臨終の際にもそこは異国だ

本州は高気圧に覆われている。
岩手県内陸地方は晴れで推移する模様。
最高気温は15℃であるという。

岩手県北バスの盛岡・八戸・三沢行きの車内で目が覚めたのは、盛岡到着直前だった。
急いで降りる支度をしないといけない。

盛岡駅西口に到着した頃には、まだ暗かった。
直前では、同じ岩手県北バスの宮古行きが到着している。

まだ5時になっていないが、盛岡駅の待合室で待つことにする。
あそこだったら暖房も効いているはず。

と言うことで、盛岡駅の南側の待合室へ。
今日は、最初はダークツーリズムなので、新聞記事の解説に入りたいが、今日はかなりの分量となるのでかなり長くなる。
とてもとても朝だけでどうにかできるような話ではなさそうだ。

ところで、こんなに朝早いんだったら、山田線にでも乗ろうか。

ということで、盛岡駅の2番線を7時43分に出る上米内行きの中の人となる。

晴れた空の下で左手には岩手山が雄大に見える。
1両編成のキハ110は住宅地を東に進んでいく。
乗客は乃公おれの他にもう1人いたが、山岸で降りていった。山岸駅を使う客なんて初めて見た。

そして、山岸を過ぎると田園風景となり、それを過ぎると山道となっていく。

ほどなくして、上米内に到着した。
山田線が、割と最近まで連鎖閉塞だった頃は駅員がいたのだが、完全に自動閉塞とってからは駅員はいなくなり、完全な無人駅となってしまった。

ところで、上米内駅がある盛岡市米内地区は、漆で町おこしを図っているようだ。

そして、6分だけ上米内駅にいて、ディーゼルカーは盛岡駅に戻る。
それに乗って戻ることにしよう。

今日の盛岡の最初は、先述の通りダークツーリズムとしたい。
それは、戦後の混乱期のことである。

昭和21年8月28日の岩手新報(岩手日報とは別)の広告欄に「洋品雑貨各種品揃へ〜」と、住所も電話番号もない商店の広告が出された。

普通に見れば、それはごく普通の商家の広告だったかもしれない。
しかし、その商家には盛岡警察署の若い署員が2名下宿していた。
「これは何かがある」
何より、この商家の中学生の息子が帰ってきていないのだ。

商家の女将に聞いても、何も言いたがらない。
署員は、密かに盛岡警察署にことの次第を報告することにした。

これが、後年まで県下を騒がす「角田屋事件」の端緒であった。

この事件が世に出たのは、昭和21年9月2日の岩手日報の記事である。
見出しは「身代金五万円付で中学生の誘拐恐喝事件」。

それは、東京支局からもたらされたものであり、上野駅を管轄地域にもつ下谷警察署の署員が、この誘拐事件の犯人を捕まえたと言うのである。
しかし、主犯格は別にいて、それはまだ逮捕できていないと言うのである。

これまでの経緯としては、8月24日に、盛岡市内の商家の中学1年生が、無断で行方不明となったところから始まった。
ちなみに、この時代なので、中学1年生といっても旧制中学のことであり、盛岡中学校なので、現在の盛岡一高である。

そして、その商家に金5万円を要求する脅迫状が舞い込み、中学生の母親である女将が5万円を持って汽車に乗って上野駅まで行ったと言うのである。

翌9月3日の岩手日報には、事件の経過や被害者のプロフィールがより詳細に記述されている。

ちなみに、犯人が上野で逮捕されたのは、8月29日のことであり、翌8月30日の午前中には盛岡まで護送されてきたのだと言う。
しかし、その犯人は素性に関して一切口を割っていなかったのだと言う。

音楽の、事件当日の8月24日については、どこかから電話があり、「学校で作業があるから出てこい」と呼ばれて、自転車で行ったのだと言う。
この時、被害者は中学校に入学して半年も経っていない時期。すべての教師の顔を覚えているわけではなかった。

そして、8月26日、突然脅迫状が舞い込み。「あなたの息子は丁重にお預かりした。返して欲しければ5万円出せ。金の用意ができたら「商品各種取揃え」と岩手新報に広告を出せ」という内容だった。

