大地震で帰宅難民

西から高気圧が迫ってきており穏やかな天気。
(2022年9月14日しるす)

その日は穏やかな朝だった。

普通に出勤して、午後からは何かの発表会があって、質問などをしていた。
大学の同期が発表者で、何か食い下がって質問をしていたような気がする。

そこへかなり強い地震がやってきた。
少なくとも東京に来てから経験したことのないような揺れであった。
何しろ社屋は築50年近くになるもので、それほど頑丈とは言えない。
思わず「日本はどうなっちゃうの」とつぶやいてしまった。

そのような状況だったので、司会者が「この会議は中止します」と宣言した。
震源は宮城県沖だと言う。
そうなると、あっちのほうに親戚もいるので気が気ではない。

テレビをつけると、岩手県の釜石や青森県の八戸などでは津波が来て車や建物が流されているではないか。

菅直人首相が官邸で「落ち着いて聞いてください」とアナウンスしている。
確かに、「落ち着かなければならない」ような状況だったのだ。

ほぼ全国的に、大津波警報が発令されている。
外を見ると、首都高速には車が全く走らなくなっていた。
また、近くのビルでは、多くのサラリーマンが外に出ていた。

こちらは、岩手県や宮城県を中心に各地の施設の被害状況を確認する。
管理職は記者会見の準備である。

とは言っても、ある意味本筋の部門ではなかったので、やれる事と言うのは限られている。

その日の昼、売店でおやつ用に買ったパンは、おやつの時に食べず、いざと言う時に取っておくことにした。

20時を過ぎて、それぞれ帰宅することになった。
しかし電車は止まっている。中には千葉市内まで歩かなければならない人もいた。

壁もなくつながっている隣の課長は女性であったが、若い女性職員が帰ろうとする時、「気をつけてね」と声をかけていたのが印象に残っている。

おやつ用のパンは、ここで食べてしまうことにした。

さて、自分も帰ることにした。
自分は荒川区に住んでいるので、千葉や埼玉というような他の人に比べたらさほどの事は無い。
しかし、帰宅難民であることには変わりない。

秋葉原を通ると、膨大な人の群れがいた。
電話ボックスには長蛇の列である。携帯電話が通じないキャリアもあったようだ。
その点、自分はドコモなので普通につながった。

この日はSDN48の劇場公演があったようだが、地震のために中止と言う看板が出ていた。
マクドナルドやケバブ屋は普通に営業していた。

さて、これから歩いて行くことにしよう。
上野駅は、シャッターが閉まっていた。こんな景色は見たことがない。

歩きながら携帯でMixiのニュースを見ると、トップにはこの大地震の事ばかりが報じられている。

大地震のニュースばかりだと、なんだか気が紛れない。
試しに、大地震以外のニュースを探してみると、「中東のどこだかの国で女の子が犬となんだかをした」と言うようなニュースがあった。
もちろん、この大地震の前に配信されたニュースであろうが、なんだかほっとした。

千代田線も都電荒川線も当然動いてないので、8キロ歩き通しでアパートまで到着することになった。

ドアを開けると、部屋の中のかなりの荷物が崩れている。

ロフトに登って布団の周囲を見てみると、弊喜び組のメンがほとんど倒れている。

かなりつよい揺れだったことがここからもうかがえる。

ニュースでは、我が社の社屋も緊急避難所に指定されることが報じられていた。
千代田区内のおもだった事業所は、そういう会社が多かったのではないだろうか。

弟や妹からも、矢継ぎ早にメールが飛び交わされる。
三陸方面の親戚が無事かどうか。

正直、このアパートの中にいても、何もやる事は無いのである。
それに、大災害の時は、集まらなければないはずなのだ。
特段、そのような召集は出ていないが、今以上に集まるべき時があるだろうか。

千代田線は、一部区間が動き始めたと言う。
だったら会社に行こうか。

それで、千代田線に乗って会社に行くことにした。

千代田線は表参道行きだった。

会社に行ってみると、やはり同じようなことを考えて会社に残っている人や、帰宅することを諦めて泊まり込もうとしている人もいた。
自分も、机で夜明かしすることにした。

会社に来たとは言っても、特段何もする事はなかった。
しかしとにかく周囲は緊迫していた。

これが東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)である。

 

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