領有権を主張してるので

7月5日は多くの記念日や出来事があり、以下にいくつかを列挙します。

記念日

1. ビキニスタイルの日 – 1946年にフランスのデザイナー、ルイ・レアールが初めてビキニスタイルの水着を発表したことに由来します 。
2. 名護の日 – 沖縄県名護市が「な(7)ご(5)」の語呂合わせにちなんで制定した記念日です 。
3. 江戸切子の日 – 江戸切子協同組合が、「なな(7)こ(5)」の語呂合わせにちなんで制定しました 。
4. プラチナエイジの日 – 60歳以上の世代をプラチナのように輝かしいものとしようとする記念日です 。
5. 穴子の日 – 「あな(7)ご(5)」の語呂合わせから、穴子が最も美味しい時期を祝う日です 。
6. セコムの日 – セコム株式会社が制定したもので、「セ(7)コ(5)ム(6)」の語呂合わせにちなんでいます 。
7. 切削工具の日 – 切削工具の「切」に漢数字の「七」を当て、「こう(5)ぐ(5)」の語呂合わせから制定されました 。

世界の記念日

1. 独立調印記念日(ベネズエラ) – 1811年にスペインからの独立を宣言した日です 。
2. 独立記念日(アルジェリア) – 1962年にフランスから独立しました 。
3. 独立記念日(カーボベルデ) – 1975年にポルトガルから独立しました 。
4. 憲法記念日(アルメニア) – 1995年にアルメニア憲法が採択された日です 。
5. 聖ツィリルと聖メトジェイの日(チェコ・スロバキア) – キュリロスとメトディオスの聖名祝日です 。

歴史的な出来事

1. ランチョンミートの缶詰SPAMが販売される(1937年) 。
2. 東海北陸自動車道全線開通(2008年) 。
3. 平成29年7月九州北部豪雨(2017年) – 記録的な豪雨が九州北部を襲い、河川の氾濫などで多くの被害が出ました 。

誕生日の有名人

1. 孫権 – 三国時代の群雄(182年) 。
2. アッシジのフランチェスコ – フランシスコ会修道会の創始者(1182年) 。
3. ジョーン・オブ・ザ・タワー – スコットランド王妃(1321年) 。
4. P・T・バーナム – 興行師(1810年) 。

誕生花

1. アンスリウム – 花言葉は「恋にもだえる心」「情熱」など 。
2. ラベンダー – 花言葉は「疑問」「鎮静」など 。

このように、7月5日は多くの記念日や歴史的出来事に満ちています。

北海道支社にいた頃の직맹の事務員さんと最近会った誰だかが、新京成線に乗って、なんだかをする。
そんな夢を、沖ノ鳥島に向かうおがさわら丸の特2等寝台で見る。

目が覚めたら3時過ぎだったので、もう少し寝ていることにする。

次に目が覚めた頃には6時半ごろだった。
おそらく7階のラウンジは7時にならないと開かないだろうから、しばらくベッドにいることにしよう。

昨日の日記は、iPadにAirDropすることでせめてものバックアップとすることにしよう。

7時になり、船内放送が鳴る。
4階のレストラン、6階の売店、7階のラウンジが営業を開始したと。

早速7階のラウンジに行ってみることにしよう。

その前に、デッキに出て決死の練習をすることにしよう。
誰もおらず、支柱の影を確保できればイージーかもしれないが、本番でそれが可能かどうかはわからない。
しかし、楼山の場合は前髪が庇すので、支柱に頼るしかない。

そして7階のラウンジで朝食のトーストセットを注文する。
このタイミングで亜鉛サプリを飲むが、カフェインと一緒に飲むと吸収されないというので、炭酸水を買って飲むことにする。

そして、引き続き「二十歳の原点」を読むことにする。
昭和44年2月には「学生運動のバリケードの座り込みに参加することでブルジョア性を否定した」などと書かれているが、そもそも高い学費を親から出してもらって、私立大学に通わせてもらっていること自体、ブルジョア性の否定も何もないのではないか…というのは、令和の時代らしい冷笑が過ぎるだろうか。むしろこうした冷笑は、もはや陳腐ですらあるかもしれない。