色を失った母親は、どうにか金策して5万円を持って、上野行きの汽車に乗り込んだ。

ともかくも、案ぜられるのは被害者の行方である。
昭和21年9月4日の岩手日報では、3パターンの推測を立てていた。

A:電話で、盛岡中学に呼び出された被害者は、途中で犯人の使いに「君に用事のある人が待っている」と誘われて、自動車に連れ込まれたのではないか。

B:電話をかけた時点で、被害者の少年が家を出て行くところから尾行して、適当なところで声をかけて拉致したのではないか。

C:犯人と被害者は知り合いであって、学校へ行くと言う口実で家を出て、どこかに遊びに行ったのではないか。

そもそも、被害者は中学1年生にしては、金遣いの荒い方だったのだという。
その辺は、坊ちゃん気質だったようである。

事件は解決の気配がなかったが、そのようにしていると、釜石でも赤ちゃんの誘拐事件が発生した。
このことが、昭和21年9月7日の岩手日報で報じられている。

また、この事件の見通しであるが、盛岡警察署で刑事だったことのあるOBに言わせれば「上野で捕まった男が主犯ではないか」ということであった。

このOBに言わせれば「この事件は面白い。やってる方はさぞ面白いだろう」と、ややもすれば不謹慎なことを言っている。
また、殺されているとすれば北山あたりではないかとも推測している。
後日判明するところでは、それは当たっていたのだから刑事のカンというのは鋭い。

しかし、その上野で捕まった男であるが、まるで口を割らないと言うのである。

ちなみに、電話の件に関しては新しい事実が出てきた。
盛岡中学に近い上田郵便局で、行方不明当日の8月24日に盛岡中学の教員を名乗って電話の取次を依頼してきた男がいたというのである。
その事を、上田郵便局の事務員が覚えており、「国防色の服を着ていて、背の高い盛岡弁の男だった」という。

当の名前を使われた盛岡中学の教員は、その当時は矢巾町の方に行っており、なおかつ上田郵便局から電話をかけた事などないとも言う。

翌9月8日の岩手日報でも、捜査が相変わらず進展していない事を報じている。

上野で捕まえた犯人は「主犯格である隊長は大阪に高飛びした」などと言っている。
それで、大阪府警察部に照会をかけたのだという。
この事件に関する情報はそれだけで、目新しいのは犯人の顔写真があることだけ。

他の記事に目を移すと、釜石市内であった類似犯については、すでに赤ちゃんは松倉駅前で見つかり、犯人の女の目星もついたのだという。
どうやら放浪癖や夜尿癖があるようで、それを子供のせいにするためにいつも子供と一緒にいるのだという。
令和となった今の感覚でいえば、福祉のお世話になるようなレベルの女だったのではないだろうか。

また、三重県の宇治山田では国労の大会があったようで、些細な文言で大紛糾となったようだ。

9月15日になると、特集記事として「捜査に協力する座談会」などというシリーズものの記事が出ている。
「興味本位ではなく事件の解決に資するために・・・」というのがまた、マスゴミのマスゴミたる所以である。尤も、それを買って読んでいる、こうして役立てている読者がいるからこんな記事もあるのだろうが。本当に事件解決に役立てたいなら警察に情報を提供しなさいって。
ともかくも、以下のギャラリーにてご覧ありたい。

座談会に参加したのは、警察関係者、岩手医専(現:岩手医大)や岩手師範学校(現:岩手大学教育学部)の心理学専門家、それに、被害者の母親まで駆り出しているのである。
令和の今なら「マスゴミ」として世上の指弾にあっているのではないだろうか。

昭和21年9月19日の岩手日報では、今度は横浜で住友家の令嬢が誘拐されたことを報じている。
警察関係者を装って、巧みに誘い出した事件であるという。
こちらのほうは、すぐに解決したようで、復員者の男だったと言う。
このように、全国的に誘拐事件が横行している時期でもあった。
ちなみに、後日わかることであるが、この事件の犯人もまた復員者だった。

また、この事件に関して言えば、9月17日と18日は犯人の取り調べを休んで、頭を冷やさせる時間としたようである。
そしてまた、被害者の実家である商家の内情を調査することにも振り向けられた。

他の記事に目を向けてみると、米の物価は一升あたり40円、ヤミ米では一升あたり100円と言われていた。

月が変わって、10月9日の岩手日報では、この事件が最悪の形で解決したことを報じている。

被害者は殺されており、南部家墓地のある旧桜山に埋められていたと言うのだ。
それは、上野で捕まってから一切を黙秘していた犯人が口を割ったためでもあった。

そして、これまで名乗っていた名前を偽名であり、本当は台湾からの引揚者で、東磐井郡磐清水村からの男だということもわかった。

その当時の引揚者の例に漏れず、その男の生活も非常に厳しいもので、闇商売もうまくは行っていなかった。
それで、1万円ばかりの金が欲しくて、取引をしたことがある。盛岡市内の商家の息子に目をつけたと言うのである。

