこかで食いたいんだけど・・・」と聞いてみるも「だめ」。
基本的に、二連には1:00ごろまで停車しているらしいが、別に1:00までまるまるホームに出ていることはできないようである。
車内に乗せられて、ドアが閉まり国境方面に出発。
この時点で、まだパスポートは返されていない。
どゆこと!?
列車は蔵に入る。
ああ・・・ここで台車交換作業をするのね。
中国の鉄道線路幅は1435mmの国際標準軌であるが、モンゴルは1520mmのソ連ゲージになる。なぜならモンゴルはソ連の16番目の共和国であり、1949年のモンゴル国鉄の創立時点でソ連政府が半分出資していたから。
ちなみに中国で夜の1時というのは、日本では夜の2時という事になる。
眠くてしょうがない。しかしパスポートを返してもらい、その上にモンゴル側でまたパスポートチェックがあるという事になる。
これはつらい・・・
全車両の台車交換が終わったら、列車は二連駅側に戻る。
ここで中国の出国印が押されたスタンプ帳パスポートを返してもらい、いよいよモンゴル行きとなるのだった・・・。