また、バイト1つするにしても、探求だの、日本語は階級性の強い言葉であるだの、常に演技者であるだの、色々と脳内は忙しいようだ。
ちなみに、この時期のバイト先は藤田観光系の京都国際ホテルだったようだ。
また、そのバイト先ですらバイトが10,000円ベースアップせよと春闘をやっていたのだと言う。そんな時代だったようだ。

昭和44年4月9日になると「ダラダラと惰性で生きている事は無い。30歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと10年生きたとて何になるのか」などと書いている。

そのうちに、沖ノ鳥島に関する講演会の案内が船内放送される。4階レストランで開催するそうだ。
9時と10時15分に2回開催されるようだが、人数の兼ね合いで9時の講演は1等と2等寝台の客だけが入れるのだという。それ以外は10時15分から。
そういうことであれば、「二十歳の原点」を最後まで読み切ってしまおう。

と、こんな感じで7階のラウンジで本を読める程度には至って穏やかに航行している。
何しろ高気圧のど真ん中なのだ。

で、「20歳の原点」なのだが、昭和44年4月17日にはバ先の京都国際ホテルでストライキがあったようだが、その間のために働く非組合員のために「頑張って働いてもらわんとアカンから」と食事が出されたという。
この辺の空気感は、ストの間に働く鉄労の組合員にウジ虫などと野次を飛ばした国労とは全然違う。

そして、タバコを吸ったり、酒を飲んだり「鈴木」と愛欲にふけったり。その辺はごく普通の女子大生である。

そんな中でも、昭和44年4月30日には「機動隊員を殺すにはどうしたら良いか、そのためには民青を殺す必要があるのかを考えてみよう」などと物騒なことが書かれている。
この2年後、渋谷と成田と沖縄で本当に警察官が焼き殺されている。
そして、このことが学生運動に対する世間の評価を決定づけることになる。

昭和44年5月8日の時点では「自殺なんてする気は毛頭ないよ。死ぬなら機動隊に殺されたいね。いや殺してやりたいよ」なんて書いている。
また、スキー道具一式を売却し「資本論」を買うなんて言っている。まるで自らのブルジョア性を嫌悪するかのように。
5月13日には「自己創造を完成させるまで私は死にません」と書いている。

5月の末ぐらいになると、己の存在がどうたらとか哲学的な長文が記されている。
「授業料を学校に支払わぬという己の行動を早急に論理化しなくてはならない」という、なんだか支離滅裂なことを書いている。
そして「家族と訣別するために東京に行く」などというところまで先鋭化している。

そして、昭和44年6月22日、哲学的な悩みをさんざん書き殴った挙句に睡眠薬を飲むが、死ぬどころか寝ることすらできない。
そして日付が6月24日に変わった深夜2時半、「旅に出よう」と長文の詩を書き残して…

結局、山陰本線の貨物列車に身を投げて、自殺したのである。
その後どうやって死体処理が行われ、どのように葬儀が行われたかなどを知りたがるのは野暮だろうか。

ところでおがさわら丸は順調に航海を続けている。モニターに沖縄が映るなんて、史上初めてのことではないだろうか。そしてまた、沖縄本島よりかなり南の方に来ている。

その次は「プロ野球衝撃の昭和史」を読む。
これは40%で読みかけになっていたので、最後まで読んでしまいたい。
このように、何%読んだかまで表示されるのがKindleである。

