さっきまでのダークツーリズムで辿った終戦直後を象徴する歌が「リンゴの唄」なら、東日本大震災を象徴する歌は「ポポポポーン」であろう。
そんな今日は12年目の3.11だ。だから旅行先を盛岡に選んだのだ。
高松の池口から岩手県交通のバスに乗って、盛岡バスセンターを目指す。
昭和の面影を残す盛岡バスセンターには、これまで2015年の元旦、2015年のお盆と、駆け込みで決死している。
今や岩手県交通も、Suicaで乗れる時代になっているのだ。
盛岡バスセンター行きのバスは、日影門の通りから中央通りに出て、上の橋を渡って盛岡バスセンターに出る。
そして盛岡バスセンターの若園町側が終点となる。
今や、盛岡バスセンターは完全に建て替わっている。
数年前、バスセンターが解体されてしまった頃、多摩特殊支店に勤めていた頃の同僚が盛岡支店に勤めていた時に盛岡市内で一緒に飲んだことがあるのだが、盛岡の商工会議所だか青年会議所だかの人とも一緒に飲む機会があった。
その時に言ってたのは「バスセンターは建屋があったからこそ人が集まった。やはり単なるバス停の集合じゃ人が集まらない。必ずバスセンターを再建したい」と頼もしい事を言っていた。
そして、それが結実したことになる。
ちなみに、盛岡バスセンターのロゴは、昭和の頃の盛岡バスセンターのそれと同じになっている。
さて、中に入ってみることにしましょう。
バスセンターの中は、例に漏れず、いろいろなテナントが出ている。
基本的には、「盛岡らしいもの」「岩手らしいもの」をコンセプトにしているところは伺えた。
その中で、福田パンのテナントが出ていた。これは、今日の朝食の時の本店の行列を見るまでもなく、県外の人にも訴求力があるので順当だろう。
しかし、盛岡バスセンターといえば、なんといってもフジワラショップなのだ。
フジワラショップのない盛岡バスセンターというのは、なんとも寂しい。
そして、2階に上がってみると、飲み屋が中心となっていた。
そして何より、バスセンターなのだから、バスの持ち合い所と切符売場は必須となるのだが、そちらは、中三デパートに近いほうの別棟となっていた。
というか、その中三デパートなのであるが、震災から12年経って解体していた。
これもまた、時の流れなのであろう。
こちらの別棟の方には、蕎麦屋も入って待合室に蕎麦の匂いが充満していたり、昔の昭和の頃のバスセンターの面影を見るなら、こっちの方かもしれない。
さて、12時半になったので、このバスセンターの3階にある「KANAN SPA」に入ろう。
KANANとは、市内の中心部を流れる中津川の南ということ。中ノ橋通り・肴町・紺屋町・南大通といったあたりがそれに該当する。
盛岡駅も県庁も市役所も大通商店街も「河北」になるので、ある種のライバル意識があるわけだ。
ともかくも990円払って入浴。
まさか欠損バーを前に汚い体で行くわけにはいかない。
さて、ではどこで昼食にしましょうかと。
バスセンターの中で食べてもいいが、盛岡駅に早めに着いておいた方が、渋滞に巻き込まれるなどのトラブルも少ないだろう。
ということで、バスセンターの中から出る系統のうち、盛岡駅を通る系統に乗ることにしよう。
そうなると、八幡平方面の県北バスということになる。
おりよく、沼宮内行きの県北バスが3番乗り場から出ると言うので乗ることにする。
・・・と、iPhoneに何か不吉な情報が入っているのだが?
