久しぶりのダークツーリズム

本日6月6日は、以下の記念日となっています。

【日本の記念日】
・楽器の日:芸事は6歳の6月6日から始めると上達するとされることから
・邦楽の日:上に同じ理由で、日本の伝統音楽を大切にする日
・いけばなの日:芸事始めに縁起が良いとされる日であることから
・かえるの日:「けろ(6)けろ(6)」の語呂合わせから
・飲み水の日:全国水道週間の一環として、水の大切さを考える日
・補聴器の日:「聞こえ(6)よく(6)」の語呂合わせから

【世界の記念日・出来事】
・D-Day記念日(1944年):連合軍がノルマンディー上陸作戦を実行したことから
・スウェーデン国旗の日:グスタフ・ヴァーサ即位と憲法制定を記念して
・プーシキン記念日:ロシア詩人プーシキンの命日(1837年)であることから
・顕忠日(韓国):戦没者を追悼する国家記念日として制定されたことから

今日は外勤で東京の本社に来ているので、久しぶりにダークツーリズムを入れることにしたい。
かれこれ2023年3月11日盛岡に行った「角田屋事件」以来だ。

定時になって、職場を出ることにする。
ここから銀座まで歩いて行くことにしたい。

この間、今回行くダークツーリズムに関して解説することにしたい。

事件は、昭和31年1月19日付の朝日新聞によって報じられた。それによれば、前日の1月18日午後3時ごろ、東京都中央区銀座東7丁目にある第二東京弁護士会副会長の事務所兼自宅で、52歳の妻と22歳の娘(中央大学法学部)が刺殺されているのが発見されたという。現場はひどく荒らされており、室内の様子は「めちゃくちゃだった」と伝えられている。

この殺人事件を受けて、築地警察署に捜査本部が設置され、本格的な捜査が開始された。銀座での殺人事件は、前年(昭和30年)3月5日に雑貨商が殺害されて以来のことであり、界隈には大きな不安が広がっていた。

当時の世帯主である弁護士は、中央大学の理事も兼ねており、その関係の用事で外出していた最中だった。警察は犯行の手口から、犯人は2人組か3人組ではないかとの見方を示した。また、この家に同居していた20歳の長男は、受験勉強の疲れで眠っており、事件にはまったく気づかなかったという。

事件当日、昼ごろには向かいのパーマネント屋に、不良風の3人組が「広告を契約してくれ」と言って訪れていたことが判明し、その関係性についても調査が進められた。

銀座という土地は、警察の捜査上でも極めて特殊な地域であった。無数にある飲食店には、いわゆる“浮き草”のように、店員が入っては辞め、また入っては辞めを繰り返す。そうした一人ひとりを追う必要があり、捜査は困難を極めた。また、このような場所に自宅を構えること自体が、よほどの資産家であることの証左ともいえ、結果として犯罪の標的になりやすいという事情も抱えていた。

事件は、驚くほどあっさりと解決をみた。その顛末は、昭和31年1月21日付の朝日新聞夕刊に掲載されている。

1月20日、遠く離れた愛知県挙母市(現在の豊田市)にある挙母警察署・長興寺駐在所に、犯人が自首してきたのだった。

ちなみに、挙母市が豊田市と改称されるのはこの3年後、昭和34年元日である。
そしてその昭和34年の日本シリーズで優勝した南海ホークスのエース・杉浦忠は挙母高校(現在の豊田西高)出身であることも記しておきたい。
また、この事件が起きたのは昭和30年度にあたる時期であり、この年度の立教大学野球部では春に大沢親分(大沢啓二)らによる砂押邦信監督排斥騒動が起こり、学長の松下正寿まで巻き込む事態となった。さらに秋には、練習の厳しさから当時2年生だった長嶋茂雄と杉浦忠がともに「地元の中日ドラゴンズに入団させてほしい」と直訴し、やんわりと断られたという逸話もある。

話を本筋に戻すと、銀座で起きたこの凶悪事件の犯人として自首してきたのは、銀座6丁目の中華料理店に勤める27歳の出前持ちの男だった。彼は、永代橋を渡った先にある自宅に住んでおり、事件現場である銀座7丁目の弁護士宅には、以前に出前で訪れたことがあったという。動機は「北海道旅行の資金が欲しかった」という極めて身勝手な理由であった。