そろそろ10時15分になったので4階レストランに行く。

講演の内容は大略以下の通り。

・日本に島は14,125個。少し前まで6千いくらだった。なんでこんなに増えたのかというと、海上保安庁が手作業で数える方式から、航空写真で自動抽出するようになったから。そもそも「島」とは国際的には高潮時に陸地が出ている所となっているが、日本ではそれをやったらキリがないので、「周囲100メートル以上」を定義としている。
・離島人口は70万人であるという。
・沖ノ鳥島は東京から1700km離れている。日本で一番南。一番東もまた小笠原村の南鳥島。日本は決して狭くはない。
・国際海洋法条約では沿岸から12カイリが領海。また、沿岸から200カイリが「排他的経済水域」(EEZ)。漁業や海底資源など。日本のEEZは世界で6番目に広い。海の体積となると世界4番目であるという。
・中国や韓国にとってはその上で日本は邪魔。
・海洋では、日本はフィリピンやアメリカとも国境を接している。
・東西南北の果てで唯一の有人島は与那国島だけ。
・最南端の沖ノ鳥島に行けるのは一般人は無理。200人近い人が沖ノ鳥島を見るなんて無理。
・沖の鳥島を南北逆に見ると、地政学的な重要性が分かろう。完全にアジアの国々をリードしている。中国はアメリカに行く度に日本を横切らないといけない。中国にとっては、沖ノ鳥島は非常に欲しいところ。ここに拠点が作れれば台湾に対峙できる。
・ヨコヅナイワシという新種の深海魚が駿河湾で発見された。大きさ2m。それで色々なところを調べた。「環境DNA」で調べると、その群れは小笠原にいたのだという。腹を裂いて食べる物を見てみたら、他の魚であったという。食物連鎖の頂点にあったという。
・沖ノ鳥島は環礁に囲まれ、コンクリートで護岸され、侵食を防ぐためチタンブロックで7億円かけて守られている。
・満潮だと16cmにしかならない。これが日本の42万平方kmのEEZを守っている。人の居住あるいは経済活動を行っていないところは国際的に島とは認められない。
・それで、日本はこの島をしっかり使っていこう。珊瑚の培養、金属疲労の実験を行っている。沖の鳥島のデータを提出することでもって国際的にも「島」と認められている。
・海底地形をみると、沖ノ鳥島は1000m以上の珊瑚が積み重なっている。年間数センチ沖縄に移動している。珊瑚が崩落している。中国に爆弾でも落とされたらひとたまりもない。
・地球温暖化による沈降の影響は特にないという。
・「経済活動」の根拠のために観測施設が置いてある。
・初めて沖ノ鳥島を発見したのはスペインの船。「ここを見ておかないと座礁してしまう」と。
・海洋資源上も重要な島。メタンハイドレート。日本人が使うガスエネルギーの100年分あるという。掘ることはできる。製品化もできる。採算は取れない。天然ガス(LNG)を買った方がはるかに安い。中国側でも採算取れてない。ただしLNGの貯蔵量は8日分しかない。石油は2ヶ月分。この海が閉ざされたらガスも石油も枯渇する。いつでも採掘できる状況を。
・青ヶ島の海底鉱床には金の含有率が高い。小笠原にむけた海域は宝の宝庫。小笠原の海で来年にでも本格的な海底資源の採掘実験を始めたい。レアアースも埋まっている。
・日本の海の4割は東京、3割は小笠原村。
・南大東島のサトウキビ工場の煙突「サトウキビは島を守り国土を守る」。砂糖の価格は「糖価調整法」で守られている。
・2014年の中国のサンゴの密漁船事件。中国(政府)と一体になって動いている。押収したサンゴの時価は5000円。実は違う目的だったのではないか。2012年五島列島・玉の浦でも同じような問題があった。限界集落で2000人の中国人漁師を、160人の海上保安官が守る状態。この夏にも同じことが3回あった。そして糞尿を垂れ流しというのも問題になった。国内ではほとんど報道されなかったが。尖閣諸島でも環境整備している。
・沖ノ鳥島ではカツオ・キハダ・シマアジなど。
・広い海を確保しておくことが大事。日本の食料自給率は38%だが、魚に限れば60%。採れた魚の4割は捨てられる。
・人工物は島とは認められないが、自然の島の桟橋から桟橋を通すことは認められている。

1時間で講演会が終わり、また7階のラウンジに戻ることにする。

隣に手話サークルの人が来た。しばらく世間話をする。
その人は、大田区の出身らしい。
こちらは、5月14日に警察が来た話をすると「小学生とか中学生の子がいる人だったら、その話は聞いてるんじゃないかと思うけど、私はわからない」なんて言う。