そしてまた、ここまでの大事件を起こしてしまうと、世間の狭い岩手にはいられるはずもなく、どこかに行方をくらましてしまったのだと言う。

翌10月10日の岩手日報では、あれだけ目標続けていた犯人がどうやって自白したのか、ということについて報じている。

やはり、この紙面でも、模倣犯が多かったことを報じている。

また、報道協定などなかった時代であるだけに、事件の最初の方から報道合戦となり、その新聞を見た便乗犯が身代金を要求してくるなどといった副産物もあったようだ。

ちなみに、誘拐事件に関する報道協定は、昭和35年の雅樹ちゃん誘拐事件を契機として始まり、昭和38年の吉展ちゃん事件で初めて適用されたものである。

事件の解決を決めてとなったのは、犯人の所持品に金沢市内の呉服屋の伝票があったということだったと言う。

翌10月11日の岩手日報では、台湾からの引揚者である犯人が、岩手県引揚者更生連盟東磐支部に送った手紙を紹介している。
「東磐」とは東磐井郡のことで、大船渡線の一関〜気仙沼の中間あたりのこと。

「お骨折りに大変感謝している。自分は今年3月に汕頭から引き揚げてきて、まだ1度もそちらと面談できていない。一家7人でこれまで生きてきた事は不思議なことだ。そちらの連盟では、牛の入手する見込みが立っていると聞く。そちらの連盟の中で、ひと役買わせていただけないだろうか。また、布団などの物資を融通していただけないだろうか」

もし、このような願いが聞き入れられていれば、このような事件は起こさなかっただろう。

さて、ここからダークツーリズムへと入りたい。
盛岡駅から開運橋を渡って、大通りへ向かうことにする。
盛岡駅前の商店街もすっかり様変わりしており、ここに立っている建物のうち、新幹線開業前の「盛岡民衆駅」を知っている建物はほとんどないのではないだろうか。

大通りのさわや書店の盛岡駅寄りの方が、かつての商家だったのではないかと推測される。
平成の初めごろまでは営業していたようだ。

そして、被害にあった中学生は、映画館通りや日影門の通りを通って通学していたのではないだろうか。
盛岡最大の歓楽街である映画館通りが通学路にあるなどと言ったら、それは金遣いは荒かったことだろうと思われる。

そして、日影門の通りであるが、現在盛岡中央郵便局の建っているあたりが、盛岡のお嬢様学校である白百合学園の発祥の地でもある。
事件発生当時であれば「東北高等女学校」と言っていたであろうか。

そして、四ツ家教会のところで、左に曲がり、本町の通りを上田方面に歩いて行く。

閑話休題それはさておき、この辺に来ると、どうしても福田パンは無視できなくなる。
福田パンというのは、盛岡のソウルフードとも言われるパンであり、独特の食感がある。

7時から営業していると言うので、もう営業しているはずだ。
行ってみると、すでに何人か並んでいる。
というか、福田パンと言うのは、長田町の通りの北側にあったと思ったのだが、現在は南側に建て変わっている。
「盛岡のソウルフード」というイメージが全国的に出来上がったせいか、このように行列店になってしまったのだ。
後のカップルなんか関西弁だ。

基本的に、福田パンと言えば、あんバターが有名であるが、直営店で買うなら、コンビーフ味の方が乃公おれにとっては「青春の味」だ。
ここで朝食とすることにしたい。

ところで、ここ数日来の首の痛さのため、噛むだけでも痛みを感じる。
それはともかく、被害者が向かったであろう盛岡中学に向かうことにしよう。

山田線の立体交差を上ると、盛岡市上田となる。

ここに、かつての盛岡中学、現在の盛岡一高がある。
校舎は事件の頃は木造校舎であっただろうが、昭和35年に鉄筋校舎に建て替わり、21世紀になり、また校舎が建て変わっている。

今であれば、3年生はすでに卒業式が終わっているはずで、2年生は最高学年になる準備をしている頃であろう。
部活動の掛け声も特に聞こえてこない。

さて、今度は高松の池に行くことにしよう。
盛岡一高と県立中央病院の間の上田の通りは、ちょっとした商店街となっている。
商店街とは言っても、昔ながらの商店街はほとんどなく、今風の居酒屋が数軒ある程度である。
しかし、これで良いのだろう。すべては移り変わっていくのだ。

そして、国道4号線と交わるところにNHK盛岡放送局があり、交差点は地下道を通るようになっている。
この地下道自体は、昭和の頃からあったような気がする。しかし通るのは初めてだ。

そして、地下道の先からほどなくして、高松の池がある。
高松の池の向こうに見える山々が南部家墓地となり、そこに被害者の少年が埋められていたということになる。

高松の池は桜の名所であれば、現在は全然咲いていない。
盛岡のあたりであれば、ゴールデンウィーク前ぐらいがちょうどいい時期だろうか。

さて、ダークツーリズムはすべて終わったので、後は盛岡バスセンターに向かうことにしたい。

拙ブログの日記は、一旦ここで切ることにしたい。

ここまでの決死出演は6名(累計12名)。

 

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