1月18日当日、男は午後1時ごろ弁護士宅に侵入し、物色している最中に応接間にいた弁護士本人と鉢合わせになった。咄嗟に「兄が自動車強盗で城東警察署に逮捕されている。弁護を頼みたい。お金も欲しい」と弁護士に嘘をついた。弁護士はそれを真に受け、親身に弁護を引き受けてくれたという。にもかかわらず、弁護士が中央大学の理事としての用事で外出すると、残された家族を惨殺して金品を奪うという、許しがたい強盗殺人を実行したのである。まさに人間の屑と言わざるを得ない。

この男がどのような経緯でそのような存在になったのかも、報道では触れられている。昭和15年に渋谷区広尾の小学校を卒業し、昭和20年には世田谷中学校(現在の世田谷学園)を卒業したとされているが、同校の記録では昭和15年に1年で退学したことになっている。昭和20年には愛知県挙母に疎開し、トヨタ自動車の食堂に勤務。戦後の昭和23年春には京都の丸物百貨店、昭和27年には京都市内の食堂などを転々とし、最終的には昭和30年春に永代橋近くの実家に戻っていた。

その実家には父母が健在で、父は世田谷区役所に勤めていたという。しかし取材に対しては、「私らは何も知らない。関係ない。迷惑だ」と語り、どうやら家庭内でも厄介者として扱われていたことがうかがえる。

愛知県で逮捕された27歳の犯人は、逮捕の翌日である1月21日の朝、鳥羽発の急行「伊勢」に乗って東京へ護送され、築地警察署の捜査本部へと連行された。

かつて昭和28年に発生したバー「メッカ」事件の犯人が京都で逮捕された際や、昭和29年のカービン銃事件の犯人が大分で逮捕された時には、いずれも野次馬が詰めかけ騒然となったが、今回はそうした混乱もなく、比較的スムーズな護送であったという。

犯行の動機についても報道されている。それによれば、犯人はかつて弟に金を持ち逃げされ、その金を補填しようと窃盗を重ね、これまでに2度も刑務所に入った経歴を持っていた。金沢刑務所を出所後は、そろばん3級の資格を取得するなど更生の意志を見せていたが、再就職の道は険しく、最終的には北海道に渡って開拓農民になろうと考えていた矢先の出来事だったという。

犯行後、永代橋近くの実家に別れを告げようと試みたものの、家に入ることも叶わず、外から家族の幸福を祈るだけだったと語っている。しかしその後、逃避行の途中に乗った列車の中で、突如として被害者である母子の顔が目の前に浮かんだように感じ、恐怖に駆られて自首を決意したという。

なお、犠牲となった弁護士は人権派として知られており、妻と娘を無残に殺されたにもかかわらず、自らの「死刑廃止」の信念を変えることはなかったという。この一点において、彼の思想と姿勢は揺るがぬまま貫かれた。

さて、神谷町方面から新橋を通って、銀座まで歩いてきたが、銀座にも空の広い所がある。

事件の終わった銀座7丁目のビルは、現在でも存在し、ビル名がその被害者の苗字の名前となっている。

現在は1階は焼き鳥屋になっている。

銀座なので、ドレスコードでもあるかと思ったが、全く庶民的な店構えで、それも誰も客がいなかった。

とはいえ、焼き鳥は炭火を炙って焼く昔ながらの焼き方で、普通に高級感のある美味な焼き鳥だった。
それとノンアルコールビールで4,700円ぐらい。

店を出る頃にもまだ日はあった。
あとは帰ることにしよう。

銀座4丁目を回って有楽町駅へ。
ここから秋葉原へ。

秋葉原からは会社のICカードでTXに乗って戻ることにする。

そしてつくばに到着し、しばらくガストで日記付けたりヴィーナス児の小説書いたり。

そして22時過ぎに帰ることにする。

そして風呂に入る。
風呂から上がったら0時すぎていた。

ここ前の決死出演は1名(累計3名)。

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