その人は、11時台に昼食のカレーを食べてしまうと「また寝てこようっと」とベッドに戻ってしまった。

そろそろ12時も近くなったので、こちらも昼食にすることにする。
そう思って、4階のレストランに行くと、12時きっかりにならないとらないようだ。

待ってる間、脇の展示スペースに行くことにする。
沖ノ鳥島に関する展示や、バーチャルツアーをやっている。

そして、バーチャルツアーが終わったので、レストランに並ぶことにする。
いつものかき揚げそばと納豆をつける。

そして後はまた7階のラウンジに戻って「その時」を待つ。

引き続き「プロ野球衝撃の昭和史」を読む。
江川卓の最盛期は作新学院の2年生であり、相次ぐ招待試合で次第にすり減らされていったこと。
この辺の事は本宮ひろしの「実力たかされ」でも書かれている。
ちなみに、作新学院は午前中まで読んでいた「二十歳の原点」でも、著者の宇都宮女子高校の滑り止めとして出てくる。
また昭和48年の南海の「死んだふり作戦」。

その次は、太平洋対ロッテの「遺恨試合」。
もはや有名な話ではあるが、これは裏で盛り上げようと球団が仕組んだことであった。
球団社長の坂井保之は「あれで平和台球場が満員になった。赤字球団にとって大きな収入はありがたかった」と述懐している。
それにしても当時の福岡と言うのは無法地帯である。グランドが選手に向かって椅子を投げつけたり、小便を瓶につめて投げたり。対するロッテの金田も砂を観客に投げ付けたり。果てには暴徒がロッテの選手を乗せたバスの車体に火をつけた新聞紙まで投げ入れて爆発させようとした。
結局、福岡県警は太平洋クラブライオンズに1週間の営業停止を申し付ける始末。
しかし、黒い霧事件の後に32万人だった観客動員数が、昭和48年には87万人まで上がると言うので、営業的には成功したことになるようだ。

そのうち、13時20分ごろも過ぎると、船内がざわざわし始める。
デッキの右舷方向に沖ノ鳥島が見え始めたらしい。
あれ?反時計回りに回るので左舷方向ではなかったか?
ともあれ、右舷方向に行って見てみると、確かに何か人工物が見える。
あれこそが沖ノ鳥島の港湾施設なのだ。

他社の所長さんや、手話サークルの他の人も来ていた。

そして13時50分、予定通り筆は進路を右に変え、沖ノ鳥島は右舷側から左舷側に変わる。

左側には既に、青緑の環礁が広がっている。
その向こうに港湾施設や観測施設がそびえ立っている。
そして北小島と東小島。

いよいよこれがクライマックスだ。
船のすべての客が左舷側デッキに集まる。
中には折りたたみ椅子で場所取りをしている人もいる。

村長は、誰かの写真と一緒にカメラに収まっている。何かの功労者の人だろうか。

ちなみに、今回の決死メンは、太陽の光で前髪が庇さないように、デコ出しのペギーと嵐山を充当している。

最も規模の大きい施設には「立入禁止 国土交通省」と書いている。
あれは、中国船舶向けに書いているのだという。

ちなみに、普段はコンテナなどを積み込む5階のデッキも今日はお客さんに解放している。

おがさわら丸は沖ノ鳥島の環礁の周りを2周して、ちょうど15時に予定通り離れて戻りに就く。

後はみんな、ベッドやラウンジに戻って行く。
最後に沖ノ鳥島に手を振っている客もいる。
こちらは7階のラウンジに戻る。

あとは、本でも読んでいることにしよう。
引き続き「プロ野球衝撃の昭和史」。

次は、巨人の投手としてのジャイアント馬場。
新潟の三条実業高校を中退して昭和30年に巨人に入団した馬場正平は、それなりに投資としても優秀だったようであるが、この当時は別所毅彦・大友工・堀内庄・安原達佳・藤田元司と投手陣に恵まれていたので、そこに入り込む余地がなかったのだ。

そして、中日の小川健太郎の「背面投げ」。
昭和44年6月15日だというので、午前中に読んだ高野悦子「20歳の原点」では、もはや死に向かって突っ走っていた時期だ。
とにかく王を打ち取れる投手はいなかった。だからあの手この手で希釈をするしか勝ち目はなかったのだという。阪神の夏も、わざとノースリーにして気を抜かせて、そこから勝負に出ると言う奇策に打って出たと言う。
背面投げの小川健太郎にしても、王にカモにされ続けていたが、全身バネのような肉体と、たゆまぬの努力の人であったからこそ、あの奇抜な投球がストライクゾーンに入ったのだろうと言う。

