津軽の貧困

世の中には訳の分からない商売があるものである。

こんなTシャツを誰が買うのだろう。
というかよくもまあ作ったもんだと思う。

よくも今までTwitterで炎上しなかったものである。

事件が発生した2001年、自分はまだ若かった。
地元の訛りの男が犯行を起こしたということが報じられており、普段どんな生活をしていたのかということに思いをはせることがあった。
田舎の下流生活――― それは想像したくも無いような世界であったに違いない。

逮捕されてから明らかになった全貌は、やはりその想像にたがわない、荒涼としたものだった。

犯行の発端は女性との金銭トラブルであったという。
その女性はどんなクズかと思ったら、宮古港で車ごと飛び込んで自殺したのだという。
青森という土地の貧困に嘆息させられたものだった。

今回取り上げる事件もまた、貧困がもたらした事件と言えるのではないだろうか。

北国の2学期は早い。
8月の下旬には既に始業式が始まっている。
そんな昭和47年の2学期が始まってすぐのこと。

昭和47年8月29日の東奥日報の社会面では、青森県内の交通事故が5,000件を突破し、過去最悪ペースで発生していることを伝えている。
見出しには「悪質化するドライバー」という字が踊っている。

その中の1件として、8月28日夜に青森市内の住宅地でその「悪質化したドライバー」がひき逃げを起こしたことを伝えている。

それは20時10分頃のこと。
青森市中心部から現在の三内丸山遺跡に向かう途中の市道で、娘2人を連れて買い物に行こうとしていた父親の後から乗用車が猛スピードで走ってきて、右手につないでいた小学校4年生の長女をはねたまま逃走したのだという。
父親は板金業をしており職業柄車は見慣れているというが、「白い乗用車かライトバン」であることを確認するのが精一杯。

捜査は、その「白い車」を探し出すことに向けられた。

月が明けて9月4日の東奥日報には、これまでの想像を覆す衝撃の事実が1面トップで報じられている。

それは、その時に娘2人を連れていた父親が、轢き殺す役を金で雇って保険金目当てにわざとひき逃げ事件を発生させたのだ、ということ。

警察の現場検証によれば、ひき逃げのあった地点では全くブレーキを掛けた気配が見られなかった。
つまり故意に発生させた事故である可能性があるということ。

そしてその父親の家庭事情を調べてみると、8月初めに、この長女に400万円の簡易保険を掛けたのだという。
それ以前の5月22日には、1,700万円の生命保険もかけていたのだという。

「保険金目当ての偽装事故」である疑いがクローズアップされても不思議ではなかった。

そして、殺し屋として雇われた男が、酒に酔って友人に「子供を轢き殺した」と口走ったことも事件性をさらに大きくしたのである。

この父親、板金業とは言うものの7月に100万円以上の負債を抱えて倒産し、なおかつ前年昭和46年の暮れには妻に家出されている。

それで、事業立て直しのために娘に保険をかけて・・・ ということを、9月3日の夜に自白し、逮捕に至ったのであるという。

翌9月5日の東奥日報社会面では、事件の続報を報じている。

普段から酒を飲み歩いており、妻にも愛想を尽かされたことを「甲斐性なし」と表現している。
そんな甲斐性無しの父親が、この事件を起こそうと思ったのは7月の末頃、つまり板金業を倒産させたあたりのことだったという。

拙ブログで扱う事件は昭和30年代が多く、昭和40年代を扱うのは珍しいのだが、この頃になると週刊誌だのTVのワイドショーだのというのが出てくる。
青森警察署は、記者たちによって蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまった。

それより涙を誘うのは、被害に遭った女子児童の作文である。

小学校1年生の時、つまり昭和44年、まだ一家が幸せだったであろう時のこと。
おたふくかぜで耳の下が痛くなっても、
「それでも がっこさ いげへ」
「おかあさん いたいから やすみたい」
「んでも いげへ」
(中略)
おとうさんとおかあさんのかおをみていたら、いたくなくなったので、
「がっこさ いぐ」

これは「貧すれば鈍する」を地で行く事件だったのだ。

ここからこの事件に関係なくなるが、その翌日、開催中であったミュンヘンオリンピックの選手村にパレスチナゲリラが侵入し、イスラエル選手団を襲撃し2人を殺害する「ミュンヘンオリンピック事件」が発生した。
これは、Wikipediaの日本語版でも項目として挙がっている。

この記事で「暗黒の九月」と名乗っているパレスチナ人武装グループが、イスラエルで抑留されている政治犯の釈放を要求してイスラエル選手団を人質に取ったのである。

交渉にあたってはミュンヘン警察の本部長と選手村村長がネゴシエイターとなった。
西ドイツ政府とバイエルン州政府は身代金を用意することによって解決を図ったが武装グループはそれを拒否し、あくまでも政治犯の釈放を要求した。

結果2名が射殺され、西ドイツ政府はオリンピック組織委員会に中止を申し入れたが、それは拒否され、競技は続けられたのだという。

この日本における第一報の時点では死者2名であったが、最終的には選手11名、実行犯5名、警察官1名の合計17名が死亡している。
オリンピック史上最悪の事件となってしまった。

さて、そのダークツーリズムのために起きてみると7:50過ぎ。

本当であれば8:45に古川バス停を出るバスに乗りたいので急ぐことにしたい。
ということで急いで朝食バイキングを掻き込み、ホテルを出て青森駅前を国道7号線に急ぐ。

途中、JRバスの営業所前にエモい感じの飲み屋街があった。青森市にはエモい物件を保存しておく条例でもあるのか。

古川のバス停は青森駅を通らないバスのターミナルのようになっており、何ヶ所も乗り場がある。
つくしヶ丘病院行きは4番乗り場。
決死モデル:トルソーさん霧島

そのつくしが丘病院行きは5分ぐらい遅れている。
青森駅発ではなく、東部営業所から来る系統なので仕方ないのかもしれないが。
そして急いで乗り込むと、渋滞の中をバスは進む。
それでも、青森駅の西側まで出ると幾分か渋滞も収まった。

そして三内に到着。それでなくても15分程度しか余裕がないので、急いで行くことにする。

交差点を渡ると、見える所にそのお地蔵さんはあった。

お地蔵さんには新しい花が飾ってあった。事件から48年、今なお供養されているようだった。
決死モデル:チームPユウリ

被害者の小学生女児も生きていれば50代後半。何処かへ嫁いで津軽弁でガーガー騒いでいるようなお母さんになっていただろうか。

子供が被害者になる事件は書いててもつらい・・・

 

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