東北新幹線が遅れているという。
何事かと思ったら、なんでも下りの「やまびこ161号」で、刃物を持った男が徘徊していたらしい。
それで、大宮に到着する前に確保し、埼玉県警に引き渡したのだという。
それで20分ぐらい遅れたと。
とんでもない話であることよ。
ただ、それは午前中の話なので、それが現在どれだけリカバリーできているかということである。
それはともかく盛岡駅に到着。
そして昼食は、大同苑で冷麺でも・・・と思ったら、そういえばその隣にじゃじゃ麺の白龍があったか。
ではそちらにしよう。
じゃじゃ麺は盛岡三大麺の一角でもある。
あとの2つは冷麺とわんこそば。
わんこそばに関しては、基本的に観光客の食べ物である。
そういえば、大学の頃、大阪出身の同期と一緒にわんこそばを食べに行ったのだった。
そして乃公は101杯、その同期は128杯食べた。
時は流れ、彼も乃公と同じ管理職研修を受講するのだという。
彼は傍系側が長いが、どこかの支社の課長になるのだろうか。そうなると乃公より格上だ。
小笠原出張所長なんて本社の軍曹と同じクラスだから。
さて、それはともかく、じゃじゃ麺は鶏湯まで平らげて店を出る。
あとは帰るだけ。
14時50分の「はやぶさ」の前に、欠損バー向けにお土産を買って行こう。
どうせなら福田パンにしよう。盛岡なら何といっても福田パンだ。
あとは新幹線の改札に入る。
この旅行の目的は、3月11日14時46分のその瞬間に盛岡で過ごしたかったということだったのだが、まさか出発間際の新幹線のホームになると思わなかった。
それもこれも、18時からは欠損バーが控えているからである。
18時からの始まりを逆算すると、この14時50分しかなかったのである。
ただ、このような場でその時を迎えると言うのも悪くないと思う。
あの震災から12年が経った今、みんなそれぞれの生き方があるのだ。
WBCには、佐々木朗希と言う被災地出身のメンバーも活躍している。
そして、14時46分のその瞬間、ホームでは秋田から来る「こまち」を持っていた。
連結写真を写真に撮りたい観光客は連結面で集まっている。
そして、14時46分、黙祷。
黙祷が終わったら、急いで8号車に駆け込む。
そして出発だ。
車内では電源が取れるので、悠々と移動できる。
そして、福島と栃木の県境の電波が入らない区間を過ぎると、もうほどなくして大宮に到着である。
大宮駅の到着ホームは、「旅の終わり」を感じさせるにふさわしい寂寥としたホームである。
ここから湘南新宿ラインのホームに行って平塚行きを待つ。
向こうのホームには、日光からやってきたスペーシアが新宿へ向かって出発していた。
そうだとわかっていれば、あのスペーシアのチケットを取っていたのかもしれないが、おそらく決死する余裕はなかっただろう。
ともかくも、こちらは、湘南新宿ラインに乗る。
大宮から新宿は、いつもであればグリーン車に乗るが、今回は新宿駅のホームの移動距離を考えて、1番後ろの15号車に乗ることにする。
そして新宿に到着。
新宿西口のバス乗り場に行って、宿61の練馬駅行きに乗ることにする。
この時点で、ちゃんとお土産の福田パンは手に持っている。
そして花園町のバス停で下車。
これで、ほぼちょうどに欠損バーに行くことができた。
最初行ったら、ものすごい人口密度があった。
まず、女の子が4人もいるのだ。
もみじちゃん、すずちゃん、はんぺんちゃん、そして新しくエコちゃんという子だった。
それに、客も5人ぐらいいたのではないだろうか。
福田パンは10個買ってきたが、それでは足りない人数だった。
しかし、それらの客は18時で帰ってしまい、乃公とTERUさんだけが残った。
つまり、女の子の方が多いハーレム状態。
まずは、福田パンを食べてもらう。
新幹線で運んできたら、潰れているものも多かったが、喜んで食べてもらえた。
エコちゃんは、後天的に右手の指3本が無い子であったが、客商売が初めてとは思えないほど、客商売に慣れているようだった。
聞けば、学童保育をやっていると言う。
「首大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです…」
また、すずちゃんは義手を持ってきてくれたので、久しぶりに義手にお金を挟んでスタッフドリンクを勧める。
その他、いろいろな話をする。
それで、21時まで延長した。
その後、やよい軒で遅い夕食にするが、首が痛くて噛めない。
もはや、22時になってしまったが、ぽわんちゃんの店にも行くことにする。
どうやら、ぽわんちゃんはぽよキャバに行ってきたようだ。
ぽわんちゃんと、もう1人のお客さんにも福田パンをあげる。
こちらでは、首の激痛で呻いて終わりだった。
後は新宿経由で帰ることにする。
千代田線で、また首の激痛がぶり返してしまった。
大声を上げそうになる。
そして新京成線に乗り換えて帰宅するが、もはや何をする元気もない。
とにかく、首の激痛をどうしたらいいのか…
湿布を貼る時すら激痛が走るのだ。
ここまでの決死出演は8名(累計20名)。