その次が近鉄の加藤哲朗の「巨人はロッテより弱い」発言。
また、西武の清原がロッテの平沼のデッドボールに怒ってバットを投げつけた事件。
オリオンズの頃からのロッテファンであった乃公おれはどちらもリアルタイムで覚えている。
当時最下位に喘いでいた不人気球団ロッテオリオンズだが、西武戦は比較的勝率が高かったのを覚えている。

そして読み終わったのは16時ちょうど位。

読み終わると、急に月曜日以降の仕事のことが心に暗い影を持って覆い被さる。
どうやって進めればいいのか五里霧中だ。

ちょっと決死に出ることにしよう。
15時に沖ノ鳥島を去り、18時に今日最後の決死をするとすれば、16時半がその中間の良いタイミングだ。

デッキは小笠原らしく?激しい太陽に照らされている。沖ノ鳥島が終わってしまうと、誰1人としてデッキの外には出ていない。
そう思って、誰もいない5階の貨物デッキを8階から撮ろうと思ったら、女性が1人いた。ギリギリ丈のホットパンツを履いたその女性にカメラを向けでもしたら、大ごとになってしまう。それに風も強い。
それで、物陰で決死することにした。

そのうち、件のギリギリ丈のホットパンツの女性がどこかに行ったので、その位置から改めて決死する。
なかなかピントが合わないが、まぁこんなもんだろう。

そして、iPadや電源コードを撤収してベッドに戻ることにする。
どうも座に堪えない。

そして、ベッドで読むのは徳富蘇峰「終戦後日記」。
江戸時代の末に生まれた徳富蘇峰は、もともとは左派論客であったようだが、いつしか国家主義に転向し、戦争の頃には言論報国会の会長に収まるまでになっていた。

その日記は、終戦の3日後である昭和20年8月18日から始まっている。
なんと徳富蘇峰は天皇陛下に本土決戦を訴える肚だったらしい。
その訴えを、陸軍大将などにもしていたが、受け入れられず、死を以って抗議しようとしていたところ、「つまらないことで死んだ」「わがままが通らなくて死んだ」などと口さがない連中に言われるのが癪で、なおかつ介錯してくれる人もおらず自分で死ぬことを中止したのだという。
玉音放送にしたって、「いよいよ本土決戦か」と一度は夫人に赤飯を炊く準備までさせたのだという。
この時期の老人とは、そういうものだったのか。

また、ポツダム宣言の受諾による敗戦は、あくまで「敗戦論者の陰謀」だと言うのだ。
戦争に負けることによって、この身はどうなっても、皇室を守り抜いたと自慢したいための陰謀であると。

ベッドに戻ってきて幾許もしないうちに18時が近づいてしまった。
ちょっと、今日最後の決死をすることにしよう。

今回の決死は、6階のデッキですることにしよう。
ここは意外と影を取ることができて良いのだ。さっきのみくよりも綺麗に撮影することができた。

6階のデッキでは、打ち上げをしている人たちもいる。
なるほど、これが小笠原の過ごし方だ。

先ほどに引き続き、7階のラウンジで本でも読むことにしよう。
7階のラウンジももはや打ち上げムードである。

こちらは、レストランに並ぶ気力もなく、売店でカップの天ぷらそばとメロンパンを買って食べることにする。
小海老そばは相変わらずあざとい味。
それにメロンパンは買いすぎたかもしれない。食欲もないのだ。

こちらは引き続き徳富蘇峰の「終戦後日記」を読むことにしよう。
8月19日に至っても、負け戦を決定した恨み言を長文で書いている。
曰く、まだ使っていない軍隊が内地ばかりで500万もあり、飛行機だって1万台あるではないか。それにもかかわらず、なぜさっさと本土決戦をせず敗戦を決めてしまったのか。

この本を4巻もダウンロードして購入はしたものの、もしかして生活感も時代相もなく、こうした「本土決戦すればよかったのに」という恨み言がつらつらと続くのであろうか。
そうしたら、この本を読むのは別の機会にして、別の本を読んだほうがよさそうだ。

