そもそもの始まりは、中国語版Wikipediaで「滅門」という言葉を検索したことからだった。
向こうの殺人事件に関する用語は、以下のようになっているらしい。
・命案:殺人事件
・情殺:恋人間での殺人
・劫殺:強盗殺人
・分屍:バラバラ事件
・棄屍:死体遺棄
・箱屍:死体箱詰め
・滅門:一家鏖殺
・破案:犯人逮捕による事件解決
・凶宅:殺人事件のあった家
・伏法:死刑執行
1958年、香港の銅羅湾に近い啓超道の集合住宅のでその「滅門」が発生し、なおかつそこが60年の時を経て残っているというのだ。
実は、これこそがこのデモで騒がしい時に香港に来ようと思った理由である。
香港といえば何十階という摩天楼が連なる密集都市。
それがよりによってなぜ60年という長い間建て変えられもせずに残っているというのか….
では、当時の新聞から事件を追ってみたい。
1958年9月16日の華僑日報の「本港新聞」という社会面で、事件の発生を伝えている。
この発生時点で分かっていたことは、「9月15日午後、鋏を持った3人組の強盗が押し入り、3人を刺し殺し、2人に傷害を与えた」というもの。
この事件で世帯主の妻(47)、世帯主の岳母の娘(29)、その子供(1)が死亡、世帯主(47)、世帯主の岳母(70)が怪我を負った。
また、14,000元余りの金額が奪われたという。
通報を受けてすぐに警察から60名の捜査員が出動し捜査に当たった。
ところで、この惨禍に遭った一家はどれほどの金持ちであったか。
もともとは広東省開平出身であったがアメリカで財を成し、香港に戻って家族で住んでいたという立志伝中の人であった。
この香港史上例を見ない凄惨な殺人事件は、電話によって警察に通報された。
その容疑者の逮捕が伝えられたのは、9月27日の工商晩報である。
3人組の強盗のうち2人が、逮捕されたのだという。
・・・という事実の列挙だけでは物足りないので、ここはWikipediaから拾い読みしてみることにしたい。
この3人組の強盗のうちの1人が、世帯主の岳母の娘(29)の同郷であり元カレだったのだ。
そして鋏が凶器だったのは、3人組のうちもう1人が仕立て屋だったからだったようである。
久闊を叙するふりをして中に入って、そして強盗を働いたというのがこの事件の真相であるようだった。
Google翻訳を利用して訳そうと思ったが、余りに残酷な事件であり、とりあえずリンクがあるので読んでもらうことにする。
3人組のうちの2人は翌1959年2月7日、赤柱監獄で絞首刑となった。
もう1人は大陸に逃げてしまい、香港警察では追うことができなくなっていた。
この時期、大陸中国は大躍進政策の末期となる。
大陸に逃げた男は、どこかで文化大革命の波に巻き込まれたのだろうか。
ちなみに、香港における死刑は1966年11月16日を最後に執行されていないという。
最後の死刑囚は、この年の7月3日に、ダンサーと結婚する金欲しさに青山道の会社に強盗に入り、警備員を殺した34歳のベトナム華僑の男であった。
この事件から死刑に至るまでは「一賠一」という演劇になっており、死刑制度の是非について問う作品となっているようである。
・・・ということで、その「凶宅」が残っているというので行ってみることにしたい。
佐敦のホテルからは、地下鉄を乗り継いでいけば割とすぐである。
1958年当時であれば、やはり天星小輪で行ったのであろうが、後の予定も控えているのでそうも言っていられない。
銅鑼湾の駅を降りてすぐの所に、その事故物件つまり凶宅はあった。
香港の古いビルであれば、各窓に冷房の室外機が付いているところであるが、その部屋だけ付いていない。
築60年は優に超えるこの低層ビルを誰かが買い取って高層ビルにしないものだろうか。
それでスラムクリアランスならぬ凶宅クリアランスはできるような気がするのだが。
さて、次の用事もあるのであとは朝食でも食べて西九龍駅に行きましょう。
近くに松屋があるはず・・・ さすがにシュクリメリはないだろうか・・・
と思ったらそこには吉野家しかなかった。
まあそういう所にこだわっている暇はないので、急いで地下へ降り吉牛を書き込む。
「つゆ抜きで」と頼んでみたかったが、向こうは不思議そうな顔をするだけ。
急いで掻き込んで次の予定へ行きましょう・・・!