そろそろ、日が暮れようとしている。まるで満州のような赤い夕日。
あの夕日をこそ決死して、にしこくん仕事すればよかったのかもしれない。右向き左向き関係なく。

読書の方であるが、これまた途中まで読んだままになっていたリーマントラベラー東松寛文氏の「自分の時間の作り方」を読むことにしよう。

そんなリーマントラベラーが推奨しているのは「自分の仕事以外の居場所を持つこと」それを「サードプレイス」と言っているが、なんとなれば乃公おれはサードプレイスの方が人生の軸足だったりしている。欠損バーであったり、手話サークルであったり。
もっと仕事に打ち込んだほうがいい位だ。

また、「ありがとう」や、ポジティブな言葉の価値を重んじているあたり、最近の若いビジネスパーソンという気もする。

ここまで読み進めて思ったのだが、同じ旅が趣味であるとはいえ、生き方は全く違う。
このリーマントラベラーは、もともと高校時代からバスケットボールをやり込んで大学は神戸大、就職は広告代理店と日の当たる場所を歩んできた、徹底して日本社会を生きることに適した人なのだ。
日陰ばかりを収鋲してきたオタクとは訳が違う。

ところで、19時も過ぎ体が重くなったので、ベッドに戻ることにしたい。
この7階のラウンジは、21時でラストオーダーになるようだが、ラウンジ自体は24時まで開放しているようだ。

ともかくも、ベッドに戻って、リーマントラベラーの本を読んでいく。
もはやこれは自己啓発本と言っていいだろう。自己啓発音なので「用量と用法を守ってご使用ください」といったところだろう。

19時半ごろ船内放送が鳴る。19時55分から8デッキで星空を見る会をするという。
せっかくだから行ってみようかな。

果たして、19時半過ぎに起き出してデッキに出てみることにする。
デッキに出てみると、とにかく風が強い。船は闇夜を進んでいる。

8階のデッキに行くと、さらに風が強く、にしこくん仕事どころではない。
19時55分にはなったものの、別に講師が出て「あれに見ゆるは何某座にござい」と説明するとかではなく、てんでんにに星を見るだけのようだ。

とりあえず、撮るだけ撮ったら後はまたベッドに戻ることにしよう。

1日の最後、人の密集したところで溜まったかもしれないウィルスを茶うがいで幾許なりとも落とすことにしたい。

ベッドに戻り、萬年甫「滞欧日記」を読むことにする。これは昭和30年から昭和32年にかけてフランスに留学した医師の日記。
何しろ旧制府立高校から東京帝国大学医学部に進学し、フランス給費留学生試験に合格したというかなりのエリートである。

昭和30年10月4日にフランス戦ベトナム号で横浜を出て、香港やバンコクなどいろいろなところに寄港しながらマルセイユを目指す。
この当時は外貨の持ち出しも制限されており、外国に行くということ自体が非常に特別だった時代だ。

香港では、ケーブルカーに乗ってビクトリアピークに行く余裕もあったようだ。
また、マニラではピザがないので降りる事はできなかったと。では、香港のビザは持っていたのだろうか。あるいはこの当時からビザ相互免除協定でもできていたのだろうか。実に日本は国際連合にも入れてもらえてなかった時期である。
ともかくも「比国人は上等な民族ではありません」などと書いている。こんなの今書いたら大問題になるだろう。
サイゴンは、メコン川を遡上して入る感じだったようで、大型の船舶が入れるほどの川であったということである。それはヨーロッパでも貿易港のアントワープあたりもそのようで、国際的には意外と標準的なのかもしれない。
また、インドシナ戦争の後だったことからか、正常が混乱していると書いている。この時期はゴディンジェム政権だったようだ。
このサイゴンには3日ぐらい停泊していたようだ。なるほど、それなら町歩きもしてみたいと思うだろう。ただしビザがあれば。
ただ、ベトナム人の信用的なさも感じたようで、はがきを送ると3人が3人とも違う料金を請求されたと言う。というか、ベトナム人は昔から適当だったのだろう。今でも適当である。

まだ21時半過ぎであるが、眠くなってきたので寝ることにしよう。

今日の決死出演は7名(累計19名)。

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です